2022年8月30日火曜日

隅田川五橋

吾妻橋
隅田川は、江戸城総構えの東端を担い、大外濠とされていました。江戸城は、内郭を中心に螺旋状に壕が巡らされています。その外側部分が外濠であり、左回りに見れば、御成門、溜池、市ヶ谷、水道橋 両国橋、永代橋と続きます。防衛ラインである以上、壕には、滅多に橋など架けません。家康が江戸城を築城した当初、隅田川には、唯一、千住大橋だけが架橋され、他は渡し船で往来していました。1594年に架橋された千住大橋は、他に橋が架かっていないこともあり、単に大橋と呼ばれていたようです。奥州街道、佐倉街道、水戸街道、後には日光街道が通りました。

架橋当時、隅田川は利根川水系の下流であり、暴れ川ゆえ工事は難航したようです。使われた大量の橋杭材は、伊達政宗が寄進した南部地方の高野槇でした。高野槇は、高野山に多く自生していたことから名付けられました。抗菌作用が効いて水に強く、舟材にも多く使われていたようです。1885年、台風によって橋梁が流出するまで、実に300年近く存続しており、希代の名橋だったと言えます。「伽羅よりもまさる千住の槇の杭」という古い川柳まであるようです。千住大橋の次に架けられたのが両国橋です。千住大橋架橋から約70年後の1661年のことでした。明暦の大火の際、橋がないことで逃げ遅れて焼け死んだ人が10万人にのぼるという大惨事が発生します。防衛観点から隅田川の架橋を許さなかった幕府ですが、止むなく架橋を判断します。防災観点が防衛に優先されたという点で、両国橋は近代につながる橋だとも言えそうです。

両国橋の正式名称も大橋だったようです。ただ、武蔵国と下総国を結ぶということで、庶民が両国橋と呼ぶようになり、後に正式名称となります。橋の両端には、橋を延焼から守るための火除地が設けられました。ここに屋台や見世物小屋が集まり、歓楽地が形成されます。両国名物と言えば、江戸中期の享保年間に始まった花火ということになります。1897年には、花火見物の客でごった返す両国橋の欄干が崩れ、数十名の死者を出します。これを機に、両国橋は鉄製の橋に生まれ変わります。1693年には、新大橋が架けられます。時は元禄、幕府の防衛意識も薄れたということなのでしょう。新大橋は、維持費の捻出に苦慮した幕府が、撤去の判断をし、それに反対した庶民が金を集め、存続されたという経緯が残ります。

永代橋は、1696年に架橋されます。5代将軍綱吉50歳の祝いに、寺社が普請され、その残材で架けられたと言われます。永代橋は、河口に近く、大きな舟が通れるように橋杭は高く築かれたようです。当時、深川一帯は、永代島と呼ばれていたことから、この名が命名されました。1703年の赤穂浪士討ち入りの際には、吉良邸から引き揚げる四十七士が渡った橋でもあります。1807年、富岡八幡宮のお祭りに向かう大群衆が永代橋に押し寄せます。一橋家当主の舟が通るというので、一旦、通行止めになった永代橋は、群衆の重みに耐えられず一部が崩落、440名が溺死しました。落語の「永代橋」は、本人が、この事故で水死したとされる本人の死体を検分し、葬式を出すという「粗忽長屋」によく似た構図の噺です。

隅田川五橋の残る一つは、吾妻橋です。1774年に架橋されています。東詰のアサヒビール本社やスカイツリー等も含め、浅草名物の一つとなっています。橋は、浅草寺の赤にちなんで赤く塗られています。隅田川五橋とは、江戸期に架けられた五つの橋を指します。また、関東大震災のあと、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋が、復興の象徴として「隅田川六橋」とされたようです。現在、隅田川には、鉄道橋等も含めれば、30の橋が架かっています。江戸総構えを計画した家康が知ったら、怒り狂ったことでしょう。昔、宴会のなかで、山手線の駅を全部言えるという後輩がおり、見事言い切ると、皆の喝采を浴びていました。すると、隅田川の橋を全部言えますという奴も名乗りを挙げました。ただ、可哀想な事に、誰も聞こうとしませんでした。というのも、すべて正確に言えたかどうか判断がつかないからです。(写真出典:doboku-watching.com)

マクア渓谷