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白隠の達磨 |
当時、隻手の声など、全く意味不明で、大いに困惑したことを覚えています。過日、そのことをふと思い出し、ネットで調べてみると、何人かのサリンジャー・ファンが、一人では生きていけない、と理解していることを知りました。なるほど、と思いました。受け止め方など、人それぞれですから、それはそれで良いのでしょう。ただ、禅の公案への回答としては、門前払いをくらうことになると思われます。公案は、雲水が悟りの境地を目指す修行の一つとして行われます。悟りへ至る思考的な道案内とも言えます。公案を解きながら悟りに至る禅は看話禅と呼ばれ、臨済宗が重視しています。一方、曹洞宗の黙照禅は、道元の“只管打坐”という言葉にあるとおり、ひたすら座禅を行う事で無の境地を目指します。
有名な公案の一つに「狗子仏性」があります。唐代の高僧・趙州従諗に、弟子が「犬にも仏性はあるか、ないか」と問うと、趙州は「無」と答えます。涅槃経には「一切衆生悉有仏性」という言葉があり、生きとし生けるものは、皆、仏としての本質を持っているとされます。趙州の答は、これと矛盾します。さて、なぜ趙州は「無」と答えたのか、ということが問いになります。看話禅では、最初に出される公案の一つとされ、白隠禅師も苦しんだようです。後に白隠は、「狗子仏性」よりも葛藤を与えやすいとして「隻手の声」を考えたとされます。白隠コレクションで有名な福山の神勝寺で、白隠が描いた隻手の墨画を見たことがあります。郭公の声を聞こうと両耳に手をあてる猿が描かれ、”きかざるも隻手をあげよ郭公”と書かれています。
「狗子仏性」にも「隻手の声」にも、様々な解釈があるようですが、最終到達点は「空」につきると思います。ただ、これほど説明することが困難な概念もありません。「色即是空、空即是色」で知られる般若心経は、わずか278文字で空の本質を伝えると言われますが、同じ目的で記された大般若経は全600巻という大冊です。ところで、狗子仏性ですが、それを問うた弟子は仏性へのこだわりが強く、趙州の「無」とは、こだわること自体が無意味なのだと言っているのでしょう。一方、隻手の声が意味するところは、ストレートに「空」そのものなのだと思います。まさに色即是空・空即是色です。三法印に言う諸行無常(すべてのものは変わる)、諸法無我(すべてのものに本質はない)、涅槃寂静(無常・無我を実践し煩悩から解脱する悟りこそが安らぎである)というわけです。
”空”を頭で理解した気になっても、確信に至ることは極めて困難です。確信の境地に至ったとしても、それを人に伝えることは至難の業です。さらに、無常、無我を実践して、悟りの境地に至ることなど到底あり得ないとさえ思います。だからこそ、座禅や公案といった修行の日々を送ることが大事だと言えます。道元の言う「修証一等」あるいは「修証一如」、つまり修行の実践こそが悟りである、という言葉にもつながります。さて、サリンジャーは、いかなる思いを持って隻手の声を記したのでしょうか。ナイン・ストーリーズは、シュールなタッチで描かれた疎外感のスケッチ集だと思います。隻手は疎外感を表わしているのかも知れません。ただ、そこにあるのは「一人では生きていけない」といった甘い情感ではなく、むしろ絶望感すら漂うアメリカ社会の現実だったように思います。傑作短編集だとは思いますが、禅の精神からは遠いところにありそうです。(写真出典:jikyu-an.com)