NYへ赴任直後、会社が英会話のレッスンを受ける予算を付けてくれました。仕事が忙しかったこともあり、プライべート・レッスンを選択しました。担当してくれた先生は、若い弁護士でした。あまり仕事熱心というタイプでもなく、事務所でもうだつが上がらず、アルバイトをしていたのでしょう。同い歳だったこともあり、聞いてきた音楽、見てきた映画も、ほぼ同じであり、毎回、会話は大盛り上がりでした。ところが、それがいけませんでした。キチッとした英文にならなくても、話が通じてしまうわけです。先生も、英文の間違いを修正することなく、話に乗ってきてしまうわけです。これじゃ、ただの雑談であり、英会話のレッスンとは言えませんでした。
仕事の場面でも似たようなことが起こりました。専門用語が飛び交う専門家同士の会話では、英語の文章の正確さなど問題になりません。問題なくビジネスが進むので、誰も英語の間違いを指摘してくれません。これではいけないと思い、一時期、コミュニティ・カレッジに通いました。まずは、クラス分けのためのペーパー・テストが行われます。日本人の学力としての英語力は高いので、私も上級者クラスに入ります。そこでは、主にイディオムの勉強をしました。大雑把に言えば、イディオムは慣用句です。これが、ある程度分かっていないと、会話は成立しません。そういう意味では役に立ちました。ただ、クラスのディベートでは、ヒスパニック系の皆さんのテキトーな英語に押されまくり、会話力が上がったとは思えませんでした。
日本人の英会話下手の原因については諸説あります。知識詰込型の学校教育、発音の違い、なんでも翻訳する文化、高等教育を日本語で受けられること、外国に支配された経験が少ないこと等々が要因とされます。いずれにしても、まずは学校教育から変えるべきだと思います。中学で基本を学ぶとして、高校では実践的な英語教育をすべきなのでしょう。ただ、その背景には、ペーパー・テスト至上主義が横たわり、ここから変える必要があります。終身雇用や年功序列に大きな変化が生じている実業界の現状を考えれば、教育制度も変わるべき時を迎えています。その判断は、官僚には難しいはずであり、今こそ政治が主導すべきです。ただ、近年、近視眼的政治を加速させてきた自民党政権には、あまり期待できないようにも思います。
英文学は学問ですが、英語は技能だと思います。言葉は、あくまでもコミュニケーション・ツールです。英語を正確に話すことよりも、話したいことがあるかどうかが重要だと思います。高校での英語の授業は実用性第一とし、ペーパー・テストを止める、大学受験からも英語は外す、といった思い切った対応をしてはどうかと思います。つまり学校教育の英会話教室化です。日本語学校の先生をしている先輩から聞いた話だと、日本語の教え方は、それぞれの母国語を一切使わず、教えた日本語だけを使って次の授業を行うのだそうです。それこそが技能教育だと思います。(写真出典:englishhub.jp)