2022年8月14日日曜日

小岩井農場

小岩井の一本桜と岩手山
これまで何度かチャンスがあったにもかかわらず行けなかった小岩井農場に行くことができました。小岩井農場は、1891年、岩手山の南麓に広がる原野に開かれました。敷地面積3,000haは、皇居の13倍に相当します。明治期に誕生した財閥の多くは、政府と太いパイプを持ち、官営工場、官有地等の払い下げによって事業を拡大しています。ご多分に漏れず、小岩井農場も払い下げられた官有地に立地しています。恐らく、江戸期までは、南部藩が所有する入会地だったのだろうと想像できます。火山灰が堆積した痩せた土地だったようで、土壌改良等に10年以上かかったと言われます。

恥ずかしながら、小岩井という名称は、土地の名前だと思っていました。創業者である日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の名字から名付けられたものでした。鉄道の父とも呼ばれる井上勝は、幕末、伊藤博文らと共に英国へ密航した”長州ファイブ”の一人でした。英国で鉱山や鉄道の技術を学び、日本における鉄道の基礎を築きました。1980年、東北本線の延伸工事のために盛岡を訪れていた井上は、岩手山の裾野を見て、牧場建設の構想を得ます。後に井上は、鉄道建設のために多くの「美田を潰した償い」だったと語っているそうです。

しかし、事はそう簡単でありませんでした。井上は、三菱の支援のもと、土壌改良、植林、洋式農法の導入、機械化への試み等を行いますが、本人が素人なうえに鉄道建設に忙しく、また畜産物の市場も未熟であり、経営は困難を極めます。1899年、井上は、経営を三菱に移管します。当時の三菱の総帥は、三代目社長岩崎久弥でした。弥太郎の長男である久弥は、三菱財閥の事業と組織を確立させた人でした。大規模農業を事業の一つとして力を入れた久弥は、小岩井農場だけでなく、千葉の末廣農場、ブラジルのコーヒー園である東山農場、さらにスマトラや韓国でも農場を開き、経営しています。

久弥は、ブリーダー事業を小岩井農場のメイン業務にします。これは、単に小岩井農場を成功させただけでなく、日本の畜産業の発展にも大きく貢献することになりました。また、本格的な事業としての乳業を開始しています。この頃、乳製品が普及し、市場が形成されつつありました。特に、日清・日露戦争において、傷病兵の栄養補給として牛乳が使われたことで、急速に普及していったようです。小岩井の乳製品のブランド力は、久弥によって基礎が築かれたわけです。久弥は、慶應義塾卒業後、ペンシルベニア大学のウォートン・スクールでMBAをとっています。農業と酪農が盛んなペンシルベニアでの経験が、農政事業への情熱の背景にあったものと思います。

小岩井農場の乳製品は、現在、小岩井乳業が担っていますが、最も有名な製品と言えば「小岩井純良バター」だと思います。1902年に発売されています。小岩井のバターは、他よりもコクと香りが良く、昔から人気でした。その大きな理由は、製法の違いにあります。小岩井は、当初から発酵製法にこだわってきました。欧州のバターは、大半が発酵バターです。対して、日本における一般的なバターは、非発酵バターです。バターの輸入が始まった頃、非発酵バターが多かったので、そのまま定着してしまったようです。近年、エシレはじめ、欧州の発酵バターが多く流通し、その美味しさが知られるようになりました。小岩井は、発酵バターの先駆者でもあったわけです。(写真出典:koiwai.co.jp)

マクア渓谷