2022年8月5日金曜日

紀伊國屋文左衛門

「沖の暗いのに白帆が見ゆる あれは紀の国みかん船」とは、かっぽれの一節ですが、もともと江戸に伝わる俗謡だったとも聞きます。元禄の頃、一代で巨万の富を築いた豪商・紀伊国屋文左衛門を謡っています。江戸では毎年11月8日、市中の鍛冶屋や鋳物師たちが ”ふいご祭”という神事を行っていました。その際、恒例として、ミカンをばら撒いたものだそうです。当時、江戸のミカンと言えば、紀州から船で運ばれていました。ところが、その年に限って、10月から海は荒れたままで船が出せず、江戸ではミカンが入手できず、紀州では大豊作だったミカンが余るという状況に陥ります。

紀州和歌の浦で廻船問屋を営む紀伊国屋文左衛門は、親の代から困窮を極めていましたが、かかる状況下、一発、大勝負をかけます。舅から資金を借り受け、質に入っていた船を請け出し、ミカンを格安で仕入れます。船には船員も必要です。遭難して生き残った土左衛門の千八と呼ばれる剛毅な船頭がいました。紀伊国屋は、荒海へ漕ぎ出すことを賭けて、千八と博打をして勝ちます。10月28日、風が西に変わり、いよいよ漕ぎ出したミカン船は、荒れ狂う難所を越えながら、11月1日、まんまと江戸に入ります。捨て値で仕入れたミカンが、高値で飛ぶように売れます。命を元手の大勝負に勝った文左衛門は、大きな富を得ました。紀伊国屋文左衛門のミカン船という話ですが、どうも、これは幕末の頃の創作だったようです。

当時の船と航海技術からすれば、嵐の太平洋航路など、あり得ない話です。北前船が、江戸期の主流になったにはわけがあります。文左衛門の実在そのものを疑問視する声もありますが、一方、政商として、材木を商ったり、銭の鋳造を請け負ったりした記録も残っているようです。幕府の要人に取り入り、一代で財を成した豪商がいたことは事実なのでしょう。ただ、銭の鋳造に失敗した文左衛門は没落します。困窮のうちに死んだとも、それでも残った財で文化人として暮らしたとも言われます。跡取りは、凡庸な人で、紀伊國屋はほぼ一代で消滅、文左衛門につながる家系は確認できないようです。

ただ、この希代の豪商にあやかろうと、紀伊国屋を名乗る店や会社は、今も多くあります。有名どころでは、紀文食品、紀伊國屋書店、スーパー・マーケットの紀ノ国屋等があります。書店の紀伊國屋は、創業者の田辺茂一の先祖が、紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽だったことから命名したようです。紀文の場合、昭和初期、日本一の商人を目指して、山形から上京した保芦邦人が、豪商にあやかろうと命名したようです。そのくせ、周囲から「紀伊国屋さん」とさん付けで呼ばれることに抵抗を感じ、親しみやすい「紀文」に変えたのだそうです。紀伊国屋は、思わずさん付けするほどリスペクトされたブランドであり、しかも誰もが使えたブランドだったわけです。もはや紀伊国屋文左衛門の実在性など問題ではないように思います。

実は、ミカン船には、後日談があります。ある年、大阪で大洪水が起こり、伝染病が蔓延します。これを商機とみた文左衛門は、江戸中の塩鮭を買い占め、大阪に持ち込みます。そして、流行り病には塩鮭が一番、という噂を流します。案の定、塩鮭は、飛ぶように売れたというわけです。ミカン船は、いかにもといった作り話ですが、塩鮭の話は、一代で財を成すような商人ならあり得る話であり、妙に真実味を感じます。豪商にあやかり、今も紀伊国屋を名乗る企業の皆さんなら、塩鮭の話も、当然、知っているはずです。あこぎな塩鮭の話を、どのように思っているのでしょう。(写真:江東区成等院にある文左衛門の墓 出典:kikaku-sembei.co.jp)

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