2025年8月15日金曜日

「アイム・スティル・ヒア」

監督: ヴァウテル・サレス    2024年ブラジル・フランス

☆☆☆☆

1964年、ブラジルでは、アメリカに支援されたカステロ・ブランコ将軍がクーデターを起こし、左派政権を倒します。東西冷戦の時代、キューバ革命に恐れを成したアメリカは、南米各国の左傾化に神経をとがらせ、様々な介入を行っていました。ブラジルの軍事独裁政権は、1985年まで続きます。言論統制、左派勢力への弾圧が行われますが、とりわけ1969年に大統領に就任したガラスタス・メディチ将軍は、検閲を強化し、反対勢力に対する法的根拠のない逮捕や投獄、誘拐、拷問など信じがたい人権侵害を繰り返します。メディチ時代は、「鉛の時代」と呼ばれます。本作は、鉛の時代、1971年に発生した元国会議員ルーベンス・パイヴァの逮捕・失踪事件に基づいています。

本作は、典型的な政治サスペンス映画とは全く異なり、ルーベンス・パイヴァの妻エウニセ・パイヴァの苦難と戦いの40数年が描かれています。実に画期的なアプローチだと思います。ルーベンスの自宅は、イパネマ海岸近くの高級住宅街にある海に面した家でした。ある朝、軍関係者が自宅を訪れ、彼を連行します。軍も国も、ルーベンスの逮捕に関して、知らぬ存ぜぬを決め込みます。エウニセは、5人の子供を育てながら、軍や国と戦い続けます。戦うために法律を学んだ彼女は、弁護士資格も取得し、先住民を助ける活動も行っています。エウニセの辛抱強い取組の結果、逮捕から30年を経て、国はルーベンスの死亡証明を出し、軍も殺害への関与を認めます。しかし、1979年の恩赦を理由に実行犯の公表と処分はなされず、遺体の所在も不明のままです。

エウニセは、15年間、アルツハイマーを患い、2018年、89歳で亡くなっています。エウニセを演じたのは、俳優で作家という才人フェルナンダ・トーレスです。その抑制の利いた演技は実に見事なものです。彼女は、その演技で、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ主演女優賞を獲得しました。実は、彼女の母親は、ブラジル史上最高の女優とされるフェルナンダ・モンテネグロであり、かつて、アカデミー賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされながらも受賞を逃しています。親の無念を子が晴らしたわけです。95歳になる彼女は、本作でも、老年のエウニセを演じ、さすがの演技を見せています。ちなみに、本作自体も、アカデミー作品賞にノミネートされ、ブラジル初となるアカデミー国際長編映画賞を獲得しています。

「セントラル・ステーション」(1998)でベルリンの金獅子賞を獲得しているヴァウテル・サレス監督は、実に巧みな監督だと思います。本作冒頭のシークエンスでも、その巧みさを見せつけています。映画は、ルーベンス一家の幸せな日々のスケッチから始まります。やや長めですが、決して冗漫ではなく、軍政の緊張感も含めた時代感が表現されます。実は、この流れるように描かれる日常は重要なメッセージを持っていると思います。ブラジルは、軍政下にありながらも、驚異的な高度成長を成し遂げ、人々は豊かさを実感しました。しかし、一方で、検閲・人権侵害、文化の弾圧が行われていたわけです。全体主義は、甘いマスクを被って人々に近づくものです。右傾化のリスクに直面する昨今のブラジルにとって、このメッセージはとても重要なのだと思います。

音楽は時代感をよく伝えるものです。本作も、音楽をうまく使っています。軍事政権は、音楽も弾圧し、例えば、ボサノヴァは退廃的だとして禁止されます。サンバにロックの要素も加えたトロピカリアは、MPB(ブラジルのポピュラー音楽)の新しいムーブメントでしたが、反体制的なプロテスト・ソングでもあり、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルは投獄され、その後、亡命せざるを得ませんでした。軍事独裁時代、最低でも400人以上が殺害・行方不明となり、2万人以上が拘束されたとされます。これでも、アメリカに支援された南米の他の軍事政権に比べれば少ない方です。日本では、ブラジルの軍事独裁時代の認識が薄いように思います。それは、犠牲者が相対的に少なく、経済が成長し、サッカーのワールド・カップも開催されたからなのでしょう。しかし、そこでは信じがたい人権侵害が行われ、かつ、いまだ清算されていないわけです。(写真出典:eiga.com)

「アイム・スティル・ヒア」