2022年11月2日水曜日

新宿ゴールデン街

1958年に、売春禁止法が全面適用されるまで、売春が黙認された特殊飲食店が集まる街が存在しました。いわゆる”赤線”です。もともと日本にも公娼制度はありましたが、戦後、GHQの要請によって廃止されます。人身売買を根絶することがねらいだったようです。公娼が禁止されると、街娼が増加し、当局の取締が追いつかなくなります。結果、一定地区内に限り、売春が黙認された特殊飲食店街が生まれます。東京で有名だったのは、吉原、新宿二丁目、玉の井、鳩の街、洲崎などでした。同時に、当局から特殊飲食店の営業許可を受けずに売春を行う、いわばもぐり営業の店が集まる街も生まれ、こちらは”青線”と呼ばれました。闇市からスタートした新宿三光町の飲み屋街も青線でした。

売春禁止法とともに、三光町の青線営業店は、すべて廃業し、ほとんどの店舗が居抜きで飲み屋になります。新宿ゴールデン街の誕生です。新宿区役所と花園神社の間にある、東京ドームのグランドの半分程度という狭い区画に、今も200以上の店がひしめき合っています。1960年代になると、ゴールデン街は、文筆家、演劇人、映画関係者などが集まるユニークな飲み屋街になります。そのきっかけは諸説あるようですが、よく分かりません。それぞれの狭い店には、純文学者、ミステリ作家、ジャーナリスト、俳優、カメラマンなど、細分化されたジャンルの人たちが集まることでも知られています。ゴールデン街に入り浸り、巣立っていった文化人の名前は、枚挙にいとまがありません。常連客のなかには、著名な政治家や経営者も含まれ、あるいは、一部、海外の著名な文化人も出入りしていたようです。

とても、普通のサラリーマンなどが入り込める世界ではありませんでした。歌舞伎町のように、ぼったくりが懸念されるということではなく、狭い店に常連の文化人が集う街は敷居が高すぎました。一度だけ、ゴールデン街で飲んだことがあります。学生向けの入社案内の作成を担当した時、普通のカメラマンによる普通の写真は嫌だと思い、戦場カメラマンにたどりつきました。パレスティナで活動中のカメラマンでしたが、折良く、帰国中であり、引き受けてくれました。案の定、入社案内らしからぬ面白い写真が撮れました。そのカメラマンが、報道写真家が集まる店へ連れて行ってくれたのです。ワクワクもので出かけました。さすがに面白い人たちが集まっていましたが、やはり居心地が悪く、長居もせず、再訪することもありませんでした。

歌舞伎町の名物の一つが、タイガーさんです。タイガーマスクのお面を被り、ド派手な服装に身を包み、自転車で駆け抜けます。最初に見た時は、精神を病んだ人かと思い、気持ち悪かったものです。ただ、新聞配達を本業とする明るい映画好きのおじさんであり、街の人気者でした。タイガーさんのドキュメンタリー映画を観たことがあります。映画界の監督や俳優たちと親交が深く、特にお気に入りの女優さんたちとは、よくゴールデン街で、マスクをとって飲んでいるそうです。自分については多くを語らないタイガーさんですが、マスクを被り始めたのは、1970年代のはじめだったようです。60年代に吹き荒れた学生運動は、東大安田講堂事件を最後に下火に向かいます。社会が方向感を失い、混迷の時代へと入って行った時代です。

1980年代後半、バブルの時代を迎えると、ゴールデン街も、地上げに翻弄されることになります。店主たちは、一致団結して、地上げに抵抗しますが、更地も増えていきます。危機に瀕した店主たちは、団結して、祭を行うなど人を呼び込む努力を重ね、ゴールデン街の存続を図ってきたようです。近年では、インバウンド客も見物に訪れるようです。欧米人にとっては、ブレードランナーの世界そのものに見えるのでしょう。学生運動の終わりとともに、文化の発信地だった新宿は、ただの盛り場に変わっていったように思えます。ゴールデン街も、文化の梁山泊的な熱気は失われたのかも知れません。しかし、タイガーさんは、マスクを被って、街を走り続けてきたわけです。アートなパフォーマーとも言えるタイガーさんですが、ひょっとするとゴールデン街の化身なのかも知れません。(写真出典:mobile.twitter.com/shinjuku_tiger1)

マクア渓谷