2024年10月21日月曜日

桜島

鹿児島市を訪れた際に泊まるべきホテルは、城山観光ホテル、現在のSHIROYAMA HOTEL kagoshimaの一択だと思います。ホテルは、1963年、鶴丸城のあった城山の西端に開業しています。日本一とも言われる朝食バッフェが有名ですが、桜島と錦江湾を一望する眺望こそがホテル最大の特徴だと思います。2000年には、その眺望を楽しみながら入れる露天風呂がオープンしました。これだけを目当てに訪れてもよいと思います。青空を背景に噴煙をあげる桜島と波穏やかな錦江湾という雄大な景色を眺めながら入る温泉は格別です。鹿児島市内から見る桜島は、不思議なことに写真よりも大きく見え、その存在感にはいつも驚かされます。同時に、桜島はいつ破局噴火を起こしてもおかしくない活火山ですから、空恐ろしさも感じさせます。

鹿児島市と桜島との間は、最も近いところで4kmとなります。東京駅から田町駅程度の距離に相当し、山手線なら10分もかかりません。フェリーで渡るならば、8km、15分と聞きます。桜島が、鹿児島市の象徴であり、市民の自慢であり、心の拠り所であることは理解できます。しかしながら、58万人が暮らす大都市の至近に活火山があることは、なかなか理解に苦しむものがあります。破局噴火の恐れもさることながら、年間、数百回と言われる小規模噴火は、風向きによって、夏は鹿児島市、冬は大隅半島側に火山灰を降らせます。一度、出張した際に、ひどい降灰に出くわしたことがあります。強い風が吹いていたこともあり、視界は悪くなり、中心街から人気が消え、外に出ると顔に当たる灰が痛くて即座に屋内に避難しました。

火山灰はガラスに近い成分のようですから、痛くて当然なわけです。平生はもっと粒が小さいようですが、それはそれでやっかいなもののようです。積もった灰は、すぐに処理しなければ、いつまでも残って、風が吹くと舞い上がるとのこと。水で流すと、排水口で固まってしまいます。よって灰はかき集めるしかなく、市が無料で配布する”克灰袋”に入れて、灰ステーションに出すと聞きます。畑にも、家にも、車にも積もるわけで、被害もあれば、大変な労力も費やされます。洗濯物も干せないので、鹿児島市の戸建て住宅にはサンルームが必須とも聞きます。鹿児島市の人々には、大変、失礼ながら、どうしてこんなところに住むのかと思ってしまいます。そして、そもそも、なぜこんなところに城と城下町を築いたのか、大いに疑問です。

ところが、桜島が常に噴煙を上げるようになったのは、1955年からであり、激しさを増したのは1970年以降のことだそうです。大噴火、中規模噴火の際の降灰を別とすれば、活火山とはいえ穏やかなものだったようです。日本有数の活火山にもかかわらず、山ではなく島と呼ばれてきた背景でもあるのでしょう。かつては、実際に島だったのですが、陸続きになったのは大正噴火の際でした。桜島は、屈斜路カルデラ、阿蘇カルデラと並び日本三大カルデラの一つとされる姶良カルデラの南端にあります。桜島は、姶良カルデラの大噴火から3千年後の2万7千年前に誕生した比較的新しい火山です。有史以来、噴火を繰り返してきた桜島ですが、最大級の噴火は、文明(1471年)、安永(1779年)、大正(1914年)と、3回起きています。

大正噴火と言えば思い出すのは、噴火後、東桜島町に建てられた「桜島爆発記念碑」、通称「科学不信の碑」です。大正噴火の際には、様々な予兆現象も確認されています。地震も活発に発生したようですが、鹿児島測候所は、震源は桜島にあらず、噴火の恐れなしとします。しかし、多くの村落では、自主的な避難を開始していました。これが大規模噴火の割に死者が58人と少なかった理由と言われます。死者が集中したのは東桜島村でした。測候所を信頼した村長たちが避難しようとする村民を引き留めたために多くの死者を出すことになりました。碑文には、今後も噴火はある得る、異変を察知したら、理論に頼ることなく、避難準備すべき、と記されています。観測理論も技術も不十分だった時代のこととは言え、傾聴すべき警告だと思います。今年は、大正噴火から110年目ですが、桜島の北側に大きなマグマ溜まりが形成されているという報道もありました。(写真出典:gltjp.com)

マクア渓谷