2022年11月6日日曜日

関ヶ原

東海道新幹線に乗って、関西方面へ向かう時、決まって、進行方向右側の窓側の席に座ります。富士山の雄姿を拝みたいからです。いくつになっても、富士山を見ると、素直に感動し、心の中で合掌しています。そうさせる山だとも思います。実は、もう一つ、右側の席に座る理由があります。関ヶ原の古戦場です。古戦場は、新幹線の南北に広がります。南側には、吉川広家が布陣した南宮山、その後ろに毛利秀元が陣した栗原山があります。しかし、どうしても関ヶ原中央部と松尾山が見たくて、進行方向右側に座ります。もう飽きるほど見てきた風景なのですが、いまだに合戦に思いを馳せながら、しっかり見てしまいます。

1885年、明治政府の要請に基づき、軍事顧問として来日したドイツ帝国のメッテル少佐は、関ヶ原の布陣図を見るなり、西軍勝利と断じたとされます。布陣だけ見るなら、軍略家ならずとも、ど素人でも西軍の勝ちと判断できます。東軍を袋小路に誘い込む布陣は、それほど見事なものでした。当然、徳川家康も、そう思ったはずです。しかし、家康は、陣を関ヶ原中央まで進め、合戦に勝利します。家康は、東軍の左翼後方に陣取る毛利軍が動かず、正面左翼の小早川秀秋が寝返ることを知っていました。西軍の完璧な布陣は、戦う前から破綻していたわけです。ちなみに、メッテルの話は、有名な話ですが、根拠もなく、司馬遼太郎の創作と見られています。この人は、たまにこういうことをやらかします。

巷間、小早川秀秋の寝返りで西軍は負けたとされますが、勝敗を分けた最大の要因は、毛利一族の吉川広家が、毛利本隊を大阪城に留め、関ヶ原にあっては、毛利秀元軍の前に陣取って動きを封じたことだと思われます。家康に内通していた小早川秀秋も、毛利軍が動かないことを見て決断し、大谷吉継の陣に襲いかかったのでしょう。小早川寝返りの動きは、広く西軍に知られており、大谷軍も、松尾山方面に対する防御を固めていました。しかし、正面での戦いが熾烈となり、防御の兵の一部を正面に回さざるを得なかったようです。家康の周到な戦いぶりは理解できますが、一方で、吉川や小早川の動きも掴んでいたはずの石田三成が、なぜ、事前に、有効な対応策を打たなかったのかが気になるところです。

諸説あるのでしょうが、煎じ詰めれば、三成の過信、あるいは三成の人となりということになるのではないでしょうか。神君家康の仇とされ、江戸期の文献では、悪人扱いですが、両論ある人だったようです。家康打倒を決断した三成を諫めつつ、その熱意に参戦を決めたとされる大谷吉継は、世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く、石田殿には智はあっても勇は足りないと見える、と語っているようです。若くして秀吉の側に仕え、能吏ぶりを発揮した三成は、武将たちの反感を買うことも多かったようです。加藤清正、黒田長政ら七将による三成襲撃事件など典型です。君主に忠実な能吏ではあっても、将としての器には欠ける面があったのでしょう。ギリギリまで西軍の切り崩しを図った家康とは大違いと言えます。

吉川広家は、家康優勢と確信し、毛利領安堵を条件に東軍に加担しています。小早川秀秋は、秀吉の正室である北政所(高台院)の甥であり、秀吉の養子として高台院に育てられます。慶長の役後、秀吉によって、転封のうえ、減封されます。戦場における軽率な行動を咎められたとも言われます。一旦失った領地でしたが、秀吉亡き後、家康によって復領されます。小早川秀秋は、家康に深い恩義があったわけです。加えて、母とも慕う高台院のためにも東軍につくべきだと説得されています。高台院は、三成・淀君連合と対立関係にあり、三成は高台院の敵だというわけです。このあたりは、後世の作り話も多く、よく分からないところです。等々といった背景に加え、わずか6時間で決着した合戦経過にも思いをいたしながら、車窓から景色を見ていると、関ヶ原は、あっという間に通り過ぎていきます。(写真出典:kamurai.itspy.com)

マクア渓谷