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A.フェノロサ |
国宝に指定されてる美術工芸品や建造物は、現在1,100件余りあります。文化財保護法に基づき指定された重要文化財1万点のなかで、特に価値の高いものが国宝と指定されます。文化財保護法は、1871年制定の古器旧物保存方、1897年の古社寺保存法、1829年の国宝保存法を引き継いで、1950年に公布されています。明治4年の古器旧物保存方は、廃仏毀釈で破壊された文化財を調査するために制定されました。その調査は、後に古社寺保存法として、古社寺の建造物や文化財のなかで、特に重要なものを特別保護建造物、あるいは国宝に指定して保護することになります。ここで初めて”国宝”という概念が登場することになりました。
言ってみれば、国宝という考え方は、廃仏毀釈が生んだということになります。廃仏毀釈とは、仏を廃して、釈迦の教えを棄てることを意味します。明治政府は、1868年、および1870年に神仏分離令を発出します。天皇を国体とする中央集権国家を目指した薩長政権は、神道を明確に国の中心に据えようとします。ただ、日本には、奈良時代以降、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えたものとする本地垂迹説に基づく神仏習合が定着していました。そこで、あらためて神仏分離が打ち出されたわけです。幕末には、水戸を中心に反本地垂迹説が唱えられていたこと、また江戸幕府が仏教を社会管理の枠組みとして使っていたことへの反撥もあったものと思われます。
明治政府の意図は神仏分離でしたが、それを背景に、現地の神官や役人たちは、寺や仏像の破壊へと暴走します。仏教支配に対する積年の恨みがあったのでしょう。廃仏毀釈は、数年で沈静化します。1878年、アーネスト・フェノロサが、東京大学で哲学を教えるために来日します。美術に造詣の深かったフェノロサは、日本の古美術に関心を寄せ、弟子の岡倉天心とともに、各地の寺社を巡ります。廃仏毀釈や文明開化の波に押されていた日本美術の状況に心を痛めたフェノロサは、東京美術学校(現東京芸大)の設立や、文化財の保護に奔走します。古社寺保存法は、その一つの成果であり、その際、国宝という概念もフェノロサが提唱しました。
フェノロサの日本美術への貢献については議論の余地はありません。ただ、人物像となると、やや怪しげなところが見え隠れします。日本国内における猟官はまだしも、文化財保護を訴える一方で、国宝級の美術品を多数購入し、ボストン美術館やワシントンDCのフリーア美術館に売っています。美術品の海外流出の先駆けでもあったわけです。しかも、ボストン美術館の東洋部長におさまり、美術館から依頼された浮世絵目録を、無断で出版し、お払い箱になっています。東洋部長時代の不倫がもとで離婚し、その多額な慰謝料に困っていたという話もあるようです。(写真出典:bunan.jp)