宿坊に泊まった翌朝、高野山は濃い霧に覆われていました。朝勤行に参加した後、ケーブルカーの高野山駅へ向かっていると、突然、霧のなかから、茶木蘭の法衣に編笠を被った百名を超す修行僧たちが、現われました。隊列を組んで、無言で歩く修行僧たちに、思わず合掌してしまいました。わずか一泊二日の高野山滞在ですが、最も敬虔な気持ちになった瞬間でした。高野山金剛峯寺は、816年、弘法大師空海によって創建されました。標高800mの深い山中に忽然と現われる広い盆地は、奇跡の地形とも言えます。全体が金剛峯寺の境内でもあり、総本山金剛峯寺、大本山宝寿院の他に117の子院が建ち、3,300人が暮らす世界最大の宗教都市です。
弘法大師空海は、日本が生んだ多くの天才たちの頂点に立つ人だと思います。804年には、国選留学僧として唐へ渡ります。長安の青龍寺で修行した空海は、密教の第七祖である恵果和尚から、わずか4ヶ月で、最高位である阿闍梨の灌頂を授かります。20年の予定であった留学を2年足らずで終えた空海は、806年に帰国します。空海は、帰国に際して、明州の浜から、修行の場を教えてくれと法具である三鈷杵を投げます。後に高野山に登った空海は、自分が投げた三鈷杵が、松の枝に引っかかっているのを見つけます。その三鈷杵は金剛峯寺の宝物として保管され、霊宝館でレプリカを見ることができます。松の木は、三鈷の松と呼ばれ、今も御影堂の前にあります。
高野山は、多くの参拝客に混じって、四国八十八カ所巡りのお遍路さんたちの姿が目に付きます。お遍路は、八十八寺を巡り終えると、高野山奥の院に詣でて、ようやく満願成就となります。人里離れた山中にあることから、高野山には、50軒を超す宿坊があります。宿坊とは、寺社が運営する宿泊施設です。僧侶や参拝客のための施設ですが、近年は、誰でも泊まれます。3千円程度の食事なしの雑魚寝スタイルから、数万円の超豪華版まで、幅広く選択できます。様子もよく分からないので、私は、1泊2食付き1万円程度の宿坊を選びました。広い庭を囲んで建つ大きな宿坊でした、部屋は15人くらい泊まれそうな大きな部屋に1人でした。食事は、もちろん精進料理ですが、三の膳まで付く立派なものでした。とても美味しくいただきました。
食事を運ぶことなども含めて、修行僧たちが世話をしてくれます。お風呂は共同になりますが、アメニティの類いはほぼありませんでした。基本的には、参拝のための簡素な宿ということです。部屋にTVはありましたが、心静かに読書をしながら、夜を過ごし、早めに就寝しました。早朝から行われる30分程度の朝勤行に参加することもできます。高野山は、見所も多く、また奥の院の参道では、武将や著名人の墓をお参りしながら進むと、結構、時間がかかります。ちなみに、高野山の墓は20万基以上と言われます。いずれにしても、日帰りは厳しく、選択肢が少ないので宿坊に泊まることになります。それも含めて、高野山参拝だと思うべきなのでしょう。
話は三鈷の松に戻りますが、日本の松の針葉は、通常2本ですが、不思議なことに、三鈷の松の針葉は3本あり、霊験あらたかとされます。私も、高野山で歩き疲れて入った喫茶店のマスターから頂いたものを持っています。枝から取ることは御法度ながら、落ちた針葉を拾うことは許されているようです。三鈷の松の針葉は、永年、私の財布に入っています。御利益については、微妙なところもありますが、大師様には大いに感謝すべきだとは思っています。大師様は、入定後も奥の院で修行を続けているとされ、朝昼二食、食事が運ばれます。大師様は、今もなお、高野山から、我々を見守ってくれているというわけです。余談ですが、植物学的に、松は個体によって希に3つの針葉を持つものもあり、三鈷の松以外にも存在するものだそうです。(写真出典:asamoyosi.wordpress.com)