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秋田城址 |
秋田城は、733年に大和朝廷が築いた城柵です。朝廷は、8世紀初頭、現在の山形県庄内地方に出羽柵を築き、蝦夷征服の拠点とします。後に出羽柵は、秋田へと進出し、760年頃には秋田城へと改変されます。出羽柵が担っていた国府としての機能も引き継がれていたようです。秋田城は、朝廷による蝦夷征服の最北端の拠点となります。城柵は、蝦夷征服を目的に、新潟から北に設置されました。兵が駐屯する軍事基地であると同時に、官衙と呼ばれる政治・行政機能を持ち、あるいは柵戸と呼ばれる住民も抱えていたようです。7世紀中盤には、新潟県に渟足柵、磐舟柵が置かれ、徐々に北上していきます。よく知られる宮城県の多賀城は、724年に、陸奥国府も兼ねて設置されています。
興味深いことに、日本海側は、秋田城が最後の城柵設置であり。その北へは進出していません。一方、太平洋側は、多賀城の後も、北へ北へと城柵の築城は続きます。日本海側よりも略奪したい物産も多く、蝦夷の数も多く、抵抗も強かったということなのでしょう。奈良時代から平安初期まで断続的に続いた、いわゆる”38年騒乱”は、太平洋側で断続的に続いた蝦夷の反乱です。38年騒乱の終結をもって、朝廷による蝦夷征服は完了しています。802年には、胆沢のアテルイとその母モレが、坂上田村麻呂に降伏しています。ここが事実上の分岐点だったのでしょうが、城柵設置は、その後も北へと展開し、岩手県中部の志波城、徳丹城等が作られています。
秋田城は軍事・行政拠点ですが、どうやら交易拠点としての要素が大きかったようです。秋田城に、蝦夷の反乱は記録されていません。つまり、ここでの蝦夷はビジネス・パートナーだったのでしょう。また、海を隔てた渤海との交流も確認されています。”続日本紀”には、渤海使の秋田城への来訪が数回記録されていますが、正使以外の交易も相当多くあったものと想像できます。日本海側の交易に対して太平洋側の征服という構図は、恐らく鉱山の有無によるものだったと思われます。加えて、日本海には、西風を受けながら舟で航行する交易ルートが、縄文時代からありました。当時の舟や航海技術では、難所の多い太平洋を航行することは難しかったようです。安全な陸路を確保するためには、征服は避けて通れない選択だと思います。
渤海使も、当初は、カムチャッカ半島、北海道の沿岸沿いに、西風を受けながら南下し、秋田城に至ったものと想定されています。当時の渤海は、唐・新羅と対立しており、朝鮮半島沿いに日本を目指すことは危険だったのでしょう。後に、渤海使は、西日本の港へ着くようになります。新羅との関係が改善し、半島沿いのルートが使えるようになったからだと考えられます。渤海との交易としては、下北半島の十三湊も知られていますが、秋田城よりやや後の時代だったようです。いずれにしても、秋田城は、大和朝廷による蝦夷征服というストーリーではなく、蝦夷・アイヌ、そして渤海との交易という枠組みのなかで考えるべき城柵なのでしょう。縄文時代から続くとも言われる北方交易は、実に興味深いテーマだと思います。(写真出典:kotobank.jp)