2022年8月11日木曜日

六花亭

六花亭を知ったのは、大学に入学してからのことでした。当時、六花亭は、帯広にしかありませんでした。帯広に帰省したクラスメートが、土産にホワイト・チョコレートを買ってきてくれました。初めて食べるホワイト・チョコレートの美味しさに驚きました。札幌で買えない希少品ということもあり、格別に美味しく感じた面もあるのでしょう。その後、帯広の定番土産となり、口にする機会も増えていきました。六花亭は、もともと札幌千秋庵帯広支店でした。千秋庵は、1860年、秋田藩士だった佐々木吉兵衛が、函館に開店しています。千秋とは、秋田の秋に、長久の願いを込めたもので、秋田城址公園の名称にもなっています。

千秋庵は、暖簾分けという形で、北海道内に次々と店を増やしていきました。1894年には小樽千秋庵が開店し、1921年には小樽から独立して札幌千秋庵、さらに札幌の支店として帯広店が開店したのが1933年のことでした。当初は和菓子中心でしたが、酪農家の多い土地柄を活かし、洋菓子も製造しはじめます。1963年には、マドレーヌの「大平原」が発売されています。バターがいい仕事をしている絶品で、私の大好物です。そして、欧州視察から帰国した店主・小田豊四郎が、これからはチョコレートの時代が来ると判断し、チョコレートの開発に取り組みます。不二家や明治製菓で商品開発を担当したチョコレートの権威・松田兼一の助言を受け、日本初となるホワイト・チョコレートの開発も行われ、1968年に発売しています。

発売当初、馴染みの薄いホワイト・チョコレートは、さっぱり売れなかったと言います。特許取得も目論んでいましたが、あまりの不振ぶりに辞めたそうです。ところが、1960年代末から起きたカニ族ブームによって、知名度が一気に上がります。カニ族は、大きなリュックサックを背負って旅する若者たちのことです。大きなリュックゆえ、電車内を横に歩くことから、カニ族と呼ばれました。今風に言えば、バックパッカーです。ところが、知名度アップは、大きな問題も惹起します。各地の千秋庵は、商圏を当該地域に限定することで共存を図ってきました。帯広千秋庵は、札幌にも、千歳空港にも店を出せなかったわけです。ホワイト・チョコレートを求める旅行者たちからの苦情が増え、1977年、千秋庵帯広店は、暖簾を返上し、六花亭を立ちあげます。

この独立の年に発売されたのが、六花亭の代名詞となる絶品「マルセイ・バターサンド」でした。北海道産のフレッシュ・バターとホワイト・チョコレートにカリフォルニアのレーズン、それをしっとり感のあるクッキーでサンドしています。小川軒のレーズン・ウィッチを参考にしたとされます。マルセイという名称とクラシックな包装は、十勝開拓の父と呼ばれる依田勉三の晩成社が、1905年、北海道で初めて製品化したバターにちなみます。小田豊四郎は、千秋庵時代に、帯広開基70周年を記念した最中「ひとつ鍋」もヒットさせています。ひとつ鍋は、依田勉三が辛酸を極めた開拓初期に詠んだ句「開拓の はじめは豚と ひとつ鍋」から命名されました。晩成社の夕食を見た人が、これは豚の餌か、と言ったことから生まれた句だとされます。

晩成社へのこだわりは、小田豊四郎と六花亭による十勝産食材へのこだわりそのものでもあります。六花亭という名前は、小田豊四郎が、東大寺管長に相談し、北海道を代表する菓子屋になるようにとの願いをこめ、北海道の象徴でもある雪の結晶から命名されました。六花亭の有名な包装紙は、坂本龍馬の子孫にして、北海道出身の酪農家でもあった坂本直行によって描かれています。そこには北海道を彩る多くの草花が描かれていますが、なかでもエゾリンドウ、ハマナシ、オオバナノエンレイソウ、カタクリ、エゾリュウキンカ、シラネアオイは、十勝の六花と呼ばれているそうです。ちなみに、私流”六花亭の六花”は、今のところ、マルセイ・バターサンド、マルセイ・ビスケット、ホワイト・チョコレート、チョコマロン、百歳、大平原です。(写真出典:jbpress.ismedia.jp)

マクア渓谷