2022年8月7日日曜日

忠犬シロ

秋田犬
かつて、鹿角市草木に佐多六というマタギがいました。佐多六の家は、代々続くマタギで、源頼朝の富士の巻狩での働きが認められて下賜されたという、日本中のどの山でも狩猟ができる免状を持っていました。ある冬の日、佐多六は、愛犬シロと山に入り、大きな鹿と出会います。佐多六の打った銃弾は、鹿に当たります。ところが、鹿は血を流しながらも逃げます。佐多六とシロは、これを追って、山中深くへと入っていきます。いつしか鹿角郡を離れ、三戸郡に入っていた佐多六は、土地の猟師たちに見つかり、密猟を疑われます。その日に限って、佐多六は免状を持参していませんでした。佐多六は、三戸城下の牢に入れられます。

密猟、密漁は重い罪でした。密漁を繰り返した男が、生きたまま簀巻きにされ海に沈められたという話がベースになっている能楽「阿漕」があるくらいです。賢い猟犬だったシロは、主人の危機を察し、草木の家へと駆け戻ります。山に入って3日も戻らぬ佐多六を心配していた家人は、シロの興奮状態を見て、いつもなら猟に持参する免状が神棚にあることに気づきます。竹筒に入れた免状を首につけられたシロは、再び三戸城下へと急ぎます。主人のいる牢にたどりついたシロでしたが、佐多六は、既に処刑されていました。シロは、城下を見下ろす丘のうえで、いつまでも遠吠えを続けたと言われます。その丘は、いまでも犬鳴森と呼ばれているとのことです。

鹿角・三戸間には、来満峠を越す鹿角街道がありました。盛岡に城を築く前、南部氏は、三戸城を拠点としていました。鹿角街道は、南部氏の領地の一部であった鹿角との行き来のため、そして尾去沢鉱山で産する銅を陸奥湾の野辺地港へ運び出す道として活用されていました。尾去沢鉱山は、708~1978年、約1300年間に渡って、銅と金を産出した鉱山です。ただ、鹿角街道は、冬場、雪が深くて往来できなかったようです。佐多六の家のあった草木から三戸までは、約60km。シロは、これを二度往復したという説もあるようです。佐多六亡き後、家族は、シロを連れて、秋田藩領内、大館の葛原に移り住みます。葛原の人々も賢いシロを大事にし、亡くなったシロを埋葬した地に老犬神社を建て、今に伝わります。

しかし、この話、多少、疑問に思える点があります。佐多六は、三戸で密猟を繰り返した常習犯でもなく、捕まった時には獲物を持っていない未遂犯だったこと、あるいは同じ南部氏領内での事案だったことを考えれば、即刻、打ち首は厳しすぎる処分のように思えます。南部氏は、甲斐源氏の加賀美氏の末裔であり、室町期には、三戸を拠点に陸奥北部に権勢を振るいます。ただ、津軽氏との争いや内部抗争もあり、不安定な政権だったようです。1591年には、南部氏のお家騒動と言える九戸政実の乱が起こります。苦境に立たされた南部氏ですが、豊臣秀吉の力を借りて、これを平定しています。南部氏危機存亡の時にあって、運悪く捕まった佐多六は、密猟者ではなく、九戸氏の間者と疑われ、嫌疑を晴らせぬまま斬首されたのではないでしょうか。

シロの犬種はマタギ犬とされています。マタギ犬は、アイヌ犬を祖先とする猟犬であり、津軽犬、岩手犬などの総称だったようです。清和源氏の流れを組む名門佐竹氏は、関ヶ原の戦いのおり、家中の意見をまとめられず、一兵も動かしませんでした。それをとがめた家康によって、佐竹氏は秋田に移封されます。佐竹氏は、将軍家を恐れ、強兵に勤めますが、その一環として闘犬を奨励します。そのなかで、マタギ犬に他の雑種を掛け合わせた秋田犬が生み出されました。渋谷の忠犬ハチ公は秋田犬です。ハチ公は忠犬シロの末裔だったわけです。(写真出典:scienceportal.jst.go.jp)

マクア渓谷