2024年10月31日木曜日

新米

新米の季節となりました。つやつやで甘い新米は、それだけで十分に美味しいものですが、この時期、ネット上には”新米に合うおかず”という特集を見かけます。実に様々なレピが載っていますが、多少、違和感を感じます。新潟に赴任した際、農家の方々に、新米に合うおかずを聞いたことがあります。皆さんの答えが同じだったことに驚きました。味噌漬けです。味噌に大根、キュウリ、にんじんなどの野菜を漬けこんだだけの漬物です。味噌漬けは伝統的な漬物の一つですが、あまりスーパー等で見かけることはありません。塩分濃度が高いので、近年は敬遠されがちなのだそうです。ちなみに、日光名物の”たまり漬け”は、味噌の上澄みに野菜を漬けたもので、味噌漬けの一種と言えます。

新米は、それ自体の美味しさを味わうために、多少の塩分があれば良いということなのでしょう。まったく同感です。味噌漬けに限らず、南蛮味噌、紫蘇巻きといった味噌を使ったご飯の友は、すべて新米に合うと思います。焼き海苔に醤油を付けて、ご飯を巻いて食べるのも捨てがたい魅力があります。ただ、新米に最も合うおかずは筋子の醤油漬けや粕漬けではないかと思っています。筋子は塩付けが基本だと思いますが、新米には、なぜか醤油漬けが合います。要は、少量の塩分と発酵の旨味さえあれば、新米の甘さや旨味を引き立たせることが出来るのだと思います。理屈は分かりませんが、感覚的には、新米と発酵食品の相性は抜群だと思います。もっとも、新米に限らず、米と発酵食品は合うということかもしれません。

今年は、新潟県弥彦村産のコシヒカリ”伊彌彦米 零”の新米を食べています。零とは、農薬も化学肥料もまったく使っていないという意味です。そもそも伊彌彦米は、農薬・化学肥料を50%以上減らして生産する米として知られます。無農薬栽培自体には、さほど興味はないのですが、伊彌彦米はとても美味しいと思います。数年前に、新潟の従姉妹に勧められ、すっかりハマりました。零も、その従姉妹が送ってくれたものです。新潟のコシヒカリと言えば、魚沼、岩室、佐渡が有名ですが、流通量が少ないだけで他にも美味しい米が多くあります。新潟では単身赴任だったので自炊していましたが、米を買ったことがありません。というのも、会社の同僚たちの家では、皆、米を作っており、うちの米は美味しいから食べてみろ、と持ってきてくれるのです。

それが、また、皆、美味しいわけです。ありがたい話ではありすが、他方、新潟に赴任して困ることは、美味しい米の味を知ってしまうことだとも言えます。新潟では、どんなにいい加減な食堂でも、あるいはコンビニのおにぎりまで新潟産コシヒカリを使っていると聞きます。不味い米など客が許さないわけです。新潟から東京へ転勤になった直後、社員食堂で食べた米の不味さには驚きました。いわゆる刑務所の”臭い飯”とは、こんな味なんだろうとさえ思ったものです。他にも味を覚えて困ったものはありますが、黒崎茶豆もその一つです。あの味を知ってから、居酒屋で枝豆を注文することはなくなりました。新潟県民にそんな意識はないと思いますが、苦労もなく美味しい米と茶豆を食べられるだけ、他県民よりも幸せな人生を送っているように思います。

ところで、なぜ新米は美味しいのかという素朴な疑問も浮かびます。肉や魚では熟成ということもありますが、野菜や果物は、なにせ採れたてが一番美味いわけです。米も同じだということなのでしょうが、米に”朝どれ”という発想はありません。稲刈りをすると、乾燥、脱穀、精米と、それなりに時間がかかります。とは言え、新米独特のつや、風味、香りは、やはり含まれる水分量の多さに由来するのだそうです。だとすると、多湿な環境はNGだとしても、米の貯蔵には適度な湿度があった方が良いように思えてきます。米は密封して冷暗所で保存するのが良く、冷蔵庫の野菜室が推奨されています。冷蔵庫は乾燥していますが、野菜室は、結果的に多少の湿度があり、適しているのかもしれません。しかし、新米に関して言えば、一番いいのは、急いで食べきることです。(写真出典:furusato-tax.jp)

2024年10月29日火曜日

大河ドラマ

NHK大河ドラマの第1作は、1963年、井伊直弼を主人公とする「花の生涯」でした。原作は船橋聖一の同名小説、主演は後に人間国宝にもなった尾上松緑です。「花の生涯」は、一切、記憶にありませんが、翌年放送された「赤穂浪士」はよく覚えています。原作は大佛次郎、大石内蔵助は大スター長谷川一夫が演じました。当時、TVドラマなど見下していた映画界、歌舞伎界、演劇界から役者たちが結集した記念碑的TV作品です。平均視聴率は31.9%に達し、討ち入りの回の視聴率は大河ドラマ史上最高の53.0%を記録しています。大石内蔵助の「おのおの方、討ち入りでござる」という名台詞は、皆ものまねし、流行語になりました。また、芥川龍之介の三男・芥川也寸志が作曲したテーマ曲は、今も耳に残る名曲です。

2024年放送中の「光る君へ」は63作目にあたります。よく続いたものです。私は、高校時分までは見ていましたが、それ以降はほとんど見たことがありません。そもそも、話がブチブチ途切れ、TV局の都合にあわせて見なければならない連続TVドラマは性に合いません。アメリカのTVシリーズ等は見るようになりましたが、あくまでもこっちの都合に合わせて、ビデオ、ネット配信で一気に見るスタイルです。1961年に放送が開始されたNHKの連続テレビ小説、いわゆる朝ドラも、ほとんど見ていません。記憶があるのは「おはなはん」(1966)だけです。小学校6年生でしたが、クラスのほぼ全員が教室のTVにかじりつき、昼の再放送を見ていました。愛媛県が舞台のドラマであり、仲間内では伊予弁が流行しました。

娯楽の多様化とともに、大河ドラマも、朝ドラも、視聴率は低下傾向にありますが、特に2010年あたりからは低迷しているようです。大河ドラマでは、平均視聴率24.5%を挙げた2008年の「篤姫」が最後のヒット作と言われています。アジア各地でもヒットしたようです。幕末・明治ものは視聴率が低い、女性が主人公の大河はコケるといった定説を覆したと言われます。女性の社会進出が進みつつあった頃、篤姫がロールモデルとして人気を集めたようです。脚本を書いた田渕久美子氏の講演を聞いたことがあります。圧倒的に歴史ものが多い大河ドラマですが、女性に関しては、脚本の前提とすべき文献や資料が極めて少ないとのこと。そのことが、逆に創作の自由度につながると語っていたことが印象的でした。

それにしても、人気のある大河ドラマが戦国ものに集中している点は面白いと思います。歴代大河ドラマの視聴率ランキングを見ると、第1位の「独眼竜政宗」(1987年、39.7%)、第2位の「武田信玄」(1988年、39.2%)はじめ、戦国ものが上位を占めています。江戸期以降、文芸や芸能を通じて広く知られることになった人物や事件が多く登場することが主な要因なのでしょう。また、合戦シーンや権謀術策といったドラマ的見所に富んでいること、あるいは、舞台が、東京、京都に集中することなく全国各地に広がっていることも人気の一因なのかもしれません。加えて言えば、田渕久美子氏の言うとおり、幕末・明治期に比べて文献が少ないことが原作や脚本の自由度を高め、結果、ドラマを面白くしているのかもしれません。

だからといって、その影響力からすれば、大胆な仮説に基づいてドラマを作るわけにもいかないと思います。司馬遼太郎原作の大河ドラマは、1968年の「竜馬が行く」はじめ、実に6本もあります。国民的作家と呼ばれる人だけに、納得できる話です。ただ、その視聴率を見ると、必ずしも高くはありません。幕末・明治ものが多いこともあるのでしょうが、やや押しつけがましいところがあったり、いわゆる司馬史観が禍している面もあるのかもしれません。司馬遼太郎の本が面白いことは間違いありませんが、明治期を明るく希望に満ちた時代として手放しで絶賛する姿勢には疑問の声も少なくありません。明治時代に関する日本人の認識は、大河ドラマを通じて広まった司馬史観の影響が大きいと思います。個人的には、明治から敗戦に至る時代は、洋服を着た武家政権、つまり暴力の時代でもあったと思っています。(写真出典:nhk.or.jp)

2024年10月27日日曜日

カー・チェイス

映画のなかのカー・チェイスは、既に無声映画時代から登場しています。ただ、現代の主流である派手なカー・チェイスは、ピーター・イェーツ監督、スティーブ・マックイーン主演の「ブリット」(1968年)に始まるとされます。サンフランシスコの坂道を舞台に、延々と繰り広げられるカー・チェイスのリアルな迫力には驚かされました。もちろん、CGのない時代ですから、実際の車を公道で走らせて撮影されています。車は坂道をバウンスしながら疾走しますが、車内からの映像など車酔いしそうなほどの迫力でした。「ブリット」は、自身もカー・レーサーとしてならしたスティーブ・マックイーンと、プロのレーシング・ドライバーの経験もあるピーター・イェーツのコンビゆえに成立した希有な映画です。

印象的だったのはエンジン音です。ピーター・イェーツは、リアルで迫力のあるエンジン音がカー・チェイスの重要な要素であることを発見した監督でもあります。エンジン音を響かせたのは、フォード・マスタングとダッジ・チャージャーでした。マックイーン扮するブリット刑事が乗るのは325馬力V8エンジンを積むフォード・マスタングGTのファストバックです。エンジン、ブレーキ、サスペンションは映画用に大幅に改造されていたようです。追われる側は、375馬力V8エンジンを搭載したダッジ・チャージャ-です。いわゆるマッスル・カーです。映画から20年後、あこがれのマスタングをフロリダでレンタカーしたことがあります。4.0Lエンジンでしたが、さほど面白い車とは思いませんでした。ま、時代が違いますからね。

マックイーンが抜擢したというピーター・イェーツは、英国人で、王立演劇アカデミー卒業後、演劇界を経験してから映画界入りしています。「ブリット」で大成功したピーター・イェーツは、アクションだけでなく、ヒューマン・ドラマ、恋愛もの、SF映画,コメディと実に多様な映画を撮っていきます。「マーフィの戦い」、「ヤング・ゼネレーション」、「ドレッサー」などは高い評価を得ましたが、アカデミー賞ではノミネートどまりでした。ピーター・イェーツは、ディテールにこだわることで知られた職人肌の監督でした。当然、「ブリット」にも、その気質や知識・経験が大いに活かされたわけです。「ブリット」以降、カー・チェイスは、アクション映画や犯罪映画の定番シーンになっていきます。

その流れを決定的にしたのが、ウィリアム・フリードキン監督の傑作「フレンチ・コネクション」(1971年)でした。徹底的なリアリズムでゴリゴリ押してくるフリードキンらしいカー・チェイスでした。映画は、作品賞、監督賞を含む5部門でアカデミー賞を獲っています。1973年にはフレンチ・コネクションのスタッフをフィリップ・ダントー二監督が率いて撮った「重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス」、1974年にはスタントマン出身のH・B・ハリッキー監督の「バニシングin60″」、1978年にはウォルター・ヒルの「ザ・ドライバー」等が続き、カー・チェイスはどんどんエスカレートしていきます。同時に、新しいアイデアと改造車の競争は、カー・チェイスをリアリティからはかけ離れたものにしていきました。

マッドマックス、ワイルドスピード、トランスポーターといったシリーズものは、CGも多用したカー・チェイスないしはカー・アクションがメインであり、ドラマは付け足しのような印象すら受けます。それはそれで映画として成立しているわけですが、その傾向を突詰めれば、映画ではなくマニアックな映像になってしまうように思います。もちろん、リアリティにこだわったカー・チェイスを見せる映画もあるにはあり、頑張ってもらいたいものだと思います。カー・チェイスの話で、忘れてはいけない映画に「ミニミニ大作戦」(1969年)があります。モーリス・ミニ・クーパーが大活躍するウィットあふれる映画でした。マッスル・カーがすべてではないということです。「ミニミニ大作戦」は、「ブリット」とともにカー・チェイスの歴史を代表する映画だと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年10月25日金曜日

四天王寺

大阪の四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院の一つです。593年に建立が開始されていますが、その直前には蘇我馬子が飛鳥寺を建立しています。今般、初めて四天王寺を参拝してきました。日本最古の寺ながら、ご本尊も伽藍もすべて昭和に再建されているため、なかなか足が向きませんでした。四天王寺は、上町台地の中央部あたりに位置し、かつて西門(極楽門)の前には河内湾が広がっていました。今も西門の門前100mほどのあたりから道が急に下っており、往時の面影を残します。孝徳天皇が難波宮を開くのは7世紀、大化の改新の後です。その半世紀も前に、聖徳太子がこの地に日本最古の伽藍を築いた理由は、日本書紀にも寺の縁起にも明らかです。

仏教擁護派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立は激しさを増し、587年、ついに蘇我氏は物部氏の本拠地・河内国に攻め込みます。しかし、蘇我氏は陣地を固めた物部氏を攻めあぐねます。その時、蘇我軍に参加していた厩戸皇子、後の聖徳太子は、木で四天王像を彫り「この戦いに勝てれば、必ず寺を建てます」と誓願します。すると物部守屋が弓に射抜かれて倒れ、蘇我軍が勝利します。聖徳太子は、物部氏の土地と奴婢を使って四天王寺を建立します。当初、四天王寺は上町台地北部にあった物部守屋の屋敷跡に建立され、後に現在地に移されたという説もあるようです。寺には、キツツキとなった守屋の怨霊が寺を襲い、白鷹になった聖徳太子が追い払ったという伝説も伝えられており、金堂には、今も止まり木が設置されています。

四天王寺の伽藍配置は、極めて独特です。回廊に囲まれた中心伽藍は、中門、五重塔、金堂、講堂が、南北の一直線上に配置されており、四天王寺式伽藍配置と呼ばれます。中国の寺院に倣った飛鳥時代を代表する配置ですが、金堂の目の前に五重塔がそびえている光景には、かなり違和感を感じます。五重塔は、インドの仏舎利を収めるおわん型のストゥーパが中国に伝わり、楼閣建築と一体化したものです。木造の五重塔は、日本にしか残っていないようです。通常、五重塔は内部を上れる構造にはなっていません。ただ、昭和に再建された四天王寺の五重塔は、内部のらせん階段で最上階まで上がれます。伽藍を上から見ることができる寺院など他にはありませんから、とても貴重な光景だと言えます。

ご本尊は、聖徳太子の本地仏とされる救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)であり、四天王、つまり持国天・増長天・広目天・多聞天が四方を守るように配置されています。ご本尊は、彫刻家・平櫛田中が再建を指導したという半跏思惟像であり、飛鳥寺の飛鳥大仏と同じく、大陸の影響を感じさせます。四天王寺には”試みの観音”と呼ばれる高さ20cmばかりの秘仏が伝わります。7世紀中葉、ご本尊建立の際、試作品として造られた仏像とされます。創建当初は四天王だけが祀られていたようですが、天智天皇がご本尊として弥勒菩薩の半跏思惟像を寄進しています。いつしか、これが聖徳太子ゆかりの救世観世音菩薩と呼ばれるようになり、現在に至ります。ちなみに、試みの観音は、毎年8月9、10日だけ開帳されているようです。

不思議なことに、救世観世音菩薩は仏教のいずれの経典にも登場しないと聞きます。観世音菩薩はじめ、地蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩は、法華経信仰が生み出した菩薩とされています。大乗仏教の重要経典である法華経は、仏教伝来とともに日本に伝えられており、日本書紀には、7世紀初頭、聖徳太子が法華経を講じたという記録も残されています。人は皆成仏できるという思想は、階層を問わずに広く信仰され、後の天台宗や日蓮宗へとつながっていきます。救世とは、人々を世の苦しみから救うことであり、大衆の救済、さらには鎮護国家の願いも込められていたようです。聖徳太子開基とされる法隆寺の夢殿にも救世観世音菩薩が祀られており、国宝に認定されています。その高さは、聖徳太子の身長と同じだとされます。救世観世音菩薩は、太子信仰とともにあると言ってもいいのでしょう。(写真出典:osaka-info.jp)

2024年10月23日水曜日

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」

監督:トッド・フィリップス        2024年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

「ジョーカー」(2019)は、大ヒットし、高い評価も得ました。その続編とされる本作は、観客からも評論家からも総スカン状態になっています。続編して見れば、確かに”何じゃ、これは”ということになるのでしょう。ただ、独立した風変わりなジュークボックス・ミュージカルとして見れば、それなりに面白い映画だと思いました。とは言え、バットマン・シリーズや前作を下敷きにしているわけですから、続編という性格を否定することは不可能です。何ともややこしい立ち位置の映画だと思いますし、よく制作を決定したものだとも思います。企画は、そうだろうなとは思いましたが、やはりホアキン・フェニックスの思いつきからスタートしているようです。

”フォリ・ア・ドゥ”というフランス語は、直訳すると”二人狂い”となるようですが、医学用語としては妄想性障害のうち感応精神病を指します。一人の妄想が他の人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する状態を言います。「ジョーカー」は、虐げられた社会的弱者が異常な復讐者になっていくというストーリーでした。それは、ある意味、革命そのものでもあり、大衆はジョーカーをもてはやします。そのことがジョーカーの異常さを加速させます。本作は、ジョーカーと大衆との関係にフォーカスしてプロットを展開しています。面白い着想です。一人の女性が大衆を象徴する存在として登場します。女性のジョーカーへの狂った愛情、つまり大衆の支持や期待は、ジョーカーを増長させる一方で、ジョーカーの本質でもあった孤独感を薄めていきます。

大衆の支持によって孤独感から解放されたジョーカーは、素のアーサーに戻っていきます。ジョーカーではなくなったアーサーを大衆は切って棄てます。このシニカルなストーリーを、前作のラスト・シーンを継承しつつ、ミュージカルに仕立てるという発想は実に面白いと思います。それが成立するためには、ホアキン・フェニックスの鬼気迫る演技はもとより、レディー・ガガという得がたい存在が必要だったのでしょう。レディー・ガガは、シンガーとしての張った歌い方を封印し、歌で演技していると言えます。それでも凄みや迫力が伝わるあたりはさすがです。それにしても、この人の独特な存在感には驚かされます。また、前作でアカデミー賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルの音楽もドラマチックな仕上がりになっています。

ワーナーのDCコミック、ディズニーのマーベルは、今や映画界を二分する大勢力です。個人的には、マーベル映画は、あまり好みません。実写版ながらCGを多用することでアニメっぽくなっているからです。熱烈なファンではありませんが、DCコミック映画には惹かれるものがあります。単に、なじみ深いキャラクターが多いだけかもしれませんが、大人の鑑賞にも堪えうる深みのある映画が多いと思います。ワーナーの大成功は、間違いなく、クリストファー・ノーランを監督に迎えたことによってもたらされたと思います。ダークナイト・トリロジーは、ワーナーにとって記念碑的作品となりました。コミックの映画化という枠を超え、幅広い層にアピールしたのではないでしょうか。そこがマーベルのアプローチとの大きな違いです。

ラスト・シーンでは、瀕死のジョーカーの向こうに、ナイフでグラスゴー・スマイルを刻もうとする殺人者の姿が映ります。ジョーカーのグラスゴー・スマイルは、道化師のメイクアップに過ぎませんが、殺人者はリアルに切り裂こうとしています。ジョーカーと大衆との関係を端的に象徴するラスト・シーンだと思います。道化が、大衆のなかに真の革命を生み出すという寓意なのでしょうか。いつの時代でも、暴力的革命の始まりは、大衆の熱狂によって生み出されます。その熱狂自体は、冷徹な理論によってひき起こされるものではなく、幻想や妄想の共有によって誘発されるものだと思います。革命や暴動とは、フォリ・ア・ドゥそのものなのでしょう。本作は、トッド・フィリップスが革命の本質を追究すべく撮った映画だとは思いません。ただ、妙に考えさせられる映画でもありました。(写真出典:showcasecinemas.com)

2024年10月21日月曜日

桜島

鹿児島市を訪れた際に泊まるべきホテルは、城山観光ホテル、現在のSHIROYAMA HOTEL kagoshimaの一択だと思います。ホテルは、1963年、鶴丸城のあった城山の西端に開業しています。日本一とも言われる朝食バッフェが有名ですが、桜島と錦江湾を一望する眺望こそがホテル最大の特徴だと思います。2000年には、その眺望を楽しみながら入れる露天風呂がオープンしました。これだけを目当てに訪れてもよいと思います。青空を背景に噴煙をあげる桜島と波穏やかな錦江湾という雄大な景色を眺めながら入る温泉は格別です。鹿児島市内から見る桜島は、不思議なことに写真よりも大きく見え、その存在感にはいつも驚かされます。同時に、桜島はいつ破局噴火を起こしてもおかしくない活火山ですから、空恐ろしさも感じさせます。

鹿児島市と桜島との間は、最も近いところで4kmとなります。東京駅から田町駅程度の距離に相当し、山手線なら10分もかかりません。フェリーで渡るならば、8km、15分と聞きます。桜島が、鹿児島市の象徴であり、市民の自慢であり、心の拠り所であることは理解できます。しかしながら、58万人が暮らす大都市の至近に活火山があることは、なかなか理解に苦しむものがあります。破局噴火の恐れもさることながら、年間、数百回と言われる小規模噴火は、風向きによって、夏は鹿児島市、冬は大隅半島側に火山灰を降らせます。一度、出張した際に、ひどい降灰に出くわしたことがあります。強い風が吹いていたこともあり、視界は悪くなり、中心街から人気が消え、外に出ると顔に当たる灰が痛くて即座に屋内に避難しました。

火山灰はガラスに近い成分のようですから、痛くて当然なわけです。平生はもっと粒が小さいようですが、それはそれでやっかいなもののようです。積もった灰は、すぐに処理しなければ、いつまでも残って、風が吹くと舞い上がるとのこと。水で流すと、排水口で固まってしまいます。よって灰はかき集めるしかなく、市が無料で配布する”克灰袋”に入れて、灰ステーションに出すと聞きます。畑にも、家にも、車にも積もるわけで、被害もあれば、大変な労力も費やされます。洗濯物も干せないので、鹿児島市の戸建て住宅にはサンルームが必須とも聞きます。鹿児島市の人々には、大変、失礼ながら、どうしてこんなところに住むのかと思ってしまいます。そして、そもそも、なぜこんなところに城と城下町を築いたのか、大いに疑問です。

ところが、桜島が常に噴煙を上げるようになったのは、1955年からであり、激しさを増したのは1970年以降のことだそうです。大噴火、中規模噴火の際の降灰を別とすれば、活火山とはいえ穏やかなものだったようです。日本有数の活火山にもかかわらず、山ではなく島と呼ばれてきた背景でもあるのでしょう。かつては、実際に島だったのですが、陸続きになったのは大正噴火の際でした。桜島は、屈斜路カルデラ、阿蘇カルデラと並び日本三大カルデラの一つとされる姶良カルデラの南端にあります。桜島は、姶良カルデラの大噴火から3千年後の2万7千年前に誕生した比較的新しい火山です。有史以来、噴火を繰り返してきた桜島ですが、最大級の噴火は、文明(1471年)、安永(1779年)、大正(1914年)と、3回起きています。

大正噴火と言えば思い出すのは、噴火後、東桜島町に建てられた「桜島爆発記念碑」、通称「科学不信の碑」です。大正噴火の際には、様々な予兆現象も確認されています。地震も活発に発生したようですが、鹿児島測候所は、震源は桜島にあらず、噴火の恐れなしとします。しかし、多くの村落では、自主的な避難を開始していました。これが大規模噴火の割に死者が58人と少なかった理由と言われます。死者が集中したのは東桜島村でした。測候所を信頼した村長たちが避難しようとする村民を引き留めたために多くの死者を出すことになりました。碑文には、今後も噴火はある得る、異変を察知したら、理論に頼ることなく、避難準備すべき、と記されています。観測理論も技術も不十分だった時代のこととは言え、傾聴すべき警告だと思います。今年は、大正噴火から110年目ですが、桜島の北側に大きなマグマ溜まりが形成されているという報道もありました。(写真出典:gltjp.com)

2024年10月19日土曜日

オムレツ

モン・サン=ミッシェルの名物と言えば、ラ・メール・プラールのオムレツということになります。このふわふわなスフレ・オムレツを食べずに帰る人はいないのではないかと思います。メレンゲに卵黄を加えて、ふわふわに焼き上げたオムレツですが、さほど美味しいものでもなく、食べ応えもありません。プラールおばさんが、海を渡ってくる巡礼者のために考案したというオムレツは、確かに疲れた人々の胃にやさしい食べ物ではあります。日本にも出店していましたが、コロナ禍のなかで撤退しています。懐かしいと思う人や一度食べて見たい人が訪れたのでしょうが、残念ながら人気店とまではいかなったようです。

オムレツは、基本的に、溶いた卵に塩・胡椒を加えて焼くだけというシンプルな料理です。なかに包み込む具材や上に掛けるソースの違いで、多くのヴァリエーションが生まれ、各国の名物オムレツもあります。じゃがいも・ベーコン・たまねぎを入れたドイツ風、じゃがいも等を入れてひっくり返すことなく厚く焼き上げるスペインのトルティージャ、カニ肉等を入れる中国の芙蓉蛋あたりが有名どころでしょうか。日本には明治期に伝えられたようです。かつては挽肉とたまねぎを具材とし、トマト・ケチャップを掛けたスタイルが最も一般的でした。それが軍隊のレシピとなっていたことから、全国的に広まったようです。近年では、ホテルの朝食等で供される綺麗に焼いたプレーン、あるいはチーズ・オムレツの方が一般的かもしれません。

渡来した料理に手を加えて国民食化するのは日本の得意技ですが、オムライスも、その一つです。1900年、銀座の煉瓦亭がまかないとして作ったという説と、1925年に大阪の大衆洋食屋パンヤの食堂(後の北極星)が発祥という説があります。煉瓦亭は、米等を卵に混ぜて焼くスタイルであり、北極星は、チキンライスにオムレツを乗せケチャップを掛けるというスタイルであり、現在のオムライスの原型と言えます。同様に、芙蓉蛋を日本式にアレンジしたものが天津飯です。その発祥についても、1945年、ラーメン発祥の店として知られる浅草の来々軒に始まったという説、大阪の大正軒が、1920年代に考案したという説があります。いずれにしても、オムライスも天津飯も、日本にしか存在しない洋食と中華料理です。

オムレツケーキも、日本にしか存在しない洋菓子です。最も一般的なものは、薄い円形のスポンジ・ケーキで、生クリームとバナナを包んだものであり、バナナ・ボートとも呼ばれます。スポンジ・ケーキを卵に見立てたわけです。オムレツケーキといえば、フランス料理屋の”自由が丘トップ”という名前ががよく出てきます。1960年代にはメニューにあったという話もありますが、店が廃業しているので、詳細は不明です。しかし、オムレツケーキの元祖は、秋田県のたけや製パンが1955年に発売したバナナボートだと思われます。現在も、定番商品として販売されています。日本で最も売上の多いオムレツケーキは、山崎パンの”まるごとバナナ”だと思われます。これは、1968年にたけや製パンと提携した山崎パンが、同社から移入した商品だと聞きます。

オムレツの起源は、古代ペルシャとも言われるようですが、恐らく古くから世界中に似たような料理があったのでしょう。現在では、世界中でオムレツ、オムレットと呼ばれていますが、フランス語の”omelette”が元になっています。フランス料理としての”omelette”は、16世紀に生まれたとされます。これが現在のオムレツの起源ということなのでしょう。同じ頃、日本でも鶏卵を食べることが一般化しています。江戸期の人気卵料理の一つに「たまごふわふわ」があります。熱いだし汁に卵液を入れて蓋をしふわふわに蒸し上げる料理です。モン・サン=ミッシェルのスフレ・オムレツといい、たまごふわふわといい、どうも卵は、ふわふわにしたくなるもののようです。(写真出典:gnavi.co.jp)

2024年10月17日木曜日

サンスクリット

卒塔婆の梵語
中学の頃、教師が話してくれたサンスクリット語の話が、いつまでも頭に残っていました。仏様にあげる水を”閼伽(あか)”と言います。船底にたまった水も”淦(あか)”と言います。船底の水を掻き出すことを”あかくみ”と言います。一方、ラテン語や英語でも、水はaquaと言います。これらは、すべてサンスクリット語に起源があるから同じなのだ、というのです。世界史のダイナミズムに、心底、感動しました。しかし、この話はよく知られたまったくの俗説であることを、後に知りました。サンスクリット語は、3,000~3,500年前に成立したインドの聖典「リグ・ヴェーダ」で使われたヴェーダ語に始まり、文法的な整理が行われたうえで完成したとされます。

サンスクリットとは“正しく構成された”という意味だと聞きます。完成度の高い言語がゆえに、宗教の経典はじめ、文学、哲学等々で広く使われていきます。ヒンドゥー教や仏教の伝播とともに、インドはもとより、アジア一帯に広がっていき、各地の言語にも大きな影響を与えたようです。ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が紀元前4世紀に入滅した後、弟子たちがその教えを広めていきますが、数百年間は口頭での伝承が行われ、仏典は存在しませんでした。文字は存在していたのですが、教えが人間から離れていくことを懸念した釈迦が文字化を禁じたとされます。口伝に使われた言語は、文語的なサンスクリットではなく、パーリ語などのプラークリットと呼ばれる俗語だったようです。紀元前1世紀頃になると、パーリ語等で仏典が編纂されていくことになります。

4世紀、グプタ朝が北部インドを統一すると、サンスクリット語が公用語とされます。以降、仏典もサンスクリット語で記されていくことになります。釈迦入滅後、弟子たちの間で釈迦の教えの解釈を巡る議論が起こり、部派仏教の時代を迎えます。大雑把に言えば、スリランカを経て南アジアに伝播した上座部、チベット経由で中国へ伝播した大乗に分かれるわけですが、大乗の経典は概ねサンスクリットで記載されていました。最初に仏典を漢訳したのはは、亀茲国の鳩摩羅什とされます。4世紀のことです。使われた原典はサンスクリットではなかったようで、旧訳とも称されます。5世紀以降、入竺求法僧が多くのサンスクリット仏典を持ち帰り漢訳します。最も有名なのが7世紀に入竺した唐の玄奘ということになります。

仏教は、6世紀、百済の聖明王によって日本にもたらされます。その後、遣唐使として入唐した僧たちによって、多くの仏典が持ち帰られ、サンスクリット語も渡来することになります。漢訳仏典には、サンスクリット語の発音を漢字に置換えた音訳も含まれています。従って、日本にも、仏教用語を中心にサンスクリット語の音訳が多く残ります。ウッランバナが盂蘭盆、ナモが南無、ストゥーパが卒塔婆、シャリーラが舎利、クシャナが刹那、また、一般化した言葉の例としては、ダーナが旦那、ナラカが奈落、クサンメがくしゃみ等があります。また、日本語の五十音は、サンスクリット語の音韻配列に基づいているとされます。ちなみに、今でも日本の卒塔婆の上部には、サンスクリット語で「地・水・火・風・空」と書かれています。

馬鹿という言葉は史記に由来するとされます。秦の滅亡を招いた大悪人・趙高は、ある時、自分の味方と敵をはっきりさせるために、宮廷に鹿を連れてきて、これを馬だと言い張ります。趙高は、鹿じゃないですか、と言った役人を皆殺しにします。馬鹿の起源として有名な話ですが、異論もあります。サンスクリット語で愚かを意味するモハの音訳”莫迦”を起源とする説もよく知られています。Google翻訳で調べてみると、馬鹿は、ヒンディー語でムルク、シンハラ語でムーネェ、ネパール語でムルカ、ベンガル語でボカ、インドネシア語でボド、韓国語でパボと言います。確かに、どこか似たような響きがあるようにも思えます。少なくとも、”あか”と”aqua”よりは納得感があります。(写真出典:ohno-inkjet.com)

2024年10月15日火曜日

アジア版NATO

第102代内閣総理大臣に就任した石破茂氏は、最近の自民党にあっては、なかなかに誠実な政治家だと思います。誠実さこそ、国民の付託を受けた国会議員に欠かせない資質だと思います。近年の自民党には、国民の声とも言える国会での議論やマスコミの取材に対して誠実に応えない風潮があり、実に嘆かわしいと思います。そういう姑息な政治家が党の中核を占める時代が続き、誠実な石破氏は孤立してきた面があると思います。それだけに、肝胆相照らす同志や有能なスタッフに恵まれない面があるのかもしれません。今般、明らかになった石破氏のアジア版NATO構想には、目が点になりました。総理を支えるアドヴァイザー不足が露呈したようにも見えます。

アジア版NATO構想には、素人でも分かる大きな問題があります。まずは、同盟国の危機に際して軍事力を展開することは日本国憲法に反します。NATOは、そもそもソヴィエト(ロシア)への軍事的抑止力として機能してきました。アジア版では、対中国・北朝鮮・ロシアということになるのでしょうが、中国の反撥は必至です。加えて、中国の横暴に眉をひそめるアジア各国であっても、経済的関係から全面対決は避けたいはずです。世界の覇権を中国と争う米国でも、軍事的対立を明確にすることは避けたいはずです。また、アジア版NATOとなれば、核の問題は避けて通れません。いずれにしても、アジア版NATO構想は、誰もが夢想するにしても、誰もが参加を望まない代物であり、白昼夢のようなものです。 

一政治家が夢想している分には許されるとしても、内閣総理大臣が口にすべきことではなく、ましてや検討を指示するなど首相の趣味に税金を使うようなものです。ストレートな軍事同盟を意味していないのであれば、誤解をさけるために別の名称を用いるべきでしょう。実現可能性がほぼゼロですから、今のところ、米中はじめ国際社会は、まったく相手にしていません。いかにスタッフ不足であっても、極めて優秀とされる石破氏がこのような状況を理解していないとも思えません。だとすれば、アジア版NATOを掲げる石破氏の真のねらいは何なのか、と勘ぐってしまいます。アジア版NATO構想の行き着く先には、憲法改正があります。以前から、石破氏は憲法改正論者であり、9条2項「戦力の不保持」を削除すべきと発言しています。

石破氏の発言は、軍事オタクのエキセントリックな発言と受け取られがちです。しかし、安全保障に関わる同氏の考え方は、極めて真っ当だと思います。誤解されるのは、、同氏の発言が、あまりにもストレートに過ぎるからではないかと思います。直接的な表現は、同氏の誠実さ、あるいは不器用さがゆえだと思います。万が一、石破氏が、アジア版NATO構想を憲法改正へのアプローチと考えているとすれば、同氏らしからぬことであり、安倍晋三並みの姑息さだと思います。こと憲法改正に関しては、国民を巻き込み、真っ正面から、時間をかけて議論すべきです。その議論こそが、国を正しい方向へと導き、真の政治を取り戻していくことにつながると思います。自民党も野党も、正面から取り組むべき課題や問題を先送りするばかりでした。それが日本を三流国家へ押しやってきた面があります。

総理を支えるアドヴァイザー不足という点に関しては、日本が直面する大問題の一つが透けて見えます。誤解を恐れずに言えば、官僚の弱体化という現象です。戦後日本の復興・発展を主導してきたのは官僚だったと言われます。日本の優秀な人材が霞ヶ関に集結し、政治とタッグを組んで日本を動かしてきたと言えるのでしょう。しかし、縦割り行政、組織権益への拘泥等が生んだ硬直化は、時代に取り残された官僚組織を生んだように思います。政治主導で、行政改革、働き方改革、悪名の高い内閣人事局などの対策が打たれてきました。それらの理念は間違っていないにしても、結果的には官僚の弱体化を招いたように思います。今や優秀な人材は民間や海外に流れているとも聞きます。官僚の弱体化は、国民にとっても、政治にとっても、不幸なことであることを、自民党は再認識すべきだと思います。(写真出典:hokkoku.co.jp)

2024年10月14日月曜日

ブラック・コーヒー

コーヒーは、子供の成長に悪影響があるというので、小学生の頃は飲ませてもらえませんでした。それだけに、子供も飲めるコーヒー牛乳は魅力的な飲み物だったように思います。コーヒー牛乳は、コーヒー味の甘い飲料であり、コーヒーではありません。コーヒーは、発育上の問題もあるのでしょうが、そもそも子供は苦味が大の苦手です。たっぷりの砂糖とミルクがなければ、とても飲めないと思います。もっとも、かつては大人でもコーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んでいたものです。それが、時代とともに、かなり変わってきたというデータを見ました。

40年ほど前までは、砂糖とミルクを入れて飲む人が6割を超えていたのですが、最近では、ブラックが5割、ミルクだけが2割5分となり、砂糖とミルクを入れる人は2割程度にまで減ったようです。コーヒーを飲む文化が定着し、一般化したことが、その背景にあると言われます。コーヒーの味が分かるようになったというわけです。ただ、日本に輸入されるコーヒー豆の品質が良くなったこと、苦味が強かったインスタント・コーヒーの味が改善されたことも関係しているように思えます。また、日本発祥の缶コーヒーも、かつてはコーヒーではなくコーヒー飲料だけでした。ところが、1980年代にはブラック・コーヒー缶が発売され、人気を博します。データによれば、日本のブラック・コーヒー化が一段と進んだのは1990年代でした。

1996年に日本1号店を銀座に出したスターバックスの影響も大きかったのではないでしょうか。アメリカでは、1970年代あたりから、シアトルのコーヒー・ショップが、深煎りコーヒーを楽しむセカンド・ウェーブという流れを作ります。アメリカンとも呼ばれる浅煎りのコーヒーに慣れ親しんだアメリカ人にとって、深煎りコーヒーは新鮮な味だったのでしょう。日本に上陸したスタバは、おしゃれな雰囲気もあって、瞬く間に日本中に店舗を拡大します。現在、スタバは、全都道府県に、約2,000店舗を展開しています。スターバックスは、アメリカだけでなく、欧州以外の国に深煎りコーヒーの味を広めたとも言えます。2000年代に入ると、コーヒー豆の産地にこだわるサード・ウェーブが登場します。深煎りコーヒーへの反動だったかもしれません。

2015年、カリフォルニア州オークランド発祥のブルーボトル・コーヒーが清澄に店を出し、サード・ウェーブを日本に伝えました。コーヒー豆の品種や産地の違いを楽しむというサード・ウェーブの流行が、ブラック・コーヒー派の拡大に寄与したのかもしれません。また、ブラック化には、高齢化が大きく関係しているという説もあります。人は年齢とともに苦味に鈍感になっていくのだそうです。確かに、データを見れば、高齢になるほどブラック・コーヒー派が多くなります。もう一つの大きな要因は、健康指向の高まりではないかと思います。かつて喫茶店のテーブルには、角砂糖やブラウン・シュガーが置かれていました。ある時期から人工甘味料が加わりましたが、今では卓上の砂糖類はほとんど見かけません。

面白いことに、日本でブラック・コーヒーと言えば、砂糖もミルクも入れないコーヒーを指します。ところが、欧米では、ミルクを入れないのがブラックであり、砂糖を入れてもブラック・コーヒーと呼ばれます。まったく好みの問題ではありますが、個人的には、酸味を楽しむならブラック、コクを楽しむならミルク入り、だと思っています。いずれにしても、コーヒーの楽しみ方は、世界各地、実に様々です。コーヒーに加えるものと言えば、概ね、砂糖、ミルク系、スパイス類が代表的なものとなります。他にも、リキュール類、卵(エッグ・クリーム)等もあります。また、フレイバー・コーヒー、さらには紅茶とのブレンドまであります。各地の気候・風土にも依るのでしょうが、豆の種類や入れ方とも関わって多様性が生まれたものと思われます。(写真出典:tabelog.com)

2024年10月13日日曜日

「私生活」

監督:ルイ・マル    1962年フランス

☆☆☆+

近年、古い映画の4Kデジタル・リマスター版が、相次いで劇場公開されています。今年、ブリジット・バルドーが90歳を迎えたことを記念して、彼女の映画の4Kデジタル・リマスター版特集が、テアトルシネマ等で上映されました。そのなかの一本、ルイ・マル監督の「私生活」(1962)を見てきました。ブリジット・バルドーは、”BB(ビビ)”と呼ばれます。イニシャルとフランス語の赤ん坊を掛けた愛称です。BBは、1950年代後半から60年代にかけて、世界中で最も人気のあった女優の一人でした。ただ、1973年、40歳を前に引退しています。私が見たBBの映画は、1960年代後半からの2~3本に限られます。あの個性的な顔は一度見たら忘れることはありませんが、どの映画でも同じ顔だったとも言えます。

BBは、俳優でも、歌手でもなかったように思います。時代を象徴するアイコン、あるいはアイドルだったのだろうと思います。演技力や歌唱力の高みを目指そうなど、思ったこともなかったのではないでしょうか。そのことがBBの魅力の本質につながっているとも思います。セックス・シンボル、ニンフ、小悪魔等々といったBBのキャッチ・フレーズは、配給会社とマスコミが作ったイメージですが、これが実に効果的にBBの人気を高め、かつ、ありままのBBを提示するだけで商売ができる仕組みを構築したとも言えます。BBの実体は、金持ちの高慢でわがままなお嬢さんということなのだろうと思います。猫のような顔立ちと不機嫌そうな表情は、いつも世間や周囲に対して”Non”と言っているかのように見えます。

際だって高い自立心、あるいは軽やかな反逆性こそがBBだ、と言ってもいいのでしょう。そういったオーラを持つ女優は初めてであり、それが時代の空気を象徴していたからこそ、BBは大人気になったのだと思います。「私生活」は、BBが女優になった経緯、大人気ぶりとそれが生んだ苦悩といった実生活を下敷きに構成されたフィクションです。ルイ・マルは、実に面白いことを考えついたものだと思いますが、BBのキャラクターに惚れ込んでいたからこそ生まれた発想だとも思います。ルイ・マルもお金持ちの生まれですが、24歳でドキュメンタリー「沈黙の世界」(1956)を撮り、いきなりカンヌでパルムドールを獲ります。1958年には、自費で「死刑台のエレベーター」を撮り、長編映画デビューしています。

「死刑台のエレベーター」は、ジャンヌ・モローの個性的な表情、緊張感を生む手持ちカメラ、マイルス・デイビスの即興演奏による音楽も含め、初期ヌーベル・ヴァーグの傑作とされます。ルイ・マルは、五月革命の際、ゴダールやトリフォー等とともに、過激な言動を行ったことでも知られます。その後、アメリカに渡り、11歳だったブルック・シールズが娼婦を演じて話題となった「プリティ・ベビー」(1978)、ヴェネツィアで金獅子賞を獲った「アトランティック・シティ」(1980)、同じく金獅子賞を獲った自伝的映画「さよなら子供たち」(1987)等を撮りました。幅広い映画を撮ったことで折衷的とも言われるルイ・マルですが、その斬新で巧みな映画文法にはいつも感心させられます。「私生活」も巧みに構成された映画だと思います。

映画の後半は、スポレート・フェスティバルを舞台にしています。スポレートは、ローマの東、ペルージャ県の古い町です。その歴史は、古代ローマにまでさかのぼります。1958年から開催されている”二つの世界の祭典”は、オペラ、映画、音楽、ダンス等幅広いジャンルで構成されます。イタリアを代表する総合芸術祭と言われます。かつて、ビスコンティ、ゼッフィレッリ、ポランスキーといった映画人がオペラの演出を手がけたことでも知られます。一度は行ってみたい芸術祭ですが、チケットの入手、ホテルの確保は至難と聞きます。映画を撮影した頃、芸術祭はまだ始まって数年だったわけですが、ルイ・マルはいいところに目を付けたものだと思います。町が醸す良い風情と芸術祭の興奮が映画を引き立てています。(写真出典:moviewalker.jp)

2024年10月12日土曜日

梨園

若い頃、一時期ですが、歌舞伎座に通ったことがあります。といっても幕見専門でした。幕見とは、一幕だけを最上階の4階、いわゆる天井桟敷から見るチケットです。もう40~50年前のことですが、料金は4~500円だったと記憶します。幕見ですから、一幕で入れ替えになるわけですが、混んでいなければ、追加料金なしで続けて何幕も観ることもできました。その当時は、片岡孝夫と坂東玉三郎、いわゆる孝玉コンビが大人気でした。この二人が演じる世話物の艶やかさは語り草になっています。同じ頃、大評判を取っていたのが、三代目市川猿之助、後の二代目市川猿翁の宙乗りでした。宙乗りのロープは、幕見席の端の囲われた一角から伸びていました。幕見席は、猿之助のケレンを、他の観客とは異なるダイナミックな角度から見ることができたわけです。

ケレン(外連)とは、道具などを使った奇抜で派手な演出を指します。宙乗り、早替わり、仕掛け物などがあります。明治期以降は、演技や踊りといった芸道の本筋から外れたごまかし、邪道として扱われてきました。それを昭和の舞台に復活させたのが猿之助でした。歌舞伎界や評論家からはサーカスまがいなどと非難が殺到しますが、観客からはヤンヤの喝采を受け、歌舞伎人気を大いに盛り上げました。また、猿之助は、現代歌舞伎とも言えるスーパー歌舞伎を創作したことでも知られます。第1作は、哲学者の梅原猛が脚本を手がけた「ヤマトタケル」でした。古典とモダンを融合した派手な舞台、衣装、音楽は、世間の度肝を抜いたものです。海外からも絶賛された猿之助は、オペラの演出なども手がけ、世界的な活躍を見せました。

猿之助の派手な演出は、歌舞伎界が忘れていた芝居本来の姿への回帰だったと思います。歌舞伎の舞台は、古典芸能の高尚な鑑賞会ではありません。本質的には、客を沸かせてナンボ、という庶民的な興行の世界です。また、驚かせて終わりなら、まさにサーカスや奇術ということになりますが、想定を超えた驚きによって観客を一気に芝居の世界へと没入させる効果も大きいと思います。江戸期の歌舞伎は大人気でしたが、一方で、役者は河原者と軽蔑され、売春も当たり前という世界でした。明治になると、脱亜入欧を図る政府によって演劇改良運動が提唱されます。運動自体は、行き過ぎも揺り戻しもあって、成功とまでは言えなかったようですが、歌舞伎の近代化や地位向上には効果がありました。ただ、そこで本質が忘れられた面もあったわけです。

歌舞伎界、とりわけ団十郎を代々襲名する市川宗家を頂点とする門閥は、梨園とも呼ばれます。梨園とは、唐の玄宗皇帝が、梨を植えた庭で、自分好みの音楽や演劇を芸人に指導したことから生まれた言葉だとされます。歌舞伎界の別称として使われたのは明治期からのことだったようです。当初は、差別的な意味合いをもって使われていたようです。それが、いつの頃からか、俗世界とは隔絶された、何やら高貴な世界といった使い方に変わりました。どうにもこの使い方には違和感を覚えてしまいます。恐らく、戦後のいい加減なマスコミが誤って使い始め、一般化した言葉なのでしょう。門閥制度は悪いことばかりではないのでしょうが、新たな才能を拒むことで歌舞伎界全体を衰退させていく懸念もあります。

歌舞伎の歴史の中で、門閥外から座頭になったのは、江戸中期の初代中村仲蔵、幕末の四代目市川小團次の二人だけです。坂東玉三郎も、東京の料亭の息子であり、門閥外ですが、その芸が見込まれ、14歳で十四代目守田勘弥の芸養子になっています。人間国宝の六代目中村東蔵も門閥外の出身ですが、六代目中村歌右衛門の芸養子になっています。この芸養子、あるいは養子という仕組みが、門閥外の才能を取り込み、かつ門閥制度を保つ仕組みになっていると言えます。ちなみに、歌舞伎に変革をもたらした三代目猿之助は門閥外の才能を発掘し、育てることにも熱心だったことが知られています。なお、問題を起こした四代目猿之助は、三代目の甥です。三代目の実子は香川照之/市川中車ですが、複雑な事情で四代目を継いでいません。このあたりは実に梨園らしいとも思います。(写真:二代目市川猿翁 出典:ja.wikipedia.org)

2024年10月11日金曜日

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」

監督:アレックス・ガーランド  原題:Civil War  2024年アメリカ・イギリス

☆☆☆

A24の製作・配給ですが、製作費5,000万ドルは同社にとって過去最大であり、興行収入も「ヘレディタリー/継承」(2018)を超えて最高額になったようです。アレックス・ガーランドは、小説家から脚本家・監督に転じた人で、2015年のSF映画「エクス・マキナ」(2015)で評価されました。低予算映画ながら、独特なムードを持つ面白い映画でした。アカデミー脚本賞にもノミネートされ、視覚効果賞を受賞しています。「エクス・マキナ」は、閉鎖空間内で、登場するのは人間2人とロボット2体だけという、いわば脚本主体で展開できる映画でした。報道カメラマンの世界、前半はロード・ムービー、後半は戦争映画という本作は、ややガーランドの手に余ったのではないかと思います。

この映画がヒットした最大の要因は、米国の内戦という着想にあるのだと思います。トランプがブーストさせた米国の二極化は、議会襲撃事件を挙げるまでもなく、危ういレベルにまで達していると思われます。それを内戦という究極的な形で提示されれば、米国民の多くは劇場へ足を運ばざるを得ないわけです。本作は、2022年に制作が決定し、即座に撮影に入ったようです。急いだ理由は、恐らく大統領選にぶつけるということなのでしょう。そういう意味では、映画の出来よりも公開のタイミングが重要であり、まんまと成功したと言えます。本作において、二極化や内戦は、テーマではなく、あくまでも背景としての設定です。従って、その原因や要因は、一切、語られず、示唆すらもされていません。決して社会問題に向き合った映画ではないということです。

本作のメイン・プロットは、新人報道カメラマンの成長です。ベテランと新人を配し、特殊ともいえる報道カメラマンの世界を描くという、ある意味、伝統的な手法が採られてます。そのプロットを内戦下のロード・ムービーとして展開するという発想は面白いと思います。ただ、時間的制約ゆえか、演出はこなれていない面が目立ちます。それが妙にA24っぽさを感じさせ、それはそれで楽しめます。映画の性格上、決定的な戦闘シーンは避けがたく、それをホワイトハウス内に絞り込んだのは、撮影上も予算上も良い着想だったと思います。ちなみに、戦闘シーンは、独特なキレがあって、良く出来ていたと思います。最高額となった製作費は、主に戦闘シーンに費やされたのでしょう。

しかし、映画のなかで、最も重要と思われるシーンは、ホワイトハウスにおける戦闘シーンではありません。ジャーナリストたちたちが、殺害した多くの住民を埋めている西軍兵士に遭遇するシーンこそが、この映画の肝なのでしょう。西軍兵士がやっていることは、リーダーの冷酷さや人種差別を含めて、明らかにナチスを想起させるねらいがあると思われます。映画は、反旗を翻した側にも連邦側に対しても中立的であることに気を使っています。ただ、このシーンだけが、製作側のスタンスを鮮明にしてます。西軍のリーダー役のジェシー・プレモンスは、リアルな冷酷さを見事に演じています。プレモンスを起用したあたりにも製作側の思い入れを感じます。しかもプレモンスは、なぜかノンクレジットでの出演です。

急いだせいか、脚本にも、演出にも詰めの甘さを感じる映画ですが、ベテラン報道カメラマンを演じたキルスティン・ダンストの存在が映画を引き締めていると思います。キルスティン・ダンストは、子役時代から切れ目なく活躍するベテラン女優です。画面に出ているだけで存在感を示すことができる希有な役者の一人です。近年で言えば、ジェーン・カンピオンの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(2021)でアカデミー助演女優賞にノミネートされています。キルスティン・ダンストを起用した製作陣の慧眼には脱帽ものです。ちなみに、キルスティン・ダンストは、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でも共演したジェシー・プレモンスとは実生活でも夫婦です。プレンモンスが、本作にノンクレジット出演した背景でもあるのでしょうか。(写真出典:eiga.com)

2024年10月10日木曜日

梁盤秘抄#32 BLACK & WHITE NIGHT

アルバム名:BLACK & WHITE NIGHT(1989)                                                  アーティスト:ロイ・オービソン

1987年、LAのアンバサダー・ホテル内のココナツ・グローブで行われたライブを録音したアルバムです。翌1988年末、ロイ・オービソンは心筋梗塞のため、52歳で急逝します。本アルバムは、死後の1989年にリリースされています。今はなきアンバサダー・ホテルは、かつてLAを代表するホテルでした。1968年、ロバート・ケネディが暗殺された場所でもあります。ココナツ・グローブは、やはりLAを代表するナイトクラブであり、大物たちがライブを行い、アカデミー賞の授賞式も行われていました。ホテルが面するウィルシャー・ブールバードの治安悪化とともに、ホテルも廃れていきました。1987年、私が訪れた時には開店休業状態でした。

ロイ・オービソンと言えば、「オー・プリティ・ウーマン」ということになります。オリジナルは、1964年に全米No.1ヒットになっています。1982年には、ヴァン・ヘイレンがハード・ロック的にアレンジしてヒットさせています。そして、1990年に公開された映画「プリティ・ウーマン」の主題歌として使われると、映画の世界的ヒットとともに爆発的なリバイバル・ヒットになりました。アメリカ放送音楽協会の「20世紀アメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」では26位にランクされています。誰もが聞いたことのある曲と言ってもいいいのでしょう。ちなみに、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツが主演した映画は、現代版マイ・フェア・レディですが、その年の全米興行収入No.1になっています。

「オー・プリティ・ウーマン」は、確かに名曲だとは思いますが、ロイ・オービソンの魅力を伝えている曲だとは思いません。あの独特で滑らかな声は、うっすらとした哀愁をモダンに都会的に表現した時、唯一無二の境地を生み出すと思っています。私は「Blue Bayou」(1963)が一番ロイ・オービソンらしいと思っています。故郷のバイユー・カントリーと残してきた恋人を思う歌です。今でも、聞けば、ノスタルジックな色調を帯びた緩やかな哀愁に酔うことができます。1977年には、リンダ・ロンシュタットがカバーして大ヒットさせています。偉大なリンダですから、切々と歌い上げるカントリーの名演に仕上がっているのですが、オリジナルとはムードがまるで違います。Blue Bayouは、やはり、ロイ・オービソンに限ります。

似た曲調の歌に「クライング」(1961)があります。失恋した男の歌です。これもロイ・オービソンらしさがよく出た曲だと思います。これまたドン・マクリーンのカバー・ヴァージョンが大ヒットしています。デヴィッド・リンチの意味不明映画「マルホランド・ドライブ」(2001)でも効果的に使われていました。デヴィッド・リンチは、ロイ・オービソンがお気に入りと見えて、「ブルー・べルベット」(1986)では、ボビー・ヴィントンの同名ヒット曲(1963)とともに、ロイ・オービソンの「イン・ドリームス」(1963)が象徴的に使われており、映画の独特なムードとともに、いつまでも耳に残りました。ロイ・オービソンの歌は、すんなりと入ってきて、妙にいつまでも残るという、とても不思議な魅力があります。

ロイ・オービソンは、1936年、テキサスのヴァーノンで生まれています。子供の頃から、TVやラジオに出演しており、19歳でレコード・デビューしています。1960年代から低迷期に入りますが、1987年にはロックの殿堂入りを果たしています。デビューから32年が経っていました。このアルバムが録音されたココナツ・グローブでのライブは、殿堂入りのお祝いを兼ねていたのでしょう。ライブには、ロイ・オービソンを敬愛する多くのミュージシャンが集まり、バックバンドとして演奏に参加しています。ブルース・スプリングスティーン 、ジェームズ・バートン、エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツ、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット等々、豪華なメンバーになっています。翌年、突然、ロイ・オービソンが亡くなるとは、誰も思っていなかったはずです。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年10月9日水曜日

元号

現在、元号を使う国は日本だけです。元号は、漢の武帝の時代に始まり、統一国家の治世の始まりを象徴するとされます。日本では、孝徳天皇の即位とともに定められた大化が元号の始まりです。645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変が起きます。孝徳天皇が擁立されるとともに大化という元号が定められ、いわゆる大化の改新が始まります。部族連合だった日本を、天皇を中心とする中央集権国家へと変えた改革として知られます。揺れ動く大陸・半島情勢を受けて、日本が急速に国家としての体裁を整えていった時代です。日本という国名、天皇という称号も定められます。白村江の戦いで大敗した後は、唐の襲来に備えて遷都や城塞の構築も行われました。

日本における元号制定は、中国文化の単なる模倣ではなく、中央集権化の象徴だったわけです。かつて、中国はもとより、その影響下にあった多くの国々も元号を使っていました。ただ、いずれも王政の終焉とともに廃止されています。日本では、武家政権誕生後も天皇制が維持され、薩長による明治政府も天皇を中心とした国家体制を目指しました。元号も天皇制とともに継続されてきました。太平洋戦争に敗れると、天皇は象徴とされ、主権在民の時代が始まります。当然、元号廃止論も唱えられます。最も有名なのが、元号を廃止することが適当とする日本学術会議による1950年の決議だと思います。ただ、天皇制への言及はなく、利便性の高さ、民主義の観点、そして法的根拠がないことを理由とする決議でした。

明治憲法には、天皇が元号を決めるという定めがありました。しかし、明治憲法そのものが、敗戦ととともに廃止されます。その後、しばらく、元号は法的根拠のない慣習として継続されていました。昭和天皇がご存命だったから可能だったとも言えます。1979年に至り、政府が元号を決めるという元号法が制定されています。制定に際しては、当然、元号廃止も議論されましたが、世論としては慣れ親しんでいるからという消極的賛成論が大層を占めました。一方、廃止論も、非効率、他国に存在しないといったレベルの論拠が中心であり、象徴として定着した天皇制の廃止を議論するようなものではありませんでした。つまり、元号については、本質的な議論はなされず、ズルズルと継続されてきたとも言えます。

元号が持っていた本来的意味は、とうのむかしに失われています。そういう意味においては慣例に過ぎないとも言えます。ただ、今日的に言えば、元号は、立憲君主制における象徴としての天皇と同様、国の統一を象徴し、国体を維持するための文化なのだと思います。実務的に言えば、元号法はじめ法令において、元号の使用は、公文書ですら一切強制されていません。無限に連続する西暦に比べ、有限の元号は使い勝手が悪いことは当然です。従って、元号と西暦の併用は現実的な選択だと思います。一方で、元号には、一つの時代を容易に表わすことができるというメリットもあります。それは歴史的継続性も持っています。また、国民に新しい時代の幕開けという刷新感を与える効果も大きいと思います。

元号は、飛鳥時代の大化に始まり、令和に至るまで248代を数えます。それぞれが、その時代の理想や願いを込めて命名されています。明治以降は、一世一元制、つまり天皇一代につき元号を一つとする制度になりましたが、かつては、践祚に限らず、災害や疫病からの復旧・回復を願い、あるいは吉祥、つまり縁起の良いことが起きた際に改元されることもままありました。元号は、人心に与える影響も考慮して決められてきたわけで、日本の社会の変遷が刻まれた歴史そのものとも言えます。ちなみに、元号は、概ね、儒教が重視する四書五経のなかから選定された漢字2文字で表わされます。令和は、万葉集のなかから選ばれた元号です。歴史上、初めて、中国の古典ではなく日本独自の古典から選定されたという誠に意義深い元号です。(写真出典:mainichi.jp)

2024年10月7日月曜日

「憐れみの3章」

監督:ヨルゴス・ランティモス 2024年アイルランド・英国・米国            原題:Kinds of Kindness 

☆☆☆☆ー

ヨルゴス・ランティモスの「女王陛下のお気に入り」(2018)と「哀れなるものたち」(2023)は、世界の映画賞を大いに賑わせ、彼の名前を世界に轟かせました。しかし、今にして思えば、この2作は、ランティモスにとっては、随分とマイルドでコマーシャルな作品だったと言えるのでしょう。本作は、不条理劇、ダーク・コメディ、グロテスク、セックスといった要素がドライなテイストで淡々と描写され、かつ延々3時間に渡り続きます。彼の本領発揮というところなのでしょう。映画は、独立したシチュエーションを持つ3部構成になっていますが、同じ役者によって演じられ、奇妙なつながりを持っています。「奇妙な味」と呼ばれる小説に似ていますが、よりハードであり、その突き詰め方は、さすがギリシャ悲劇を生んだ国の人と思ってしまいます。

原題の”Kinds of Kindness”は、様々な親切、やさしさといった意味でしょうか。いずれにしても他者との関わり方に関する表現ですが、映画は主体性の危うさがテーマになっているように思います。皮肉の利いたタイトルなのでしょう。第1部「R.M.Fの死」は、人は主体的に生きているようで、全くそうではないというというストーリーに見えます。第2部「R.M.F.は飛ぶ」は、主体によって異なる真実が交錯するドラマになっています。第3部「R.M.F.サンドイッチを食べる」では、主体的に見えても主体性を放棄した人生の皮肉を描いています。映画は、R.M.F.というイニシャルの人物が、屋敷に到着するシーンから始まり、サンドイッチを食べているシーンで終わります。

R.M.F.は、第2部でも、ヘリのパイロットとして登場します。R.M.F.は、ある種の舞台回しなのでしょうが、そのイニシャルが意味するところは何なのかよく分かりません。映画全体、特に第2部は、荘子の「胡蝶の夢」を思わせるものがあります。自分が胡蝶になって飛ぶ夢を見た荘子は、自分は胡蝶が見た夢なのではないかと錯乱します。”無為自然”を説いた荘子は道教の始祖の一人とされ、生と死、善と悪、貴と賤といった人間が頭で考えた対立概念など無意味な見せかけに過ぎないと断じます。ギリシャの哲学者の末裔とも言えるランティモスは、生き方までは訴えていませんが、人間の意識が本来的に持っている矛盾や危うさに切り込んでいると言えるのではないでしょうか。

「ラ・ラ・ランド」と「哀れなるものたち」で2度のアカデミー主演女優賞に輝くエマ・ストーンは、ラモンティス映画には欠かせない存在です。今回も大いに楽しんでいるような印象を受けました。怪優ウィレム・デフォーは、ランティモスやウェス・アンダーソンといった風変わりな監督たちに好まれる傾向があります。ジェーン・カンピオンの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でアカデミー助演賞候補にもなったジェシー・プレモンス、ベトナム系アメリカ人のホン・チャウにも似たような傾向があります。「哀れなるものたち」で映画音楽デビューとなったジャースキン・フェンドリックスは、今回もいい仕事をしています。この人もランティモス映画の常連になるのでしょう。

デヴィッド・リンチのクローズ・アップは有名です。しばしば、物のクローズ・アップが、意味ありげに挿入され、ミステリアスなムードを高めていきます。ラモンティスにも似たような映像の傾向があります。アップではなく、カメラ・アングルです。前から気になっていたのですが、妙な角度からの映像が、時折、挿入されます。恐らく不安感や不安定さを醸し出すテクニックなのだろうと思います。ランティモスの、ごくしっかりとしたフレーム展開のなかに挿入されると、なかなか面白い効果をあげます。今回も、それが効果的に使われているように思いました。ランティモスの次回作は、韓国のSFコメディのリメイクで、エマ・ストーン、ジェシー・プレモンスが主演し、来年11月に公開予定とのことです。今から楽しみです。(写真出典:filmarks.com)

2024年10月5日土曜日

チャイ

もともとチャイ好きではありますが、北インドを旅した2週間弱は、毎日、数杯のチャイを飲みました。甘いのでお茶代わりとまではいきませんが、デザートといったところでしょうか。辛い食事も多いインドですから、食後のチャイはありがたい存在でもあります。立ち寄った土産物屋さんでも、バス移動中の休憩所でもチャイをいただきました。そういう時には、必ず青唐辛子のフリットが付け合わせに出てきます。野菜のフリットが、もう一種類付くのですが、何だったのか覚えていません。インド人のガイドさんに、何故、フリットが付くのかと聞いたところ、昔からそうだという答だけでした。恐らく、チャイの甘さをより楽しむためではないのか、と想像します。

インドのチャイが誕生した経緯は、やや悲しい話になります。チャイという言葉は、中国語の茶からきており、もともとインドにはお茶を飲む習慣はありませんでした。中国語の茶の発音は、内陸部で”チャ”、沿岸部では”テ”になるようです。陸路で伝わればチャやチャイになり、海から伝わればテやティーになったというわけです。欧州にお茶が伝わったのは17世紀のことです。オランダの東インド会社が、長崎やマカオで買った茶葉を持ち込みました。お茶は、高価にもかかわらず欧州の上流階級で大人気となります。高価だから人気が出たとも言えます。17世紀末、英国は、開港された厦門を拠点に中国茶の輸入を始めます。 厦門に集積された茶葉の多くが半熟成茶だったために、欧州では紅茶が主流となっていきます。

アジアとの貿易に先鞭を付けたのはポルトガルでしたが、その後、オランダと英国が圧倒していくことになります。17世紀、アンボイナ事件を境に、英国は、オランダに閉め出される形で東南アジアから撤退します。英国としては、インドの植民地化に注力するほかなくなります。18世紀、英国は、アッサム地方で自生する茶樹を発見します。以降、英国は、プランテーションを展開し、より安価な紅茶を欧州に輸出していきます。北部のインド人も紅茶を飲むようになるわけですが、ミルクと砂糖を入れた英国スタイルが基本となりました。ただ、使う茶葉は、品質が悪く出荷できなかったハネもの、あるいは箱の底に残った茶くずに限られました。それをいかに美味しく飲むかという工夫の末に生まれたのがチャイだったわけです。

チャイは、スパイスを入れたミルク・ティーですから、入れ方も面倒なものではありません。ただ、美味しく入れるためには、いくつかのポイントがあります。まずは、茶葉ですが、一般的な紅茶よりも濃く抽出したいので、CTCと呼ばれる茶葉が適しているとされます。CTCとは、Crush・Tear・Curlさせた茶葉という意味で、細かくて丸い形状が特徴です。嬉野の釜煎茶を小さくしたような見た目です。煮出し方も、経験的に言えば、茶葉をミルクに投入して煮るよりも、茶葉とスパイスだけで濃い紅茶を入れ、その後、ミルクを加えた方が、味も香りも立って美味しいと思います。スパイスは、カルダモン、シナモン、クローブ、生姜などです。恐らくホール・スパイスを使うべきなのでしょうが、市販のティー・マサラで十分だと思います。

そして、大切なポイントは砂糖をたっぷり入れることです。チャイは、砂糖を前提に成立している飲み物だと思います。煮る段階で多めに砂糖を入れた方が美味しいと思います。そして、カップに注ぐときには、泡立てるように高いところから注ぐと一層美味しくなります。インドの街ではチャイ屋を多く見かけます。大鍋で煮出したチャイを、使い捨ての素焼きの茶碗で飲みます。衛生的とは言えないので、飲みませんでしたが、やはり高いところから注いでいました。ところで、本場インドで飲んだチャイの味は日本とは違うのかと言えば、さほど変わりませんでした。シンプルなだけに、どこで飲んでも同じとも言えますが、甘さが味を均一にしている面もあるのでしょう。ただ、ズバ抜けて美味しいと思ったチャイがあります。有楽町のバンゲラス・キッチンのチャイです。使っている茶葉が違うのか、入れ方が上手いのかは分かりませんが、とにかく際だって美味しいのです。(写真:バンゲラス・キッチンのチャイ 出典:tabelog.com)

2024年10月3日木曜日

祇王

祇王寺
平家物語は、軍記物ですが、本質的には無常観を伝える物語だと思います。また、軍記物ながら、多くの女性が登場することでも知られます。平家物語は、琵琶法師によって語られた物語です。聴衆が女性をも含む庶民だったため、登場人物に女性も配し、親近感を与えるねらいがあったのかもしれません。ただ、それ以上に、悲運の女性たちを通じて世の儚さを伝えようとしているように思います。白拍子・祇王の物語は、巻第一の早い段階で語られますが、ある意味、物語のテーマを提示しているようにも思えます。祇王の物語は、現存する平家物語の諸本の全てに掲載されている話ではなく、後代の加筆ではないかという説もあるようです。

祇王は、妹と母とともに近江から京に出て、白拍子になります。平清盛の目にとまり、その寵愛を受けます。清盛の屋敷での日々が3年を迎えた頃、加賀から来た仏御前という若い白拍子が京で人気を集めます。仏御前は、都の人気に飽き足らず、時の権力者・清盛の寵愛を願って屋敷に押しかけます。清盛は、仏御前を追い返そうとしますが、祇王が説得し、その舞を観ることになります。皮肉にも、清盛の寵愛は、祇王から仏御前に移ります。世をはかなんだ祇王は、母、妹とともに出家して、嵯峨野に庵を組みます。これを知った仏御前も、我が身の行く末を悟り、祇王の庵に身を寄せ、出家します。時に、祇王21歳、仏御前17歳。寿命の短い時代とは言え、痛ましい程の若さです。まさに沙羅双樹の花の色というわけです。

祇王の実在性に関しては議論のあるところです。京都の嵯峨野には、かつて祇王が組んだ庵跡に建立されたという祇王寺があります。祇王寺は、苔寺としてよく知られています。苔むす境内には祇王・母・妹のものとされる墓も残っています。また、出身地とされる滋賀県の野津にも祇王寺があり、清盛が祇王に請われて掘削したという用水路・祇王井川も残ります。しかし、いずれも文献上の初出は江戸初期です。野津の鏡宿は、中山道の宿場として栄え、多くの遊女もいたようです。遊女と白拍子を重ねて、この地の祇王伝説が生まれたとする説もあります。また、信楽の玉桂寺にあった重要文化財の阿弥陀如来像の胎内から、寄進者の名前を記した紙が見つかり、そのなかに祇王の名もあったようです。ただ、多少、時代にズレがあるので、別人の可能性もあります。

白拍子は、男装して歌舞を披露する女性芸人です。水干、立烏帽子を身につけ、白鞘巻の太刀を差して踊ったようです。巫女の舞から起こった芸能と言われますが、平家物語では、平安末期、島の千歳、和歌の前という2人の女性芸人が始めたと記されます。また、静御前の母ともされる磯禅師が、信西の指示で始めた芸だという説もあります。平安末期から鎌倉時代にかけて流行し、猿楽にも影響を与えたとされますから能楽の先祖とも言えます。平家物語には、静御前、千手前等々、少なからず白拍子が登場します。男装の舞姫の歌舞が、武家政権の黎明期に流行し、武家に愛されたということは、なかなか興味深いと思います。時代の先端を行く武家に媚びた芸とも言えそうです。

功成り名を遂げた著名人が、芸能人と付き合い、結婚することは、今も昔も変わりません。ただ、人気芸能人とは言え、男性中心社会、かつ戦乱の時代にあって、女性は受身の人生を歩むことになります。時代に翻弄されるのは、人の世の常ですが、最も弱いところに力がかかるのも自然の法則です。平家物語には、人物描写された女性が20人以上登場します。二代后、建礼門院といった天皇の后、小督、葵女御、祇園女御といった天皇の寵妃、小宰相、横笛、内裏女房といった侍女たち、あるいは寵妃ながら武芸にも優れた巴御前も登場します。いずれも支配階層に属する女性たちです。上流社会に出入りはするものの、白拍子だけは性格が異なります。自らの意志で行動する白拍子は、武家と同様、時代が生んだ新人類だったのかもしれません。(写真出典:giouji.or.jp)

2024年10月1日火曜日

「西湖畔に生きる」

監督:グー・シャオガン   原題:草木人間   2023年中国

☆☆☆+

グー・シャオガンの山水映画の”巻二”ということになります。巻一「春江水暖」は、黄公望の山水画「富春山居図」に基づく初の山水映画であり、歴史的とも言える傑作でした。蘇東坡の詩に始まる巻二「草木人間」は、山水映画としての体裁を持ちつつも、巻一とはまったく異なるアプローチがされています。草木人間とは、草と木の間に人が入る”茶”という漢字を指しているようです。西湖の西に広がる山岳は、中国を代表する緑茶・龍井茶(ロンジンちゃ)の産地として知られます。茶は、自然と人間が一体となって中国の伝統が成立していることを象徴しているのでしょう。巻二は、その茶畑を背景に、仏教の「目連救母」という説話に基づくプロットを展開しています。

目連は、釈迦十大弟子の一人です。目連は、幼い頃に死別した母を死後の世界に探します。優しかった母は極楽ではなく餓鬼地獄で見つかります。餓鬼地獄とは、満たされない激しい食欲や欲望に苦しむ地獄です。生前、母は家族を思うあまり良くない事も行い、餓鬼地獄に落ちたのでした。目連は母を救済する手立を釈迦に問います。釈迦は、雨季に民が僧侶に食べ物を施し、僧侶は民に法話を行うことで、餓鬼にも食べ物が行き渡る、と答えます。目連は、釈迦の教えが行われるように努め、ついに母を救済することに成功します。中国版では、目連は、さらに7日7晩読経し続けることで母を生き返らせたとなっているようです。映画では、餓鬼地獄が拝金主義の象徴であるマルチ商法として描かれています。

西湖畔の美しい茶畑の風情とは真逆であるマルチ商法の世界は、地獄絵図として、激しさをもって描かれています。監督の意図した地獄絵図は、力量の確かさもあって、見事に表現されていると思います。地獄絵図の前提の一つは、大衆にとっての分かりやすさだと思います。映画は、その点も十分に考慮されていると思います。ねらいどおりに良く出来たシナリオだとは思いますが、いささかベタに過ぎる演出になっている点が気になりました。ここは痛し痒しといったところなのでしょう。それにしても、現代中国が抱える社会的な病巣を仏教説話に乗せて明らかにするという試みは見事に成功していると思います。その病巣の根源を追求していない恨みは残りますが、検閲の問題もあって、これが限界なのでしょう。

習近平以降、中国映画の検閲は強化されたと聞きます。しかし、それはあくまでも習近平と中国共産党への直接的な批判に限ってのことであり、婉曲的な社会批判は、むしろ緩和されたように思います。監督たちは、ギリギリのところをねらって制作を続け、それが近年の中国映画を面白くさせていると思います。グー・シャオガンは、デビュー作となった「春江水暖」で、深遠なる山河に対する小さな小さな人間の営みという山水画の構図を見事に映画化していました。それは社会問題を糾弾する新たな表現でもありました。今回は、地獄絵図というモティーフを選んだことで、やや山水画の構図が後退した感があります。グー・シャオガンには、山水画の基本に立ち返った巻三を期待したいところです。

現代中国を支配している拝金主義の根源は、改革開放に始まる中国共産党員=官僚による強烈な蓄財欲求にあると思われます。官僚と取り巻きの一部大衆が繰り広げる利潤の追求が、中国のGDPを押し上げた効果も大きいと言えます。沿岸部と地方との経済格差という問題もあります。過日、中国人の友人に聞いた話では、地方の農村でも、蓄財まではできないとしても食うに困ることはなくなったようです。中国らしい極端な政策が功を奏したとも言えるのでしょう。しかし、拝金主義は、餓鬼道そのものとも言え、社会を蝕んでいくものと思われます。文化大革命は、階級闘争の一環として中国五千年の伝統や価値観を否定しました。今、中国が必要とし、かつ早急に対応すべきことは、その復建なのではないでしょうか。(写真出典:moviola.jp)

マクア渓谷