美術館は、旧馬頭町にあります。馬頭は、奈良時代に日本初となる金山が発見された土地であり、里山に囲まれた古い町並みが落ち着いた風情を醸し出す良い町です。美術館は、その風情ある景色に溶け込むような佇まいを持っています。細い木材を多数使った外観は、広重の雨をイメージしているようです。雨の日に、雨をイメージした建屋で、広重の雨を見ることができたわけです。広重は、安藤広重とも言われますが、安藤は姓であり、号としては歌川広重が正しいようです。広重は、1797年、定火消の同心の家に生まれ、本人も跡を継いでいます。ただ、幼少の頃から絵の才能に秀で、15歳で錦絵で知られる歌川豊広に弟子入りし、後に江戸後期を代表する大人気浮世絵師になります。
広重と言えば、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」が代表作ということになります。また、広重は、雨を多く描いていています。特に「日本橋の白雨」、「大はしあたけの夕立」、そして馬頭広重美術館が所蔵する東海道五十三次の「庄野」などが有名です。白雨とは、明るい空から降る雨のことです。この三作は、いずれも夕立を描いていますが、すべて異なる雨の表現をしています。日本橋は降り始めの雨、大はしは本降りの強い雨、そして庄野は篠突く雨といった風情です。広重は、線の太さ、長さ、角度、色を変えながら、様々な表情を見せる雨を描きわけています。広重は、大胆な構図や独特の青で有名ですが、「雨の広重」と言っても良いのではないでしょうか。
広重は、19世紀の欧州に起こったジャポニスムにも大きな影響を与えています。開国とともに、日本の文物が欧州に渡り、珍重されます。ただ、ジャポニスムは、単なる日本趣味を超えて、欧州の絵画に大きな影響を与えました。日本の遠近法を使わず線と色で構成される作画、あるいは大胆な構図などが、欧州の画家たちに衝撃を与えます。欧州の人たちは、線で雨を表現した絵など、見たことがなかったのではないかと思います。そもそも雨粒を描くという発想すらなかったのではないでしょうか。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、広重の「大はしあたけの夕立」を模写しています。漢字も書き込むなど、かなりがんばった模写だとは思いますが、やはり油絵具で広重の雨を再現することは無理だったようです。
日本語には、雨を表わす言葉が多くあります。その数は、150以上とも聞きます。普段、使う雨の表現だけでも結構な数です。恐らく世界に類を見ないほどの多さだと思います。それは、日本が雨の多い国だからということなのでしょう。また、稲作にとって、雨は大きな生産要素でもあります。稲の栽培に与える影響からして、雨の降り方も細かく分類されたという面もあるのでしょう。天からの恵みでもあり、時には災いでもある雨は、日本人の生活のなかで大きなウェイトを占めています。必要性に応じた物理的な分類だけではなく、人の心や営みに寄り添う雨の表現も多くなって当然だと思います。そんな背景があればこそ、広重の雨は生まれたのでしょう。ゴッホには難しい表現だったと思います。(写真:歌川広重「東海道五拾三次之内庄野」出典:hiroshige.bato.tochigi.jp)