
事の発端は、昭和48年、北海道新聞に、「私の異父姉は『赤い靴』の少女のモデルです。どなたか消息を知りませんか?」という投稿がありました。これに興味を抱いた記者が、5年の歳月をかけて取材、ドキュメンタリーにまとめます。
明治末期、静岡県清水出身の岩崎かよは、2歳になる私生児きみを連れ、北海道に渡ります。そこで左翼青年鈴木志郎と出会い、結婚。二人は、空想的社会主義者たちが作った真狩の平民社農場に入植しますが、それは乳飲み子には厳しすぎる環境でした。夫妻は、きみを函館の宣教師ヒューエット夫妻の養子に出します。夫妻は米国に帰国することになりますが、出航直前、病いを患ったきみに長旅は無理と医師に言われ、やむなく鳥居坂教会の孤児院に預け、船に乗ります。
かよは、きみが米国に渡ったと死ぬまで信じていました。しかし、きみは9歳の時、麻布の医院で息を引き取っていました。平民社農場が失敗に終わった後、鈴木志郎は札幌の新聞社に勤め、そこで野口雨情と席を並べます。きみの話を聞いた雨情は、童謡「赤い靴」を作詞します。「赤い靴」は第三者の目線ではなく、母親かよの目線で歌われているのではないでしょうか。
わが子を手放さざるを得なかった母。二度も親に捨てられ死んだ娘。会えたかもしれない二人が会えなかった偶然。なんとも切ない話です。鈴木志郎・かよ夫妻は、小樽の新聞社に移り、石川啄木とも働いています。キリスト教の洗礼を受けた夫妻は、樺太で布教活動を行っていたそうです。理想主義者の影で泣いている人たちが絶えることはありません。
写真出典:小樽チャンネル