紀元前3~2世紀、共和制ローマとカルタゴは、3次に渡るポエニ戦争を戦います。第1次ポエニ戦争で敗れたカルタゴはシチリアを失います。カルタゴは、領土を拡大するため、ハミルカル・バルカ将軍に命じ、未開の地であったイベリア半島を植民地化します。26歳で父の跡を継いだハンニバル・バルカは、ローマ制圧を目指して、ピレネー山脈を越えます。海路を採らなかったのはローマの海軍力を恐れたためと言われます。ハンニバルは、ガリア人と戦い、あるいは買収し、ローマの目をかいくぐりながら、アルプスに到達します。ただ、季節は晩秋に至っており、険しい道に深い積雪という悪条件を考えれば、春を待っての進軍がまともな判断です。しかし、雪解けを待てば、ローマ軍の迎撃態勢が整うことは明白であり、ハンニバルは冬のアルプス越えを決断します。
過酷なアルプス越えで軍勢の半数を失ったとされますが、ハンニバルはイタリア半島に入ります。冬のアルプス越えを想定していなかったローマ軍は、完全に虚を突かれます。北部イタリアを制圧したハンニバルは、軍勢を回復させ、南下を開始します。ハンニバルは、連勝を重ね、イタリア南部のカンナエに達します。反撃態勢を整えたローマ軍も急行し、有名なカンナエの戦いが行われます。ローマ軍7万に対して、5万と劣勢だったカルタゴ軍でしたが、ハンニバルの包囲殲滅作戦にょって圧勝します。理想的な戦術ながらリスクも大きいとされる包囲殲滅戦ですが、カンナエの戦いは、史上希に見るほど完璧な成功を収め、ローマ軍は壊滅します。以降、ローマは、直接的な対戦を避け、ハンニバルの消耗を待つ作戦を展開します。
ここで大きな謎が発生します。ローマ軍を壊滅させたハンニバルは、一気にローマを攻撃できたはずですが、動きを止めます。部下たちも、ローマ進撃をうながしますが、動きませんでした。市民が重装歩兵となって守る城塞都市の攻略は、簡単ではないことを知っていたからだと言われます。会戦では天才を発揮するハンニバルでしたが、城塞包囲戦はまったく別な戦いであり、時間と装備が必要です。また、包囲側は、援軍によって挟撃されるリスクもあります。ただ、戦術面以上に大きな問題は、ローマ陥落後の半島をいかに統治するかという点だったと思われます。ハンニバルに人的資源は少なく、かつ、イタリア侵攻に距離を置いていたとされる本国からの支援も期待できません。これが、ハンニバルがローマ侵攻を思い留まった最大の理由ではないかと思います。
その後、半島南部に封じ込められる形となったハンニバルは、徐々に勢力地域を狭められ、ジリ貧状態になります。逆に、ローマはアフリカに渡り、カルタゴに騎兵を供給してきたヌミディアを制圧、カルタゴに迫ります。本国に呼び戻されたハンニバルは、ザマの戦いにおいて、スキピオ・アフリカヌスに敗北し、第2次ポエニ戦争は終結します。紀元前4世紀のアレクサンダー大王の時代までは、戦闘に勝つことが、戦争に勝つことでした。第2次ポエニ戦争以降、そのような牧歌的な構図は失われたわけです。そのことを教えてあげたい人が、現代のロシアに一人います。ちなみに、その後、カルタゴの行政を担ったハンニバルは、見事な手腕を発揮し、国家再建を果たしました。ただ、その剛腕ゆえに反感を買い、結果、シリアへ亡命し、最後は自殺しています。(写真出典:en.wikipedia.org)