2020年5月22日金曜日

江差追分

・かもめの 鳴く音に ふと目を さまし あれが 蝦夷地の 山かいな
・忍路(おしょろ) 高島 およびも ないが せめて 歌棄(うたすつ) 磯谷まで
・松前 江差の かもめの 島は 地から はえたか 浮島か

日本を代表する民謡にして、日本で最も難しい民謡と言われる江差追分の本唄三つです。江差追分は、信州の追分節や伊勢の松坂節が、越後経由で江差に渡り、誕生したと言われます。北前船やにしん漁で賑わった江戸期の江差は、多くの往来があり、まさに文化の十字路だったのでしょう。七節を七声で変化をつけ、2分30秒程度で歌いあげる江差追分は、習得に時間がかかり、歌い手は3千人程度と聞きます。江差では、毎年、江差追分全国大会が開かれ、海外も含む各地の予選を勝ち抜いた約400人が喉を競います。

情歌だという説もあり、その根拠が二つ目にあげた本唄「忍路高島」です。女人禁制だった神威岬の先「忍路・高島」、今の小樽付近まで漁に行った恋人を、せめて「歌棄・磯谷」、今の寿都町あたりまで追いかけたい、と唄っているというわけです。艶のある解釈ですが、どうも間違いのようです。本当は、小樽付近の漁場を独占する商人たちをねたみ、切り崩しを図ろうと手をつくす商人たちを風刺した歌だそうです。それほど、にしん漁は活況を呈していたわけです。

浜が白くなる、と言われるほど、にしんの大群が押し寄せたものだそうですが、はたして需要はあったのでしょうか。主な用途は肥料でした。江戸中期、日本の農村には、「勤勉革命」と言われる変化が起こります。江戸初期、新田開発と人口増加で伸びた農業生産は、中期に至り頭打ちとなります。農家は、生産性を上げるために、手間暇を惜しまない丁寧な栽培、そして良質な肥料の利用を始めます。鰯とともににしんの需要が旺盛になったわけです。

江差の町とかもめ島   出典:HMA
「かもめの島」とは、江差を天然の良港にしたかもめ島。ただ、水深が浅く、蒸気船の登場とともに寂れます。同じ頃、にしんも姿を消します。理由は、いまだに特定できず。いずれにせよ、道南の中心は函館へと移りました。「江差の五月は江戸にもない」と言われた栄華は、にしん御殿、復元された「いにしえ街道」に偲ばれるのみ。浜には、戊辰戦争のおり座礁した幕府の軍船開陽丸が復元展示されています。
 

マクア渓谷