2024年10月25日金曜日

四天王寺

大阪の四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院の一つです。593年に建立が開始されていますが、その直前には蘇我馬子が飛鳥寺を建立しています。今般、初めて四天王寺を参拝してきました。日本最古の寺ながら、ご本尊も伽藍もすべて昭和に再建されているため、なかなか足が向きませんでした。四天王寺は、上町台地の中央部あたりに位置し、かつて西門(極楽門)の前には河内湾が広がっていました。今も西門の門前100mほどのあたりから道が急に下っており、往時の面影を残します。孝徳天皇が難波宮を開くのは7世紀、大化の改新の後です。その半世紀も前に、聖徳太子がこの地に日本最古の伽藍を築いた理由は、日本書紀にも寺の縁起にも明らかです。

仏教擁護派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立は激しさを増し、587年、ついに蘇我氏は物部氏の本拠地・河内国に攻め込みます。しかし、蘇我氏は陣地を固めた物部氏を攻めあぐねます。その時、蘇我軍に参加していた厩戸皇子、後の聖徳太子は、木で四天王像を彫り「この戦いに勝てれば、必ず寺を建てます」と誓願します。すると物部守屋が弓に射抜かれて倒れ、蘇我軍が勝利します。聖徳太子は、物部氏の土地と奴婢を使って四天王寺を建立します。当初、四天王寺は上町台地北部にあった物部守屋の屋敷跡に建立され、後に現在地に移されたという説もあるようです。寺には、キツツキとなった守屋の怨霊が寺を襲い、白鷹になった聖徳太子が追い払ったという伝説も伝えられており、金堂には、今も止まり木が設置されています。

四天王寺の伽藍配置は、極めて独特です。回廊に囲まれた中心伽藍は、中門、五重塔、金堂、講堂が、南北の一直線上に配置されており、四天王寺式伽藍配置と呼ばれます。中国の寺院に倣った飛鳥時代を代表する配置ですが、金堂の目の前に五重塔がそびえている光景には、かなり違和感を感じます。五重塔は、インドの仏舎利を収めるおわん型のストゥーパが中国に伝わり、楼閣建築と一体化したものです。木造の五重塔は、日本にしか残っていないようです。通常、五重塔は内部を上れる構造にはなっていません。ただ、昭和に再建された四天王寺の五重塔は、内部のらせん階段で最上階まで上がれます。伽藍を上から見ることができる寺院など他にはありませんから、とても貴重な光景だと言えます。

ご本尊は、聖徳太子の本地仏とされる救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)であり、四天王、つまり持国天・増長天・広目天・多聞天が四方を守るように配置されています。ご本尊は、彫刻家・平櫛田中が再建を指導したという半跏思惟像であり、飛鳥寺の飛鳥大仏と同じく、大陸の影響を感じさせます。四天王寺には”試みの観音”と呼ばれる高さ20cmばかりの秘仏が伝わります。7世紀中葉、ご本尊建立の際、試作品として造られた仏像とされます。創建当初は四天王だけが祀られていたようですが、天智天皇がご本尊として弥勒菩薩の半跏思惟像を寄進しています。いつしか、これが聖徳太子ゆかりの救世観世音菩薩と呼ばれるようになり、現在に至ります。ちなみに、試みの観音は、毎年8月9、10日だけ開帳されているようです。

不思議なことに、救世観世音菩薩は仏教のいずれの経典にも登場しないと聞きます。観世音菩薩はじめ、地蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩は、法華経信仰が生み出した菩薩とされています。大乗仏教の重要経典である法華経は、仏教伝来とともに日本に伝えられており、日本書紀には、7世紀初頭、聖徳太子が法華経を講じたという記録も残されています。人は皆成仏できるという思想は、階層を問わずに広く信仰され、後の天台宗や日蓮宗へとつながっていきます。救世とは、人々を世の苦しみから救うことであり、大衆の救済、さらには鎮護国家の願いも込められていたようです。聖徳太子開基とされる法隆寺の夢殿にも救世観世音菩薩が祀られており、国宝に認定されています。その高さは、聖徳太子の身長と同じだとされます。救世観世音菩薩は、太子信仰とともにあると言ってもいいのでしょう。(写真出典:osaka-info.jp)

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