2024年10月3日木曜日

祇王

祇王寺
平家物語は、軍記物ですが、本質的には無常観を伝える物語だと思います。また、軍記物ながら、多くの女性が登場することでも知られます。平家物語は、琵琶法師によって語られた物語です。聴衆が女性をも含む庶民だったため、登場人物に女性も配し、親近感を与えるねらいがあったのかもしれません。ただ、それ以上に、悲運の女性たちを通じて世の儚さを伝えようとしているように思います。白拍子・祇王の物語は、巻第一の早い段階で語られますが、ある意味、物語のテーマを提示しているようにも思えます。祇王の物語は、現存する平家物語の諸本の全てに掲載されている話ではなく、後代の加筆ではないかという説もあるようです。

祇王は、妹と母とともに近江から京に出て、白拍子になります。平清盛の目にとまり、その寵愛を受けます。清盛の屋敷での日々が3年を迎えた頃、加賀から来た仏御前という若い白拍子が京で人気を集めます。仏御前は、都の人気に飽き足らず、時の権力者・清盛の寵愛を願って屋敷に押しかけます。清盛は、仏御前を追い返そうとしますが、祇王が説得し、その舞を観ることになります。皮肉にも、清盛の寵愛は、祇王から仏御前に移ります。世をはかなんだ祇王は、母、妹とともに出家して、嵯峨野に庵を組みます。これを知った仏御前も、我が身の行く末を悟り、祇王の庵に身を寄せ、出家します。時に、祇王21歳、仏御前17歳。寿命の短い時代とは言え、痛ましい程の若さです。まさに沙羅双樹の花の色というわけです。

祇王の実在性に関しては議論のあるところです。京都の嵯峨野には、かつて祇王が組んだ庵跡に建立されたという祇王寺があります。祇王寺は、苔寺としてよく知られています。苔むす境内には祇王・母・妹のものとされる墓も残っています。また、出身地とされる滋賀県の野津にも祇王寺があり、清盛が祇王に請われて掘削したという用水路・祇王井川も残ります。しかし、いずれも文献上の初出は江戸初期です。野津の鏡宿は、中山道の宿場として栄え、多くの遊女もいたようです。遊女と白拍子を重ねて、この地の祇王伝説が生まれたとする説もあります。また、信楽の玉桂寺にあった重要文化財の阿弥陀如来像の胎内から、寄進者の名前を記した紙が見つかり、そのなかに祇王の名もあったようです。ただ、多少、時代にズレがあるので、別人の可能性もあります。

白拍子は、男装して歌舞を披露する女性芸人です。水干、立烏帽子を身につけ、白鞘巻の太刀を差して踊ったようです。巫女の舞から起こった芸能と言われますが、平家物語では、平安末期、島の千歳、和歌の前という2人の女性芸人が始めたと記されます。また、静御前の母ともされる磯禅師が、信西の指示で始めた芸だという説もあります。平安末期から鎌倉時代にかけて流行し、猿楽にも影響を与えたとされますから能楽の先祖とも言えます。平家物語には、静御前、千手前等々、少なからず白拍子が登場します。男装の舞姫の歌舞が、武家政権の黎明期に流行し、武家に愛されたということは、なかなか興味深いと思います。時代の先端を行く武家に媚びた芸とも言えそうです。

功成り名を遂げた著名人が、芸能人と付き合い、結婚することは、今も昔も変わりません。ただ、人気芸能人とは言え、男性中心社会、かつ戦乱の時代にあって、女性は受身の人生を歩むことになります。時代に翻弄されるのは、人の世の常ですが、最も弱いところに力がかかるのも自然の法則です。平家物語には、人物描写された女性が20人以上登場します。二代后、建礼門院といった天皇の后、小督、葵女御、祇園女御といった天皇の寵妃、小宰相、横笛、内裏女房といった侍女たち、あるいは寵妃ながら武芸にも優れた巴御前も登場します。いずれも支配階層に属する女性たちです。上流社会に出入りはするものの、白拍子だけは性格が異なります。自らの意志で行動する白拍子は、武家と同様、時代が生んだ新人類だったのかもしれません。(写真出典:giouji.or.jp)

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