2020年5月28日木曜日

西蔵旅行記

黄檗宗の僧侶・河口慧海が、厳しい鎖国政策を取るチベット(西蔵)に、中国僧と偽り密入国したのは、明治33年。インド・ネパールで3年をかけてルートを探った後でした。身分がバレそうになり、急遽出国するまでの2年間、ラサ第二の寺院の大学で学び、出国の際には、多くの経典を持ち出しました。その一部始終が「西蔵旅行記」に記されています。下手な冒険小説より、はるかに興奮する本です。

サンスクリット語で書かれた仏典は、チベット語、そして漢語に翻訳され、日本に伝わりました。慧海は、仏教を極めるためには、サンスクリット語原典を読むべきと考えます。しかし、原典の多くが失われているので、より原典に近いチベット語訳を求め、鎖国中のチベットへ入るしかありませんでした。チベットに入る主な道にはチベット兵が立ちはだかり、間道を探るしかありません。慧海が選んだのは、ダウラギリの北方、クン・ラ峠、標高5,411m。十分な装備なしに超えるのは狂気の沙汰です。

入蔵後、婦人の脱臼を治した事から、医術に長けた中国僧と評判を取り、ダライ・ラマ13世から侍従医のオファーを受けるまでになります。身分がバレる恐れから、これは断りますが、医術は経典を集めるのには大いに役立ったようです。逃げる際には、多くの経典を背負い、再びクン・ラ峠を超えます。帰国後、持ち帰った経典の翻訳、研究を続けます。

慧海に関して、ある意味、西蔵旅行以上に驚かされるのは、後年、僧籍を捨て、ウパーサカ(在家)信者になったことです。経典を原典へとさかのぼることは、仏教の宗教化の歴史をさかのぼることであり、釈迦への回帰そのものです。各宗派の仏典に、多くの誤訳、誤解、矛盾を認めた慧海がウパーサカの道を選択したことは、当然の成り行きだったのでしょう。

米国ペンシルベニア州のダッチ・カウンティを中心に、アーミッシュと呼ばれる人々が、文明の利器を拒み、古いドイツ語を話し、宗教に基づく自給自足の農業共同体を維持しています。その数20~30万人。200年前から共同体を維持できた理由の一つは、職業的宗教指導者と教会を持たないことではないかと思っています。慧海のウパーサカに通じるところがあるな、とも思います。
                                                                                                                                      河口慧海   出典:Wikipedia



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