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十和田湖 |
それから数百年後、気仙郡生まれの修行僧・南祖坊(なんそのぼう)は、33回目の熊野詣での際、鉄のわらじを履いて全国を行脚し、わらじの緒が切れたら杖を折れ、その土地を永住の地としてお前に与える、というお告げを受けます。南祖坊が十和田湖に着くと、わらじの緒が切れます。そこで、杖を折り、湖に投げ入れ、経文を唱えます。すると龍が現われ、立ち去れと吠えます。法力で九頭竜に変身した南祖坊は、八郎太郎と7日7晩戦います。最後に、南祖坊が、頭上に法華経8巻を掲げると、8万4千文字の一つひとつが矢となり、八郎に突き刺さります。たまらず八郎は、山中へと逃げ出します。力尽きた南祖坊は入水し、青龍権現となって湖の新たな主となります。
男鹿半島まで逃げた八郎は、川をせき止め、湖を作って住処とします。これが、八郎潟です。その頃、仙北郡神成村に辰子という美しい娘がおり、観音菩薩に永久の美を願います。すると、ある泉の水を飲めというお告げがあります。泉の水を飲んだ辰子は、激しい渇きを覚え、もだえ苦しんだ末に、龍へと姿を変えます。辰子は、泉をせき止めて田沢湖を作り、住処とします。八郎潟の主となった八郎太郎は、辰子に惹かれ、二匹の龍は、冬場、田沢湖で暮らすようになります。半年、主のいない八郎潟は浅くなり、二匹の龍が住む田沢湖は、深さを増し、冬にも凍結しない湖になります。これが、三湖伝説のあらましです。ちなみに、田沢湖は、水深日本一の不凍湖です。
三湖伝説には、多くのヴァリエーションが存在し、様々な研究も行われています。もともとは、南祖坊と八郎太郎との争いの話であり、八郎潟と田沢湖の話は後付けとも言われます。十和田湖畔にある十和田神社は、スサノオ、ヤマトタケルを祀っていますが、もともとは南祖坊、後の青龍権現を祀っていたようです。創建は、大同2年(807)と記録されます。いわゆる”大同2年の謎”で言われるように、蝦夷を平定した大和朝廷が、山伏たちを関東以北に派遣し、各地の神社仏閣を大和朝廷体制下に組み込んでいった時期と考えられます。南祖坊が大和を象徴し、八郎太郎が蝦夷という見方もできます。915年と推定される十和田湖のカルデラ噴火が、南祖坊と八郎太郎との争いに擬されたという説もあります。また、天台系と真言系の修験者の争いとする説もあるようです。
かつて十和田湖は、熊野、日光に比肩する霊山だったようです。江戸期、十和田湖全域を所領していた南部藩は、山岳信仰の霊場として、厳しく入山を管理していたようです。興味深いことに、南部藩は、天台系の行者以外の立ち入りを禁じ、真言系や出羽三山系の行者は、遠くから礼拝するしかなかったと言います。南祖坊と八郎太郎との争いとは、霊山十和田湖を巡る天台系と真言系の主導権争いであり、敗れた真言系が秋田・津軽方面に逃れ、八郎潟と田沢湖の話を付け加えたのかも知れません。南部藩が、隣接する津軽や秋田と敵対関係にあったことは、よく知られています。平安期の修験道は、多少の胡散臭さも含めて、なかなか興味深いものがあります。(写真出典:jafnavi.jp)