2023年9月12日火曜日

隼人征討

隼人の盾
弟の山幸彦と兄の海幸彦は互いの生業の道具を交換します。山幸彦は、兄の大事な釣針を海でなくし途方に暮れます。そこに現れた潮の神によって、山幸彦は、海中の綿津見神(わたつみ)の宮へ送られます。そこで海神の娘である豊玉姫といい仲になった山幸彦は、3年を過ごします。里心がついた山幸彦は、兄の釣針をもって故郷へ帰ります。山幸彦は、海神がくれた潮を満ちさせる玉と潮を引かせる玉を使って、兄を服従させます。そこへ妊娠していた豊玉姫が来て子供を出産します。山幸彦は、見てはいけないと言われた産屋を覗き、そこに横たわるサメの姿を見つけます。それを恥じた豊玉姫は子供をおいて海に戻ります。子供は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられ、長じて神武天皇の父となります。

古事記や日本書記の山幸彦海幸彦の神話です。海幸彦の子孫は、薩摩隼人、大隅隼人となります。隼人は、陸奥の蝦夷同様、ヤマト王権に従わない”まつろわぬ民”でした。紀元前2世紀頃の漢書によれば、倭国は100余りの国があるとされ、1世紀になると、倭奴国王の金印が示すようにある程度統合が進んだものと思われます。2世紀後半には倭国大乱が起こりますが、邪馬台国の卑弥呼が部族連合の頂点に立つことで乱を収束させます。ただ、全部族が連合したわけではなかったようです。中国の歴史書に倭国の記載が消える”空白の4世紀”に、ヤマト王権が連合の長になったと推定されていますが、やはり連合に参加しない部族も残ります。それは、稲作を生業としない民だったのでしょう。

5世紀の宋書に言う”倭の五王”の時代、ヤマト王権は国内を平定し、朝鮮半島にも進出する大王となります。王権の外にあった陸奥の蝦夷、九州南部の薩摩隼人、大隅隼人に対する征討も繰り返し行われますが、簡単ではありませんでした。720年に隼人の反乱が起こり、これを征討した王権は隼人を服従させます。その80年後には、蝦夷征討も、ほぼ完了します。征討にあたり、ヤマト王権は、武力の行使のみならず、饗応、分断化、包囲孤立化、移住、官職登用など、様々な方策をとっています。山幸彦海幸彦神話も、大国主の国譲りと同様、隼人を天孫降臨神話に取り込み、服従させようとするヤマト王権の情報操作だったと思われます。

蝦夷の場合、天孫降臨神話への取り込みは行われていません。陸奥も、鉱物資源はじめ朝廷にとっては重要な地域だったわけですが、南洋の島々、中国、朝鮮半島につながる九州南部は、はるかに重要度が高かったと思われます。また、広大で山がちな陸奥には、多数の部族が分散していました。一方、隼人は、薩摩隼人、大隅隼人とまとまった部族を形成しており、外交策も展開しやすかったものと思われます。朝廷は、隼人を武人として、あるいは呪術師として活用し、畿内への集団移住も行っています。必要性もあったのでしょうが、むしろ広い意味での懐柔策、反乱抑制策という面もあったのではないでしょうか。対して、蝦夷のアテルイは都で断首されています。この違いは、地域の重要度の違いもありますが、朝廷の力が増したことの表れでもあるのでしょう。

神話への取り込みという観点からは、天孫降臨の地も気になるところです。一般的には、天孫降臨の地は宮崎県北部の高千穂峡とされますが、その根拠は「日向国風土記」です。ただ、風土記に先立つ古事記では場所の特定はされず、日本書紀では、霧島連山の高千穂峰とされています。いずれが天孫降臨の地なのかということも興味深い話ですが、それ以上に、日本書紀が、なぜ隼人の本拠地であった霧島を天孫降臨の地としたのか、ということが気になります。古事記では、意図的に場所の特定を避け、いずれともとれる記載にした可能性もあります。やはり、情報操作による隼人の取り込みが意図されたのではないかと思ってしまいます。それにしても、他部族を取り込むに際して大和朝廷がとった戦略の見事さには驚くばかりです。その硬軟取り混ぜた諸策の展開は、現代の外交に通じるところもあると思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷