2022年11月29日火曜日

象潟

松尾芭蕉が「おくのほそ道」の行脚に出たのが、1689年。西行の500回忌にあたり、西行が訪れたみちのくの歌枕を巡ろうという旅でした。150日間、2,400kmという長旅でした。その最北の到達点が秋田県の象潟(きさがた)でした。かつては、内海に多数の小島が浮かぶ景勝地であり、東の松島、西の象潟と呼ばれました。平安期には、中古三十六歌仙の一人・能因法師が訪れす。その絶景に心を奪われた能因は3年間も逗留し「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」と詠んでいます。鎌倉時代には、漂白の歌人・西行が訪れ「きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだことから、芭蕉のみならず、小林一茶、与謝蕪村なども訪れた俳人あこがれの地だったようです。

芭蕉は、象潟を「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と評しています。芭蕉は、松島で絶景に感動し、一句も詠めなかったとされます。あるいは、あえて「おくのほそ道」には一句も掲載しないことで、松島を絶賛したのかも知れません。ただ、象潟では「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。突然の西施ですが、芭蕉は、松島を中国の洞庭湖や西湖に負けないと評しています。象潟でも似たような感想を持ったものの、松島とは異なる印象を、西湖や太湖にゆかりの西施に託したのでしょう。秋田の県南地方は、小野小町はじめ、美人の産地としても知られます。美人を多く目にして、西施を思い浮かべたのではないかというのは、さすがに下衆の勘ぐりなのでしょう。

起源前5世紀、鳥海山の噴火によって流れ出た土石が日本海を埋め、広大な内海と多数の小島から成る象潟の絶景を形成したようです。ただ、1804年、地震によって海底が隆起し、象潟は陸地になります。私たちは、西行、芭蕉が目にした絶景を見ることはできず、ひたすら想像を働かすだけです。ただ、田んぼや湿地に点在する多くの小山から、容易に当時の様子を思い浮かべることができます。道の駅「ねむの丘」6階にある展望塔から、象潟と、その南に雄大な姿を見せる鳥海山を眺めれば、今でも十分以上に見事な景色だと思います。道の駅からほど近い島(?)に、853年開山という蚶満寺(かんまんじ)があります。司馬遼太郎も、「街道をゆく」のなかで、戦友だった蚶満寺住職を訪ねています。

象潟が陸地化すると、本荘藩は、干拓を進め、これを新田にしようとします。石高2万という小藩の判断としては理解できる話です。ただ、実際には、塩分がきつくて、簡単に稲は実らなかったものと想像できます。藩の計画に対し、文人ゆかりの景勝地を守るために猛然と反対したのが、蚶満寺住職・全栄覚林でした。覚林は、自ら工作し、象潟を閑院宮家の祈願所とします。いわば朝廷の威を借りて、本荘藩の新田開発に待ったをかけたわけです。藩の意趣返しを恐れた覚林は、上野の寛永寺に逃れます。ただ、藩によって冤罪で捉えられ、獄死しています。今、私たちが象潟の絶景を見れるのは、命を懸けて戦った覚林のおかげです。覚林は日本初の環境保護運動家であり、象潟は環境保護運動の聖地だとも言えます。

1963年、象潟は、鳥海山等とともに、国定公園として認定されています。かつては、九十九島と呼ばれていましたが、現在、確認できる「島」は大小合わせて102を数えると言われます。春の田植えのシーズンには、田んぼに水が入り、往時の九十九島を彷彿とさせるそうです。千年を超す古刹・蚶満寺ですが、田舎の古寺といったひなびた風情です。拝観料300円を受け付ける小屋は無人で、たまたま出会った若い住職を捕まえて支払いました。境内には、2匹の猫がおり、私たちについてきました。その鳴き声は、まるで人間が話しているように聞こえ、「ちゃんと拝観料を払えよ」と言っているように思えました。事実、庫裏で住職に拝観料を納めると、猫たちは奥へと入っていきました。(写真出典:nikaho-kanko.jp)

マクア渓谷