2020年5月2日土曜日

またたび

昔、新潟県西山町(現柏崎市)の田中角栄記念館に行き、角さんが、実家で朝食を食べながら、中越を語るというビデオを見ました。江戸に米山三郎という侍がおった。冬の最中、御用で長岡まで旅をすることになった。三国峠で吹雪にあい、力尽きて倒れこんでしまった三郎であったが、気が付くと、目の前に木の実がある。思わず手を伸ばし、これを口に含むと、あら不思議、体中に力がみなぎり、また旅を続けることができた。以来、これをまたたびと呼ぶ、と言って、またたびの漬物を口に入れます。

真っ赤なウソです。ただ、なるほどと思ってしまいました。実に見事な話術。あっという間に話に引き込まれます。さすが大物政治家は違うものだと思いました。中越の老人たちは、角さんのことをアニヤンと呼びます。皆、判で押したように「アニヤンは、人の話をよく聞いてくれた。」と言うのです。そんなわけありません。若くして大臣になり、派閥を率いた角さんは、多忙を極め、農民の話など、聞いている暇はなかったはずです。

おそらく、よく聞いてもらった、と思わせる術に長けていたのだと思います。心ここにあらずで、聞いてるふりだけの人は、すぐに分かりますし、感じの悪いものです。角さんは、人に会う時、例え短時間であっても、しっかり相手に正対し、しっかり目を見ていたのでしょう。本当は、話なんか聞いていないのかもしれませんが、相対する姿勢が大きな違いを生んだのだと思います。田中角栄は、演説の名人以上に、聞くことの達人だったと言えます。それが政治の本質であり、歴史的得票数に結実したのでしょう。

角さんの秘書だった早坂茂三は、河合継之助、山本五十六、田中角栄を「怨念の系譜」と書きました。雪深い山間の地である中越は貧しい土地。戊辰戦争のおり、長岡は、薩長に二度も焼かれました。必然性に乏しい戦でした。中越の歴史とそこに暮らす人々の心情が分かっていなければ、聞くことの達人も生まれていなかったように思えます。

ところで、私は、田中角栄記念館でビデオを見た後、館内のギフトショップでまたたびの漬物を買ってしまいました。おいしくもなく、体に力がみなぎることもありませんでした。実に貧しい食べ物だなと思いました。
                                                                                         田中角栄 右後ろは秘書早坂茂三       出典:toyokeizainet
     

マクア渓谷