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和井内貞行 |
十和田湖は、3万5千年〜1万5千年前の巨大噴火で誕生したカルデラ湖です。田沢湖、支笏湖に次いで、日本第3位の水深を誇ります。十和田湖は、魚の住まない湖でした。カルデラ湖の場合、通常、流出する川を遡上してきた魚が住んでいるものです。十和田湖の場合、唯一の流出川である奥入瀬川に銚子大滝があり、これが魚の遡上をせき止めていたようです。江戸末期から、イワナやコイの放流が行われ、部分的には成功していたようです。和井内貞行もコイの放流から始めていますが、1900年、アイヌ語で言うカバチェッポに出会います。カバチェッポは後にヒメマスと命名されます。日本では、もともと阿寒湖とチミケップ湖に生息し、1893年に北海道庁が養殖を始めています。和井内貞行が購入したヒメマスの卵は、支笏湖に移植されたヒメマスのものでした。
和井内貞行は、1858年、南部藩の毛馬内(けまない)柏崎新城の家老の家に生まれます。武家の子として、戊辰戦争時の秋田戦争での敗北を経験したわけです。奥州越列藩同盟についた南部藩は、新政府についた秋田藩を攻めます。当初、優勢に戦いを進めた南部藩でしたが、新政府の援軍を得た秋田藩に押し戻され、盛岡も新政府軍によって占拠されます。明治になると、廃藩置県によって、毛馬内を含む鹿角郡は、秋田県に編入されます。家老の家柄とは言え、すべてを失った和井内貞行は、教員手伝い、鉱山職員として生計を立てます。27歳のとき、鉱山で働きながら、十和田湖でコイの放流を行い、部分的に成功します。以降、和井内は、養殖にのめり込んでいきます。
コイの養殖に目処がたった頃、地元鉱山が閉山となり、市場を失った和井内は、自身も小坂鉱山へ転勤となります。40歳になった和井内は、鉱山を辞め、故郷での養魚に専念する決心をします。湖畔に旅館と孵化場を整備し、十和田湖観光の宣伝も行います。その後、サクラマス、ビワマス等の養殖に取り組みますが、簡単ではありませんでした。借金まみれとなり、極貧の生活を続けながらも、和井内は諦めることなく、ヒメマスの養殖にチャレンジします。放流したヒメマスが、産卵のために戻ってくるのは、3年後のことだと言います。ある風のない日、和井内は、湖面がさざめき始めるのを見ます。戻ってきた大量のヒメマスでした。和井内は、その感動を「われ幻の魚を見たり」と書き残しています。ヒメマス養殖と十和田湖観光に功績のあった和井内は、後に緑綬褒章を授与されています。
薩長が、徳川を排して、政権を完全に掌握するためには、戊辰戦争は避けて通れないものだったのでしょう。一方、本当に必要な戦いだったのかという疑問も残ります。坂本龍馬は、徳川慶喜も入れた新政府構想を起案したために、倒幕一辺倒の薩摩の陰謀によって暗殺されたという説まであります。奥州越列藩同盟はじめ、朝敵、賊軍とされた各藩の武家の戦後は厳しいものでした。明治期以降、元賊軍の武家に残された道は、教育者か軍人だけだったとも聞きます。和井内貞行が、地元十和田湖での養殖・観光によって産業を興すことにこだわったのは、元賊軍を取り巻く厳しい環境がゆえだったようにも思えます。十和田湖のヒメマスは、戊辰戦争が生んだと言えるのかも知れません。(写真出典:towadako.or.jp)