監督:トッド・フィリップス 2024年アメリカ
☆☆☆+
(ネタバレ注意)
「ジョーカー」(2019)は、大ヒットし、高い評価も得ました。その続編とされる本作は、観客からも評論家からも総スカン状態になっています。続編して見れば、確かに”何じゃ、これは”ということになるのでしょう。ただ、独立した風変わりなジュークボックス・ミュージカルとして見れば、それなりに面白い映画だと思いました。とは言え、バットマン・シリーズや前作を下敷きにしているわけですから、続編という性格を否定することは不可能です。何ともややこしい立ち位置の映画だと思いますし、よく制作を決定したものだとも思います。企画は、そうだろうなとは思いましたが、やはりホアキン・フェニックスの思いつきからスタートしているようです。”フォリ・ア・ドゥ”というフランス語は、直訳すると”二人狂い”となるようですが、医学用語としては妄想性障害のうち感応精神病を指します。一人の妄想が他の人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する状態を言います。「ジョーカー」は、虐げられた社会的弱者が異常な復讐者になっていくというストーリーでした。それは、ある意味、革命そのものでもあり、大衆はジョーカーをもてはやします。そのことがジョーカーの異常さを加速させます。本作は、ジョーカーと大衆との関係にフォーカスしてプロットを展開しています。面白い着想です。一人の女性が大衆を象徴する存在として登場します。女性のジョーカーへの狂った愛情、つまり大衆の支持や期待は、ジョーカーを増長させる一方で、ジョーカーの本質でもあった孤独感を薄めていきます。
大衆の支持によって孤独感から解放されたジョーカーは、素のアーサーに戻っていきます。ジョーカーではなくなったアーサーを大衆は切って棄てます。このシニカルなストーリーを、前作のラスト・シーンを継承しつつ、ミュージカルに仕立てるという発想は実に面白いと思います。それが成立するためには、ホアキン・フェニックスの鬼気迫る演技はもとより、レディー・ガガという得がたい存在が必要だったのでしょう。レディー・ガガは、シンガーとしての張った歌い方を封印し、歌で演技していると言えます。それでも凄みや迫力が伝わるあたりはさすがです。それにしても、この人の独特な存在感には驚かされます。また、前作でアカデミー賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルの音楽もドラマチックな仕上がりになっています。
ワーナーのDCコミック、ディズニーのマーベルは、今や映画界を二分する大勢力です。個人的には、マーベル映画は、あまり好みません。実写版ながらCGを多用することでアニメっぽくなっているからです。熱烈なファンではありませんが、DCコミック映画には惹かれるものがあります。単に、なじみ深いキャラクターが多いだけかもしれませんが、大人の鑑賞にも堪えうる深みのある映画が多いと思います。ワーナーの大成功は、間違いなく、クリストファー・ノーランを監督に迎えたことによってもたらされたと思います。ダークナイト・トリロジーは、ワーナーにとって記念碑的作品となりました。コミックの映画化という枠を超え、幅広い層にアピールしたのではないでしょうか。そこがマーベルのアプローチとの大きな違いです。
ラスト・シーンでは、瀕死のジョーカーの向こうに、ナイフでグラスゴー・スマイルを刻もうとする殺人者の姿が映ります。ジョーカーのグラスゴー・スマイルは、道化師のメイクアップに過ぎませんが、殺人者はリアルに切り裂こうとしています。ジョーカーと大衆との関係を端的に象徴するラスト・シーンだと思います。道化が、大衆のなかに真の革命を生み出すという寓意なのでしょうか。いつの時代でも、暴力的革命の始まりは、大衆の熱狂によって生み出されます。その熱狂自体は、冷徹な理論によってひき起こされるものではなく、幻想や妄想の共有によって誘発されるものだと思います。革命や暴動とは、フォリ・ア・ドゥそのものなのでしょう。本作は、トッド・フィリップスが革命の本質を追究すべく撮った映画だとは思いません。ただ、妙に考えさせられる映画でもありました。(写真出典:showcasecinemas.com)