十牛図の牛は自己の仏性を表し、童子にはそれを探し求める自分が投影されていると言われます。十牛図は、十枚の図と詩で構成されます。括弧内は、私なりの解釈です。
見牛(牛の声を聞き、後姿を見る)
得牛(見つけた牛に手綱をかけるが暴れられる)
牧牛(なんとか牛を馴らす)
騎牛帰家(牛に乗って笛を吹きながら家に帰る)
忘牛存人(家に着くと牛は消え、自分が牛を得たことも忘れる)
人牛倶忘(牛だけでなく、ついに自分をも忘れ、空の世界に入る)
返本還源(世の中の本当の美しい姿が見えてくる)
入鄽垂手(悟りを得た者は、それを広く伝えなければならない)
十牛図は、悟りに至るプロセスを示すというよりも、禅僧の修行プロセスを語っているように思えます。第3図の見牛までは、自己の仏性を求めて座禅と問答を繰り返します。第4図の得牛で、おぼろげながら真理を理解するまでに至りますが、あまりにも捉えどころがなく苦悶します。第5図の牧牛では、ついに自己の仏性と自己が一体化し、次の第6図の騎牛帰家は、心が穏やかになり、修行が終盤に入ったことを表現しているのでしょう。騎牛帰家の絵や像が好まれるのは、修行を成し遂げて得られた平穏という理想を表しているからなのでしょう。第7図と8図では、修行や理屈を超え、自己の存在すら消滅する境地、つまり全ての物質が全否定された色即是空の世界に入ります。これが解脱であり、涅槃の境地に入ったことを示しているのだと思います。
涅槃寂静の境地に達した者は、如来と呼ばれます。解脱したのは、釈迦如来のみとされますが、他にもごくわずかですが如来と呼ばれる仏様もいます。菩薩、観音も高位の求道者ではありますが、涅槃の境地には達していません。解脱することは、それほど難しいわけですから、第8図までで終わってもよいのではないかと思います。しかし、第9図には、現世が新たな美しい姿で見えてくるという大きな展開が待っています。いわば全否定したからこそ、世界は全肯定という美しい姿を現わすというわけです。この展開は、弁証法に通じるものがあるとも言われます。禅が欧米人に人気があるのは、全否定から全肯定という展開が弁証法のアウフヘーベンに似ているからだと聞いたことがあります。分かったような分からない話ではあります。
昨年の東京国際映画祭で上映された蔦哲一朗監督の「黒の牛」は、十牛図を映像化した作品でした。示唆に富む映画だったと思います。監督なりの解釈による十牛図ということもあり、やや難解なところがありました。十牛図で言えば、映画は得牛というレベルにあったようにも思います。空という概念は、本当に難しいと思います。おぼろげにその概念を理解することはできても、それを人に説明する、さらには体得して生きていくとなると至難の業となります。蜃気楼のようでもあります。それを映像化しようというチャレンジは、賞賛に値します。しかし、「黒の牛」は、十牛図に迫るほどの説得力は持っていませんでした。(写真出典:shop.takarasagashi.co.jp)