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快傑ハリマオ |
ハリマオとは、マレー語で虎を意味します。「快傑ハリマオ」はフィクションですが、ハリマオのモデルとなった谷豊は、実在した人物です。谷豊は、1911年、福岡市郊外で生まれています。谷豊が2歳の頃、一家は、英国領マレーのクアラ・トレンガヌに移住し、理髪店を営みます。クアラ・トレンガヌは、15世紀頃から、中国貿易を中心とする国際交易公港として栄え、戦前は日本人も少なからず住んでいたようです。教育は日本で受けさせたいという両親の希望によって、福岡の祖父母の家から小中学校に通います。その後、クアラ・トレンガヌに戻り、やんちゃな青春時代を過ごし、イスラム教に帰依もしています。国籍が日本のままだったので、20歳のおり、徴兵検査を受けるために、再度日本に戻ります。
ただ、身長が規定に届かず、兵隊になることはありませんでした。谷豊は、そのまま日本に留まり、働き始めます。1933年、クアラ・トレンガヌでは、日本が起こした満州事変に抗議する華僑の一団が暴徒化し、谷豊の実家である理髪店も襲います。その際、妹が惨殺され、生首がさらされます。翌年、一家は、福岡に引き揚げます。妹の一件を聞かされ激怒した谷豊は、マレーに戻り、マレー人の仲間たちを集め、主に華僑を襲撃する盗賊団を組織します。当時の日本の新聞は、義賊とも部下3,000人とも書かれていますが、実態はよく分かりません。ある時、官憲に捕縛された仲間を助けようとした谷豊は、逆に捕まって投獄されます。賄賂を使って、彼を牢から出したのは、マレーに潜伏する帝国陸軍のスパイでした。
当時、日本軍は、シンガポール攻略に向けて、英国領マレー侵攻を計画していました。事前の情報収集と破壊工作のための要員を必要としており、谷豊ほどの適任者はいなかったわけです。彼とその仲間たちは、英国の要塞建設における破壊工作や、橋梁爆破の妨害などで活躍します。マレー半島に上陸した日本軍は、3ヶ月をかけずにシンガポールを占領します。その快進撃の影には、谷豊の貢献もあったわけです。ただ、1941年、マラリアを罹患した谷豊は、白人の作った薬は飲まないと特効薬を拒絶し、30歳という若さで亡くなっています。その活躍が評価され、靖国神社に軍属として合祀されています。谷豊は、死後、現地での通称「ハリマオ・マレオ(マレーの虎)」の名の下に、戦意高揚プロパガンダに利用されることになりました。
それが、なぜ、1961~62年に至ってTV番組化されたのか、興味深いところです。1951年のサンフランシスコ講和条約で、再び独立した日本は、朝鮮戦争による特需を背景に、急速に復興を遂げ、この時期には、高度成長期へと入っていました。ハリマオの放送と同じ頃、力道山が人気絶頂となっていました。空手チョップで、大きな白人をなぎ倒す力道山に、日本人は、敗戦と敗戦後の悲惨な生活の憂さを晴らしたわけです。実は、ハリマオというドラマは、力道山人気とよく似た構図を持っていたのではないでしょうか。帝国陸軍の方便と批判される大東亜共栄圏構想も、悪いことばかりではなかった、と言っているようにも思えます。つまり、白人たちによる植民地支配にあえぐアジアで、日本軍による侵攻が、結果的には各国の独立を促した面もあったわけです。GHQ占領下の日本では、決して許されなかった番組だったとも言えます。(写真出典:aucfree.com)