・忍路(おしょろ) 高島 およびも ないが せめて 歌棄(うたすつ) 磯谷まで
・松前 江差の かもめの 島は 地から はえたか 浮島か
日本を代表する民謡にして、日本で最も難しい民謡と言われる江差追分の本唄三つです。江差追分は、信州の追分節や伊勢の松坂節が、越後経由で江差に渡り、誕生したと言われます。北前船やにしん漁で賑わった江戸期の江差は、多くの往来があり、まさに文化の十字路だったのでしょう。七節を七声で変化をつけ、2分30秒程度で歌いあげる江差追分は、習得に時間がかかり、歌い手は3千人程度と聞きます。江差では、毎年、江差追分全国大会が開かれ、海外も含む各地の予選を勝ち抜いた約400人が喉を競います。
情歌だという説もあり、その根拠が二つ目にあげた本唄「忍路高島」です。女人禁制だった神威岬の先「忍路・高島」、今の小樽付近まで漁に行った恋人を、せめて「歌棄・磯谷」、今の寿都町あたりまで追いかけたい、と唄っているというわけです。艶のある解釈ですが、どうも間違いのようです。本当は、小樽付近の漁場を独占する商人たちをねたみ、切り崩しを図ろうと手をつくす商人たちを風刺した歌だそうです。それほど、にしん漁は活況を呈していたわけです。
浜が白くなる、と言われるほど、にしんの大群が押し寄せたものだそうですが、はたして需要はあったのでしょうか。主な用途は肥料でした。江戸中期、日本の農村には、「勤勉革命」と言われる変化が起こります。江戸初期、新田開発と人口増加で伸びた農業生産は、中期に至り頭打ちとなります。農家は、生産性を上げるために、手間暇を惜しまない丁寧な栽培、そして良質な肥料の利用を始めます。鰯とともににしんの需要が旺盛になったわけです。
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江差の町とかもめ島 出典:HMA |