2022年11月13日日曜日

家紋と屋号

総理大臣・政府・内閣府が、記者会見等の際に使う演台には、その紋章と定められている五七桐が付けられています。ホテルのロゴ・マークだと思っている人も少なからずいるようです。そもそも家紋自体が、若い人たちにとっては縁遠い存在なのでしょう。皇室の紋章と言えば、菊花紋章、つまり菊の御紋ということになります。法律の定めはないものの、慣例として、日本国の国章としても使われます。パスポートの表紙としてもお馴染みです。五七の桐花紋は、もともと天皇家の副紋でした。ただ、功績のあった家臣に授けることもあり、次第に、天皇家は菊の御紋だけを用い、五七桐は武家等にも広まり、現在は内閣府も使っているというわけです。

日本の家紋は、欧州貴族の紋章とともに、他に類を見ない文化だと言われます。おおよそ何でも中国渡来の文化が多い日本ですが、家紋は、中国にも、韓国にもないようです。家紋の起源は、平安時代、貴族たちが、各種装飾紋様を各家に固有な紋様に特化させ、目印的に使い始めたことにあるようです。平安末期、武家の時代が始まると、まだ装飾的だった家紋は、各武家を象徴する印として、旗や幕などに使われ始めます。戦場における敵味方の区別、あるいは武士個人の活躍を鮮明に伝える意味もあったのでしょう。鎌倉期、本格的な武家と合戦の時代を迎えると、家紋は、武家の間で急速に広がっていったようです。一方、家格が明確に定められている公家の世界では、家紋は廃れていったということです。

江戸期になると、合戦場における家紋の意味はなくなり、家の格式を誇示するためのものへと変化します。さらに、苗字を持たなかった町民や農民の間でも、家を識別する目的で、家紋が広がっていったようです。欧州の紋章が、貴族だけに限られ、かつ家ではなく、個人を現わしていることとは大きく異なります。欧州の紋章は、個人を象徴するだけに、同じ紋様にならないように厳密に管理されているようです。日本は、本家だけでなく、分家も同じ家紋を使うことから広がりを見せ、同じ家紋が多く存在します。日本の家紋としては、241系統、5,116の家紋が確認されているようです。呉服商だった我が家の家紋は”丸に蔦”です。これは客を掴むという意味で、商家で好んで用いられた家紋だそうです。

我が家の家紋は蔦ですが、屋号は”カクニジュウ”といって、二十という漢字を四角い線で囲みます。意味は不明です。屋号と言えば、現代では商号を指しますが、江戸時代には、家紋と同様、苗字を持たない庶民を区別するために使われたようです。それであれば家紋で十分とも思いますが、家紋は一族を示す図案であり、屋号は各家族の呼び名として機能したのではないかと思います。地理や家の形などをベースに記号と文字を組み合わせた屋号は村落に多く、都市部では、商号を屋号とする場合が多かったようです。ヤマサ醤油やキッコーマンは、村落系の屋号を商号とした例となります。都市部の屋号の例としては、松屋、高島屋、紀伊国屋などがあげられます。

屋号と言えば、歌舞伎役者などの屋号も有名です。成田屋、音羽屋などと、大向うと呼ばれる常連客がかける掛け声は、歌舞伎名物でもあります。掛け声は、タイミングや声の調子など、なかなか難しいものであり、素人はやっていはいけないとされます。市川団十郎の成田屋は、初代団十郎が成田山新勝寺の門徒だったからとされます。ただ、多くの場合は、歌舞伎役者が経営していた商家の屋号からきているとも言われます。役者たちは、河原乞食と呼ばれる賤民でしたが、江戸中期以降、歌舞伎の人気が高まると、名声と財力を高めていきます。そして、商店街に店を持つことが許されるまでになります。多くは舞台にも関係する小間物屋、化粧道具屋を営んだようです。そこで使われた商号が、そのまま屋号になったわけです。(写真出典:wikiwand.com)

マクア渓谷