西郷隆盛像が軍服を着ていない理由は明確です。西郷は、戊辰戦争を新政府側の勝利に導いた立役者ながら、西南の役では朝敵、賊軍となります。1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復したことから、銅像の建造計画も動き始めます。とは言え、朝敵となった人間に帝国陸軍大将の軍服を着せることは、さすがに憚られたのでしょう。加えて、明治政府は、軍服姿の西郷像が反政府勢力の求心力になることを恐れたのかもしれません。だとすれば、そもそも政府は、何故、西郷像の建造を許可したのか、という疑問も湧きます。明治政府は、一気に中央集権化を進めるため、賊軍に対して厳しい処置を行っています。建造が許可されたのは、西郷が維新の同志であること、あるいは既に中央集権化が実現していたからなのかもしれません。
明治政府が銅像の建造を許可した最大のねらいは、旧薩摩藩士、西郷を支持した士族、そして明治政府に不満を抱き、西郷にシンパシィを感じる国民の懐柔にあったものと思われます。明治政府は、建造資金の一部を提供しています。一方で、皇居前という設置場所の案を拒否し、上野恩賜公園を指定しています。さらに、西郷像の目線は、皇居を外して、南南東に向けられています。南南東に意味があるとは思えませんが、強いて言えば、先には流刑地だった八丈島があります。明治政府が加えた微妙な匙加減が感じられます。その最たるものが、浴衣姿だったのでしょう。庶民的と言われますが、家族や旧薩摩藩士からすれば、屈辱的だったのではないかと思われます。しかし、名誉回復したとは言え、朝敵だったことを考えれば、文句も言えなかったわけです。
西郷像に限らず、薩長政権の、かなり強引な、時としてきめ細かな広報戦略には驚かされます。王政復古という方便、官軍賊軍という構図を生んだ錦の御旗、武士集団を無力化した版籍奉還、廃藩置県など、天皇を利用して、倒幕・中央集権化を成し遂げたものの、実態は武家政権の交替だったわけですから、様々、辻褄を合わせる必要があったということなのでしょう。その天使のような大胆さと悪魔のような細心さには舌を巻きます。しかし、広報戦略をリードした元勲や外国人顧問の名前は聞いたことがありません。想像するに、多くは、冷徹な政治マシーンとも言える大久保利通のセンスによるものだったのではないでしょうか。ビスマルクを目指したという大久保は、内務省を通じて、独裁体制を築いています。
今につながる日本の官僚体制は、すべて大久保の内務省に始まると言ってもいいと思います。西郷像に関する匙加減は、既に大久保が暗殺された後のことですから、彼の薫陶を受けた内務官僚たちによるものだったのでしょう。武力で政権を奪取した者が最も恐れるのは武力革命です。武家を一気に無力化し、薩長による中央集権化を実現した大久保は、1878年、不平士族によって暗殺されます。西南の役の翌年のことです。西南の役は、西郷が自ら朝敵となり、自らの命と引き換えに武家の不満を抑えたという面もあります。幼なじみの西郷と大久保は、大きな絵柄を共有し、それぞれが得手とする分野で、命を懸けて武士の無力化を成し遂げたとも言えるのでしょう。大久保が生きていたとすれば、浴衣姿の西郷像を見て何と言ったか聞いてみたいように思います。(写真出典:yomiuri.co.jp)