2022年11月18日金曜日

酒呑童子

国立能楽堂の普及公演で、”大江山”を観てきました。普及公演の際には、演目にちなんだ解説も行われます。解説は、通常、能楽の研究者たちが行いますが、今回は、文化人類学者の小松和彦氏によって行われました。小松氏が、民俗学の視点から提唱する日本三大妖怪という話があります。大江山の酒呑童子、那須野の妖狐、そして鈴鹿山の大嶽丸です。那須野の妖狐の正体は、中国から日本に渡った九尾の狐であり、鳥羽上皇をたぶらかした玉藻前の正体です。鈴鹿山の大嶽丸は、”薬子の変”の際、坂上田村麻呂によって鈴鹿山で成敗された薬子の兄・藤原仲成らの執心が化け物になったとされます。

三大妖怪の共通点は、討ち取られた首や骸が、いずれも宇治平等院の宝蔵に収納されたということです。その霊力を重視したとも考えられますが、民衆が恐れるものを朝廷が討ち取ったという証でもあり、権威付けのためのトロフィーという意味もあったのでしょう。いずれにしても、酒呑童子、九尾の狐、大嶽丸は、当時、最も恐れられた妖怪であったということであり、その点をもって三大妖怪とするというのが小松氏の説です。ただし、宇治の宝蔵は実在したわけではなく、御伽草子等に登場する架空の宝物庫です。一説によれば、酒呑童子の首は、不浄なものを京に持ち込まないという観点から、京都西部の老ノ坂峠に埋められたとも言われます。首を埋めた場所には社が築かれ、今も首塚大明神として残っています。

10世紀末、京の都では、貴族の姫や若者の神隠しが相次ぎます。一条天皇が、安倍晴明に占わせたところ、大江山の酒呑童子の仕業だと判明します。大江山の所在は、丹後と丹波の間、あるいは京都の西部と二説あるようです。天皇は、源頼光、藤原保昌に討伐を命じます。源頼光は、渡辺綱、坂田金時(幼名は金太郎)などいわゆる頼光四天王を同道します。道に迷った山伏を装った一行は、酒呑童子の屋敷に一夜の宿を乞い、酒を酌み交わします。酒呑童子は、越後の出で、最澄に比叡山を追われ、空海にも追われた過去を話します。源頼光は、「神変奇特酒」という毒酒を酒呑童子に飲ませます。そして、体が動かなくなったところを皆で抑え込み、首をはねます。

酒呑童子の初出は、南北朝末期から室町時代初期とされます。その正体については、帰化人が山賊化したという説、丹後の大江山にあった銅山を朝廷が奪ったことへの反撥説、あるいは一条天皇の時代に流行した疱瘡説があります。この疱瘡は、庶民から赤疱瘡と呼ばれていたようです。赤鬼のような風体の酒呑童子は、ここからきているとも言われます。かつて、朝廷にまつろわぬ者は、よろず鬼と呼ばれていました。疫病も擬人化され、鬼と呼ばれました。また、酒呑童子の出身地とされる新潟はじめ、各地にも酒呑童子に関わる伝承があるようです。最も驚くべきは、国宝にして天下五剣の一振りともされる「童子切安綱」は、源頼光が酒呑童子を切った刀だとされていることです。

思えば、能楽では、日本三大妖怪の全てが、なんらかの形で演目化されています。酒呑童子の「大江山」は、謎の能作者とされる“宮増”の作とされます。また、日吉左阿弥作とされる「殺生石」では、玉藻前こと九尾の狐が描かれています。いずれも五番立てでは最後に演じられる五番目物であり、”切能物”あるいは”鬼能”とも呼ばれます。ただ、世阿弥の作とも言われる「田村」は二番物で”修羅能”と呼ばれます。清水寺に現われた田村麻呂の霊が、”薬子の変”の際、千手観音の助けを得て敵を成敗したことを語ります。大嶽丸は、いわば後日談であり、直接は登場しません。(写真出典:kanko-shinjuku.jp)

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