2020年5月5日火曜日

ディストピア

地球の未来が登場するSFは、おおよそディストピアとしての地球が前提になっているように思います。第三次世界大戦後、大気汚染後、ロボットの反乱後等々。いまある問題を誇大に提示する方法は理解されやすいのでしょう。あるいは現実を論理的に延長するとディストピアしか考えられない、ということかもしれません。20世紀は、ディストピア小説花盛りでした。かつての原始共産主義的なユートピア論が、共産主義の失敗を目の当たりにして、一斉に悲観論になったのだ、という説もあります。科学が進化することで、ヴェルヌ的な科学の楽観論が難しくなったとも言われます。

ユートピアとディストピアは、表裏一体を成しています。限定的な理想の実現や課題解決をはかったのがユートピア、それらを実現するための難点や犠牲にしたものに注目すればディストピア、という関係だと考えます。神話、伝承、創作のなかの理想郷は、夢であってユートピアではありません。同様に、邪悪な人が邪悪な世界を築いたのがディストピアでもありません。ユートピアは、「どこにもない場所」という意味からしても、政治的、社会学的な主張を提示する手法の一つだと思います。当然、主観や判断が、ユートピアとディストピアを分けています。

ユートピア・ディストピアが扱う論点の多くは、個人と集団の問題に行き着きます。管理社会や全体主義の利点がユートピア、難点がディストピアで描かれます。なかでも「所有」は典型的なテーマです。所有がなければ争いもない、というわけです。トマス・モアの「ユートピア」では、農業をしつつ、所有は否定されています。あり得ません。所有概念は、農耕が生み出したものですから。レーニンや毛沢東の失敗した実験を引き合いに出すまでもないでしょう。


世界最長の文化とも言われる縄文文化は、なぜ1万年以上も続いたのか?という話があります。おそらく農耕を行っていなかったからです。余剰食糧も無く、所有概念も薄く、社会的分業も無く、個人と集団という答えのない問題は存在せず、結果、争いが無かったからでしょう。究極のユートピアは縄文ではないかとも思います。とすれば、弥生時代以降、私たちはディストピアに住んでいると言えるかもしれません。
土偶「縄文の女神」  写真出典:舟形町

マクア渓谷