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“腹案” |
それでも、高度成長期には、何をやっても、売上が伸び、業容が拡大したことから、一層、このお粗末な経営戦略の立て方が定着していきます。いわゆる成功体験の弊害です。さらに言えば、産業革命と富国強兵の明治期は、”それ行けドンドン”ムードが支配的であり、日本の企業風土を決定づけたように思います。ひたすら”坂の上の雲を追いかける”ことはロマンチックですが、経営的には悪夢です。こうした精神風土は、企業経営に限らず、国家運営、特に戦争遂行に際しても、現われます。太平洋戦争の計画性のなさは、目を覆うばかりですが、実は、その態勢は、日清・日露戦争時代に培われたものという面もあります。太平洋戦争開戦直前の1942年11月15日、戦争の基本戦略が、大本営政府連絡会議において決定されています。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」です。これが唯一の戦略であり、しかも”腹案”にすぎなかったわけです。
腹案は、8 月頃から陸海軍と外務省の事務レベルで検討されていた「対英米蘭戦争指導要領」の最終章の抜粋と言われます。大雑把に言えば、直接対決では米国に勝てないので、英国を日独伊で叩き、東アジアの資源を確保し、中国を制圧し、米国の戦意をくじく、といったシナリオです。タイトルは出口戦略的です。ただ、具体性に乏しく、希望的観測、他力本願、矛盾の内包といった特徴を見ることができます。特に、ドイツが欧州で勝ち続けることが大前提となっていること、また陸軍の長期持久戦と海軍の短期決戦指向が両論併記されていること等は、戦略としての重大な欠陥と言わざるを得ません。もし、出口戦略が明確であれば、ナチスが劣勢になった瞬間、計画は破棄されるべきでした。曖昧な戦略の下で計画・実行される戦術は、統一性を失い、独断専行を招き、資源配分を混乱させ、計画全体を破綻させることになります。
太平洋戦争とは何だったのか、という議論は、今も続いています。帝国主義的侵略説、米国の包囲網に対する自衛説、軍部の独走説、米国の陰謀説、あるいはそれらの複合説等があります。こうした議論が生じるのも戦略の曖昧さゆえという面もあるのでしょう。そもそも太平洋戦争に至る経緯は、明治初期における日本の半島・大陸への進出に始まります。その時点で、既に明治政府内の意見は分かれており、戦略は、両論併記的な曖昧さを持っていたと言えます。明治政府は、西欧列強の植民地化圧力にさらされており、単独でこれに対抗する力はなく、日朝清の連携、シーレーンの確保、戦略的深度の確保、つまり半島・大陸を占領したうえで国土を防衛するといった意見がありました。いずれしても、国土防衛と独立確保が基本的考え方だったと言えます。
当初は、日朝清の連携が指向されますが、清とその植民地となった李氏朝鮮から拒絶されます。清朝政府の硬直化した古い体制によるところもありますが、清と朝鮮から見れば、急速に近代化する日本は、西欧と同列に見えたということなのでしょう。征韓論に始まり、いくつかの事案が重なり、一方では南進するロシアの圧力もあり、ついに日清・日露の戦役へと進むわけです。このあたりでは、日本は遅れてきた帝国主義者としての顔になり、それは日韓併合、満州事変で決定的になったものと考えます。出口戦略などは無視され、曖昧な戦略のもと、参謀たちの暴走によって、兵站を無視した戦争が拡大されていきました。その傾向は留まることなく、1945年8月15日まで続くことになります。(写真出典:jacar.archives.go.jp)