2026年1月31日土曜日

「京都人の秘やかな愉しみ」

「日本には2つの人種がいます。日本人と京都人です。」というフレーズで始まるTVシリーズ「京都人の秘やかな愉しみ」にハマりました。2015年からNHK・BSプレミアムで断続的に放送されています。シーズン2まで見ました。ドラマのような、ドキュメンタリーのような不思議な番組です。映像や音楽も含めて、とても丁寧、かつ上質に仕上げられています。私は京都好きではありますが、私が知っていたのは上っ面に留まり、京都人やその生活に関しては無知だったことを知らされました。1本2時間のなかに、ドラマ、寺院や街の紹介、京料理の作り方が織り込まれ、それらを通じて京都人の暮らしや心情が描かれています。決して深掘りしないスケッチ程度の描写が印象的であり、ほどほどの距離感も心地良い番組です。

京都の1年は、二十四節気、さらにそれを5日間に区分した七十二候に基づいて進みます。京都では、日によって食べるものが決まっているとも言われますが、食べるものだけでなく、行うべきことも、それぞれの日によって定められています。例えば、全国的に、節分は、豆まきか恵方巻の日といった認識が一般的だと思います。ところが、京都では旧暦の大晦日として、様々な迎春の行事が行われます。有職故事の塊のような街ですが、千年の都ゆえ、いにしえの日々が保たれてきたとも言えます。また、京都は、そうした生活を支える職人たちの街でもあります。和食文化の中心のような京都ですが、意外にもパン好きな街としても知られます。不思議なことだと思っていましたが、忙しい職人の手軽な朝食や昼食としてパン食が普及してきたのだそうです。

番組は、京都の街と人との関わりがにじみ出るよう構成されています。ドラマは、分かりやすいテーマがさりげなく描かれています。さらりと余韻を残すような演出が腕の良さを感じさせます。その演出スタイルは、他人との距離を上手に保つ京都人らしさに通じるものがあります。時にコミカルであることも、京都らしさの一つです。また、モダンで上質な生活や店も登場しますし、京都の国際性も織り込まれていますが、それらは千年の都が存続してきた理由の一つでもあります。寺院や街の紹介も、ありきたりな観光目線ではなく、京都人の生活という視点から紹介されています。料理のパートも、”手も口もよう動く京女”大原千鶴を通じて京都人が描かれています。時に京都人のインタビューも挿入されていますが、わざとらしさや唐突感のない仕上がりになっています。

人物や店のモデルが明確である点も面白いと思います。NHKという制約はあるものの、本物にこだわったということなのでしょう。シーズン2「Blue 修行中」の料亭萩坂のモデルは「高台寺和久傳」なのでしょう。シーズン1では、大原千鶴の幼少期からの友人として女将本人が登場しています。お茶屋が多い京都で料亭・和久傳は料理自慢の店として知られます。かつて若女将と呼ばれていた女将は、上品な美人ですが、気さくで機転も利くことから大人気でした。初めて和久傳に行った際、若女将が見送りに来なかったので、如何なものかと思いました。その後、皆で祇園町のバーへ繰り出しました。30分ほどすると、若女将が非礼を詫びながらバーに入ってきました。30分ばかり、お酌をして、愛想を振りまいて帰って行きました。その対応の見事さ、そして我々のいるバーが即座に分かるという京都のネットワークの凄さに感心したものです。

作・演出の源孝志は、CMやTVバラエティー制作の後、ドキュメンタリーやドラマを手がけ、芸術祭大賞はじめ数々の賞を獲得している才人です。実に斬新なアプローチで京都と京都人を描いた本作も、ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)賞グランプリを獲得しています。京都出身だろうと思いましたが、実は岡山の人でした。ただ、大学が立命館なので、京都には慣れ親しんでいたわけです。また、音楽を担当しているのは阿部海太郎です。舞台の音楽を多く手がけている人のようですが、そのセンスの良さには感心させられます。シーズン1のエンディング・テーマには、ベンチャーズ作曲、渚ゆう子歌でヒットした「京都慕情」が使われています。武田カオリが歌うスロー・テンポなヴァージョンが、あの「京都慕情」だと気付くまでには多少時間がかかりました。半世紀以上も前のヒット曲が、これほどの名曲だったとは驚きです。(写真出典:nhk-ondemand.jp)

2026年1月29日木曜日

高麗郡

高麗神社
飯能に親しい先輩がおり、昔から宴会やゴルフで随分とお邪魔しました。西武池袋から特急電車に乗れば40分で飯能です。初代のレッドアロー号、ニュー・レッドアロー、現在のラ・ヴューと3世代の特急電車に乗ってきました。西武池袋線は、平地から秩父山地を目指して武蔵野台地を緩やかに登っていく路線です。武蔵野台地は、概ね関東山地が生み出した扇状地です。飯能は、秩父山地を水源とする入間川が作った扇状地の扇頂部にあたります。標高は100mですが、都心との気温差はマイナス5℃と聞きます。かつて、この一帯は高麗(こま)郡と呼ばれていました。高麗郡は、8世紀に成立して、1896年に入間郡に統合されるまで存続していました。

高麗郡は、716年、関東一円に居住する高句麗からの移民1,799人を集めて設置されました。郡司には、高句麗最後の王となった宝蔵王の子である高麗若光が就いています。高句麗は、紀元前1世紀、弱体化した漢の玄菟郡に、ツングース系の扶余の王族・朱蒙が興したとされます。建国はもっと古いという説もあります。新羅・百済との三国時代には、満州南部から朝鮮半島の大半を領土としています。東アジア激動の時代、隋・唐の圧迫をしのぎ、700年間、大国を維持した高句麗は、まさに強国でした。ただ、強大化した唐は、新羅と連携し、688年、ついに高句麗を滅ぼします。高句麗は、半島に攻め込んだ倭国とも何度か戦い退けていますが、新羅攻略に関しては連携も模索しています。高麗若光の日本渡来は、亡命とも、支援要請ともいわれています。

日本書紀には、666年、高句麗から使節団が来訪したという記述があり、そのなかに玄武若光の名があります。続日本書紀には、703年、従五位下高麗若光に王(こにきし、またはこきし)のカバネを与えたという記録があります。そして、716年の高麗郡の設置となるわけです。飯能の北隣の日高市には高麗神社があり、高麗若光が祀られています。また、神奈川県大磯にある高来神社は、明治中期に改称されるまでは高麗神社であり、高麗若光に由来するとされます。大磯には高麗山があり、近郊の高座郡の旧名・高倉郡も高句麗が由来と聞きます。いずれにしても、高麗若光がこの地にいたということなのでしょう。中国系帰化人の秦氏が開いた秦野市などは別として、高麗若光はじめ、関東には、半島からの渡来人の足跡が多く残っているわけです。

稲作はじめ、渡来人が日本の文明化に果たした役割はとてつもなく大きいと言えます。ヤマト王権時代になると、文化、技術、宗教等の伝道師として敬意をもって迎えられ、多くは官職を得て、氏姓を賜り、畿内に居住します。ただ、663年、倭国が、白村江で唐・新羅に大敗を喫すると状況は大きく変わります。東アジアの混乱を受けて亡命者が急増するわけです。百済、高句麗、新羅の人々は関東へと送られます。畿内に渡来人が増えすぎたとも、武蔵野開拓のためだったとも言われます。ただ、恐らくはより政治的な理由だったのではないかと思います。つまり、唐から半島の亡命者の扱いを問いただされた際、辺境の地に追いやったと説明するためだったのではないでしょうか。確かに当時の武蔵野は辺境だったわけですが、亡命者たちはそれなりに保護もされています。

758年には、新羅からの亡命者を集めて新羅郡が置かれます。その後、改称され、新座(にいくら)郡となり、現在の新座市や志木市につながります。余談ですが、、大泉学園にある「和菓子 大吾」の「爾比久良(にいくら)」は、昭和天皇が訪米した際、手土産として持参した逸品として知られます。卵黄と白餡で作る黄味羽二重時雨餡はホロホロとした食感であり、中には餡子と栗が一個丸々入っています。爾比久良という名称は「当地の古の呼称にちなむ」と店は説明しています。確かに、爾比久良は新倉郡の雅称ですが、それが平安時代に新羅郡が改称されたものだとは、誰もが知らないのではないかと思います。いずれにしても、武蔵野は、朝鮮半島と縁深い土地だということです。(写真出典:komajinja.or.jp)

2026年1月27日火曜日

焼味飯

飲茶は、ワゴン・サービス・スタイルがベストだと思います。保温機能付のワゴンに点心を乗せて店内を回り、客に皿を選ばせます。味には関係のない仕組みですが、楽しくてワクワクします。結果、テーブルでオーダーするよりも沢山食べてしまいます。一時期、東京や横浜にもワゴン・サービス店は存在したのですが、ほぼ見かけなくなりました。店にとっては効率が悪い面もあり、相当に大きな店でなければ成立しないスタイルなのでしょう。飲茶という習慣は、唐代から続いているようですが、ワゴン・サービスが、いつ、どこで生まれたのか分かりません。ただ、香港名物として知られているので、香港発祥ではないかと思います。

10年ほど前、飯田橋に「贊記茶餐廳」がオープンしました。茶餐廳は、読んで字のごとく、お茶と軽食の店であり、香港ではごく一般的に存在するスタイルのようです。贊記茶餐廳は、明らかに香港の人たちのためにオープンした店だと思われ、メニューも香港スタイルがそのまま持ち込まれています。 飲茶、麺類、ご飯もの、菓子もあり、香港でのランチの雰囲気が味わえます。特に菠蘿包(ポーローパオ)という菓子パンが人気で、それにバターをはさんだものが定番になっています。この店のメニューにもありますが、香港のランチの定番に焼味飯(シャオウェイファン)があります。叉焼やロースト・ダックなどをご飯と一緒に食べるというシンプルな代物です。もともとは広東発祥らしいのですが、最も香港らしいランチのように思えます。

例えば、横浜中華街を歩けば、店先のガラス越しに叉焼はじめ様々な肉が吊るされているのが見えます。実に中華街らしい光景だと思います。それを骨ごとぶつ切りにしてご飯に乗せたものが焼味飯です。厳密に言えば、ロースト・ダックのように単純なあぶり焼きを焼味と呼び、タレや蜜を塗りながら焼いた叉焼などは焼臘(シャオラー)と呼ばれます。ただ、通常、あまり厳密な区分はされず、香港では概ね全てが焼臘とされているようです。日本で、チャーシューと言えば、ラーメンの具材として一般的です。ラーメン屋の叉焼は、豚肉を煮込んだ、いわゆる煮豚がほとんどです。なかには醤油などに漬け込んだ豚肉をオーブンで焼いた焼豚を使う店もあります。とにかく、日本では煮豚も焼豚もチャーシューと呼ぶわけですが、中華料理の叉焼とは大いに異なります。

焼臘としての叉焼は、甘辛いタレに漬け込んだ豚肉を窯に吊して蒸し焼きにしたものです。甘く深い味わいと表面近くの赤みが特徴です。近年、中国の都市部でも日式拉麺店が増えているようですが、煮豚は日式叉焼と呼ばれているようです。煮豚は、日本で生まれた別ものということなのでしょうが、間違いなく中国料理が起源だと思います。中華料理には、豚肉を煮る東坡肉(トンポーロウ)や醤肉(ジャンロウ)があり、それが日本で、角煮やラーメン屋のチャーシューになったものと思われます。ラーメン屋の煮豚の歴史は判然としませんが、専用の窯がいらない、日持ちが良い、バラ肉は安い、煮汁も活用できるといったメリットがあり、ラーメン屋で広まったようです。ラーメンの世界では、スープや麺と並ぶ主役格と言っていいのでしょう。

最近、浅草橋にある香港料理店の焼味飯にハマっています。この店も、香港人相手の店のようで、日本人客はごくわずかです。提供されている焼味は、広東式叉焼、焼肉(豚肉)、焼鴨、醤油地鶏、蒸し鶏です。ランチには、2種類の肉を選んで乗せるセットがあります。一番人気は、皮付きの状態でじっくりローストした焼肉(豚肉)のようです。しっとりとして実に美味しいのですが、問題は皮です。例えば、北京ダックのようなパリパリとした食感ではなく、バリンバリンの固さです。とても歯がたちません。それが本場香港の焼味ということなのでしょうが、私は皮だけ残してしまいます。ちなみに、その店の名物の一つは、河粉(ホーファン)です。香港名物の幅広な米粉麺です。ヴェトナムのフォーの語源とされています。(写真出典:hongkongnavi.com)

2026年1月25日日曜日

ファスナー

かつての日本では、ファスナーは”チャック”と呼ばれていました。チャックという言葉が、いつ、そしてなぜ消えたのかは判然としません。ファスナー自体は変わることなく存在しているのに、最も一般的だった呼称が消える現象は珍しいことだと思います。チャックは、初の国産ファスナーのブランド名でした。1927年頃、尾道の”チャック・ファスナー社”が、国産ファスナーの製造を始め、巾着をもじった”チャック印”というブランド名で販売しました。これが一般名詞化したわけです。ファスナーの呼称に限らず、私語禁止を意味する”口にチャック”などという言い回しも、ごく普通に使われていたものです。

チャック一辺倒の世界に、”ジッパー”という言葉がにじんできたのは、1960年代末ではないかと思います。その頃、ジーパンと呼ばれていたジーンズが大いに普及したことが背景にあるのでしょう。ジーンズは、敗戦とともに日本に流れ込みますが、1960年代には、エドウィン、キャントン、ボブソン、ビッグジョンといった日本のメーカーが続々と参入し、市場は拡大していきます。アメリカでジーンズのファスナーは”ジッパー”と呼ばれていました。アメリカ文化に憧れる若い世代を中心に、ジッパーという呼び方は日本でも広がっていきました。ジッパーは、かつてタイヤ・メーカーとして知られたBFグッドリッチ社が、1923年にファスナー付のオーバーシューズを発売した際の商品名に由来します。速く閉める際の擬音だったようです。

一般名詞としてのファスナー”fastener”は、締めるものを意味し、他にも様々な道具類が存在します。新発明だったファスナーは、ブランド名で呼ぶしかなかったのでしょう。ファスナーに関する初めてのアイデアは、ミシンを発明したアメリカのエリアス・ハウによって生み出されたようです。ハウのアイデアは、うまく細工された靴の引き紐だったようで、商品化はされていません。1892年、アメリカのホイットコム・L・ジャドソンが、現在のファスナーの原型となる発明で特許を取り、新たな靴の留め具として商品化しています。翌1883年に開催されたシカゴ国際博覧会にも出品されますが、まったく注目されなかったようです。ジャドソンが創設した会社に、1906年、ギデオン・サンドバックが入社し、ファスナーの改良、普及に貢献することになります。

サンドバックの最も大きな貢献は、1917年に特許を取った分離可能なファスナーの開発だったといえるのでしょう。この発明が、ファスナーを靴やポーチから衣服へと展開させることになります。衣類への適用は子供服から始まったようですが、1937年に、紳士服のズボンの前立てに適しているのはボタンかジッパーかという論争が起こり、ジッパーが勝利します。パリのファッション・デザイナーたちが主導したというこの論争を機に、ジッパーは急拡大していったとされます。サンドバックが在籍した会社は、その後「Talon」と名称変更し、圧倒的な世界シェアを獲得するに至ります。ちなみに、現在の世界シェア・トップは、富山のYKK(旧吉田工業)です。一貫生産と株式非上場という強みが安定的な高品質を実現し、マーケットを広げていったとされます。

日本でファスナーという呼称が定着した経緯は判然としません。ただ、海外ではファスナーが一般的だったので、国際化に伴って定着していったのでしょう。その後、ファスナーには、線ファスナーと面ファスナーという区分が生まれます。1955年、スイスのジョルジュ・デ・メストラルが、マジック・テープを発明したからです。マジック・テープの活用も、子供用の靴から始まったようです。靴の締め具には、その後も様々なアイデアが投入されています。例えば、ゴルフシューズのダイアル式のBOA、ソロモンのクイック・シューレース、カンペールのゴム製エラスティック・シューレース等がすぐに思い浮かびます。それぞれ一長一短があり、靴の締め具としては、やはり靴紐が主流であり続けています。個人による足の形状差が大きく、その調整には靴紐が優れているからなのでしょう。(写真出典:lyncs.ykkfastening.com)

2026年1月23日金曜日

百人町

鉄砲百人隊行列
芸術家が集まり、作品を制作し、生活するアート・コロニーは、世界中に多く見られます。例を挙げればキリがないほどです。日本では、池袋モンパルナス、那覇のニシムイ美術村等が有名です。アート・コロニーは、19世紀のフランスで始まったようです。パリのモンパルナスやモンマルトルが有名ですが、恐らくパリ近郊のバルビゾンあたりがその嚆矢なのではないかと思います。 フォンテヌブローの森に隣接し、生活費も安いことから、ミレーはじめ風景画家たちが多く集まり、いわゆるバルビゾン派が形成されました。アート・コロニーのメリットは、互いに刺激を受ける、生活面も含めて助け合う、といったこともあるのでしょうが、何よりも世間の目を気にせず制作に没頭できる環境が魅力だったのだろうと想像します。

アート・コロニーと言えば、画家や彫刻家が集まっているイメージです。音楽家が集まるLAのローレル・キャニオンなどは希な存在だと思います。同様に、小説家や詩人のコロニーは聞いたことがありません。恐らく、唯一の例外は、戦前の百人町だったのではないかと思います。岡本綺堂、国木田独歩、林芙美子、西條八十等々、また北一輝や大内兵衛なども住んでいたようです。ただ、コロニーが形成されていたのではなく、単に文筆家が多かったというだけのことかもしれません。それでも、かなり希有な存在だったのだろうと思います。百人町は、新宿の北にあり、山手線の新大久保駅、中央線の大久保駅にはさまれた一帯です。昭和初期あたりまでは、武蔵野の入り口としてのどかな田園風景が広がっており、まさに郊外だったようです。

文人の集まる町だったことが影響したのでしょうが、戦前、百人町には、日本人やドイツ人の音楽家も集まり始めます。すると、楽器店や楽器の製造・修理の工房も増えて、百人町は音楽の町、楽器の町としての顔も持つことになります。戦後になると、復員してきた楽器職人たちが集って修理工房が再開され、楽器の町も復興したようです。1950年代半ばになると、歌声喫茶やジャズ喫茶が多く集る町にもなっていたようです。音楽の町という背景に加え、新宿と高田馬場の中間という立地も良かったのでしょう。歌声喫茶は新宿が発祥とされます。ピアノやアコーディオンの伴奏で皆が合唱するという店です。カラオケの前身のようにも言われますが、60年安保闘争や高度成長のひずみを背景に左翼が仕掛けたプロパガンダだったと理解します。

百人町の町名は、百人組の組屋敷があったことに由来します。百人組は、家康が、江戸城の西を守り、あるいは落城の際、将軍が甲州へ落ちるルートを確保するために置きました。伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4隊、各100名で構成される鉄砲隊でした。今も、皇居の大手門を入ると、中之門前に百人番所が当時のまま残っています。百人組各隊が交替で詰めて、将軍警護に当たった番所です。百人隊の組屋敷は、甲賀組が青山、根来組は市ヶ谷、二十五騎組が内藤新宿、そして伊賀組は大久保に置かれました。太平の世になると、百人組は内職としてツツジを育て始め、江戸で人気を博します。明治維新ととも百人組は解散となり、名物だったツツジも日比谷公園に移されます。その後、百人町は宅地化されていきます。なお、今も新宿区の花はツツジです。

百人町ほど激しい変遷をたどってきた町もないのではないかと思います。鉄砲隊の町、ツツジの町、文人の町、音楽の町、浮浪者と労働者の町、そして現在のコリアン・タウン、オール・エイジアン・タウンと目まぐるしく顔を変えてきました。いずれの顔にも、新宿に隣接しているという立地が影響しているように思えます。いわば奥新宿といったところです。ただ、新宿の単なる延長・拡大ヴァージョンではなく、独自の文化や風情を育んできたところが面白いと思います。新宿は欲望の町とも言えますが、実は経済合理性に貫かれた町でもあります。その周縁部として、新宿が失った自由と多様性を持ち得た町なのかもしれません。百人町は、これからも顔を変え続けていくように思います。(写真出典:cleanup.jp)

2026年1月21日水曜日

ル・レクチェ

新潟のル・レクチェをもらい、美味しくいただきました。天候不順のため、今年のル・レクチェは見た目が悪いと聞きましたが、その分、例年にも増して上品な甘さが際立ち、とても美味しかったように思います。ル・レクチェは、フランス原産の洋梨です。日本では、1903年、新潟の白根で栽培が開始されています。その上品な甘さと柔らかな食感は絶品ですが、病気に弱い、落下しやい、追熟期間が長いなど、生産に手間がかかることから、栽培面積はごく限られ、8割が新潟県産だと聞きます。日本の洋梨の7割近くがラ・フランスであり、ル・レクチェはバートレットに次いで第3位。生産量は7%に満たないようです。新潟県は「ル レクチエ」という名称で統一しているようですが、個人的にはル・レクチェの方がしっくりきます。 

ナシの原産地は中国の天山山脈の麓あたりとされています。そこから世界に広がり、日本ナシ、洋ナシ、中国ナシに別れていったようです。発掘調査によって、ナシは先史時代から食べられていたことが分かっています。英語の”pear”の語源は、セム語系の”果物”だと言いますから、その歴史の古さをうかがい知ることができます。ちなみに、日本語のナシの語源ははっきりしていないようです。いずれにしても中国由来なのでしょう。また、リンゴも古い歴史を持ちますが、ナシよりは新しい果物のようです。しかし、栽培の歴史はリンゴの方が古く、現在でも世界的なリンゴの生産量はナシの3倍以上になるようです。リンゴがナシに優る点としては、栽培適地が広い、栽培が容易、追熟が不要、長期保存できる、といったあたりなのでしょう。

ナシは、日照時間の長い火山灰土や砂地でよく育ちます。世界的には中国の生産量が多いようです。和梨に関しては、千葉県、茨城県、栃木県、福島県が、不動の上位となっています。土壌や天候も適しているのでしょうが、ナシが日持ちしないことから、大消費地東京に近いことも大きな要因だと思います。かつては、鳥取県が第1位だった時代があります。和梨と言えば二十世紀梨が圧倒的シェアを誇る時代が続きました。鳥取は二十世紀梨の名産地です。二十世紀梨は、1888年、松戸市のゴミ捨て場で、13歳の少年が、偶然、発見した品種です。育てることが難しく、少年が見つけた苗木から果実を得られるまで10年もかかったようです。1904年、鳥取県で栽培が始まると、気候と土壌が適していたことから、一躍、鳥取名物にまでなりました。

洋ナシが日本に伝わったのは明治初期のことでした。明治政府の肝いりで輸入され、三田育種場で苗木が栽培され、各地に配布されたようです。三田育種場は、官営種苗会社であり、後に民間に払い下げられています。現在の港区・三田にあり、日本の近代農業始まりの地とも言われます。ただ、洋ナシは栽培が難しく、しかも収穫直後は固くて不味かったため、生食は普及しせず、栽培も広がらなかったようです。一時期、関西で輸出用に栽培されていたことがあったようですが、主な生産地は、東北、長野へ移っていきます。洋ナシに転機が訪れたのは1970年頃とされます。追熟の技術が広まったためでした。追熟とは、収穫後に果物が甘さや柔らかさを増すことです。動物による種子散布の時期を分散させるという果物の戦略です。

追熟は、デンプンが糖化するプロセスですが、エチレンガスが深く関わっているようです。適温・適湿に保たれた倉庫にエチレンガスを入れて追熟されます。店頭に並ぶル・レクチェは追熟後とは言え、流通に関わるリードタイムが織り込まれ、完熟前の状態となっています。つまり、食べ頃の判断は消費者に委ねられるわけです。他にもバナナやメロンといった追熟果実はありますが、ル・レクチェは完熟の判断が難しく、かつ食べ頃はアッという間に過ぎ去ります。また、注意すべきは、冷蔵庫で保管すると追熟がストップすることです。今回は、あえて完熟前に食べてみました。適度な固さを残す食感は、甘さと良くマッチしていました。完熟など待つ必要はないと思いました。甘味が強いという今年の作柄ゆえのことかもしれませんが、他の追熟果物でも試してみようと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年1月19日月曜日

「名もなきジャーナリスト」

邦題:名もなきジャーナリスト:「あの少女」を撮ったのは誰なのか        原題:The Stringer: The Man Who Took the Photo                 監督:バオ・グエン   2025年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

「戦争の恐怖」
1965年にヴェトナムで撮影された沢田教一の「安全への逃避」はピューリッツァー賞を受賞しました。UPI所属の戦場カメラマンだった沢田教一は高校の先輩です。私が高校に入学した1970年に、カンボジアで取材中に射殺されています。高校の食堂には、大きく引き延ばされた「安全への逃避」が掲げられていました。ヴェトナム戦争時には、何点かの報道写真がピューリッツァー賞を受賞しています。AP所属のヴェトナム人カメラマンであるニック・ウトが1972年に撮った「戦争の恐怖 (通称:ナパーム弾の少女)」も、ピューリッツァー賞を獲得した有名な写真です。「戦争の恐怖」は、アメリカ世論に大きな影響を与えた写真としても知られています。当時17歳だったニック・ウトは、この写真で多くの賞と名誉を獲得し、APに50年以上所属した後、引退しています。

しかし、50年後になって、当時APサイゴン支局で写真編集を行っていたカール・ロビンソンが、「戦争の恐怖」はウトの写真ではないと告発します。その日、支局には、ウト以外に、フリーのカメラマン2人が写真を持ち込みます。うち一人の写真には、全裸の少女が写っていたため、ロビンソンはボツにします。ところが、支局で絶大な力を持っていたピューリッツァー賞受賞写真家ホルスト・ファースが、その写真を本局に送信しろ、撮影者はウトにしろ、と命じます。名も無きヴェトナム人カメラマンは、20ドルだけを受け取って帰ります。ロビンソンは、50年間、撮影者を偽ったことを苦しみ続けます。老齢になったロビンソンは、真実を語り始め、それは報道写真家たちの間で徐々に知られるようになっていきます。

10年前に、この話を聞きつけた写真家ゲイリー・ナイトが興味を持ち、真実を探った記録が本作です。結果、「戦争の恐怖」を撮った写真家グエン・タン・ンゲが見つけ出されます。写真を盗まれたンゲも、50年間、悩み続けてきました。しかし、告発するにも証拠がなく、当時、現場を目撃したヴェトナム人もアメリカ軍の仕事をしていたので、アメリカそのものとも言えるAPを告発することはできませんでした。しかも、米軍の軍属だったンゲも目撃者も、戦後は軍の計らいでアメリカ市民権を得て豊かな生活を送っていました。ロビンソンも証拠がないことは同じでした。撮影者をウトにしろと命じたファースにも事情がありました。ウトの兄で写真家だったミーは、ファースの指示で赴いた戦場で死んでいます。ファースは、ミーの家族を助けるために17歳だったウトをAPに雇い入れ、写真のクレジットも彼にしたわけです。

渦中のニック・ウトはインタビューを拒否しています。しかし、ウトも自らの意志で悪意をもって写真を盗んだわけではありません。17歳のウトは、絶対的権威であったファースから押しつけられた善意を拒否出来なかったものと想像できます。恐らくウトも50年間悩んできたのでしょう。当時のサイゴンの混乱した状況もあります。また、その写真がピューリッツァー賞を受賞し、歴史を変えることになろうとは、誰もが予想していなかったと思います。つまり、悪意が存在しないままに不幸な事情が重なり、希有な盗作事案が成立したわけです。そして、それが関係者たちを半世紀に渡って苦しめてきたわけです。しかし、事は真実に関わることであり、著作権を守ることは写真家たちの生命線でもあります。真実は明らかにされ、誤りは正されるべきです。

ゲイリー・ナイトは、証言に基づくだけでなく、残された写真や映像を科学的に分析し、ウトが撮影者であり得ないことを証明しています。告発を受けてAPは、撮影者はウトではなく、ンゲである可能性が高いと結論づけます。ただ、決定的証拠に欠けることから著作権はそのままにしています。世界報道写真財団は、「戦争の恐怖」の著作権を一時停止にしました。この事件の背景に横たわっている問題の一つは、アジア人蔑視だと思います。そもそもヴェトナムの近代を巡る構図がアジア蔑視ではありますが、ファースの善意も温情主義的ですし、もし写真を持ち込んだのがヴェトナム人ではなく白人だったとすれば、この事件は起きていなかったと思います。当時、類した状況はいくらでもあったものと想像できます。本作が、名も無きヴェトナム人写真家たちに捧げられていることは意義深いと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年1月17日土曜日

大和心

本居宣長
本居宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という歌には、ありのままの自然に心を動かされるという日本人の感性が表されていると言われます。江戸時代後期の国学者である本居宣長は、古事記や王朝文学の研究で知られ、「もののあわれ」という日本の美意識を象徴する言葉を提唱しました。本居宣長の大和心は、もののあわれにも通じ、そこはかとなく無常観を感じさせます。四季の移ろいが明確で、天変地異の多い日本には、仏教が伝わる前から、無常観に近い意識が存在していたのだろうと思います。しかし、平安期に登場した大和魂(大和心)という言葉は、当初、もののあわれとはかなり異なる意味を持っていたようです。

大和魂の初出は「源氏物語」であり、「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」とあるようです。中国伝来の学問を基礎にしたうえで日本的な精神を活かせる人が素晴らしい、といった意味なのでしょう。ここで言う大和魂とは、社会における知恵、感性、判断などの全てを指しています。要は、実生活への応用ということなのでしょう。大和魂という言葉は、外国を意識するからこそ生まれます。才(漢才)と大和魂という二元論は、遣唐使が廃止され、日本独自の国風文化が花開いた時代の産物だと言えます。源氏物語も、まさに国風文化の粋であり、和魂漢才を地で行く作品なのでしょう。ただ、和魂漢才と言う言葉は、室町時代の偽書「菅家遺誡」が初出とされ、元寇で生まれた神国思想の影響下にあるとも言われます。

文字、文化、政治、宗教とあらゆるものを中国から学んだ日本は、自国文化と中国文化との関係をいかに捉えるかということに思い悩んできたとも言えます。平安初期までは漢才が上位で、平安中期には並立し、元寇以降は和魂がやや上に来たとも言えそうです。江戸幕府は、社会秩序維持のために、朱子学を正学とします。江戸中期には、その反動もあってか、国学が登場します。古典の研究を通じて、儒教や仏教が伝来する以前に存在した日本文化の独自性を明らかにしようとするものでした。文学の研究に関しては大きな成果があったものと思います。ただ、儒教や仏教をはじめとする”からごころ(漢心)”を否定して国体を論じようとすれば、律令国家の否定、あるいは論理的に国家を語ることが困難となり、自ずと神国論にたどりつくのだろうと思います。

その頂点とも言えるのが平田篤胤の復古神道ということになります。平田篤胤という人は、希有な天才だったのだろうと思います。秋田藩の武家に生まれながら、20歳で江戸へ出奔、様々な職業を経験し、西洋の医学・地理学・天文学をも含む様々な学問に精通したと言います。国学に出会い”宣長没後の門人”を自称した平田篤胤は、妻の死をきっかけに幽冥界研究に没頭し、復古神道を樹立するに至ります。天御中主神を創造主とし、日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるとする教義は、水戸学の尊皇思想と並んで、幕末の尊皇攘夷論を支えていくことになります。ここへ来て、大和心は本居宣長の手元を離れて、より国粋主義的な大和魂になります。吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」などは典型だと言えます。

明治以降、和魂洋才の時代を経て、軍国主義の時代を迎えると、大和魂は、国威発揚、士気高揚のために都合良く利用され、無謀な戦争を遂行するための装置の一つになっていきました。太平洋戦争中には、軍備の劣勢や物量の不足を神国日本の大和魂で補え、という精神論が幅を利かせることになります。敗戦後、大和魂は、軍国主義の象徴として否定されることになります。しかし、平安の頃から悩み続けた日本のアイデンティティという課題は、対比すべき対象が漢心から洋心に替っただけで、依然として残ったわけです。戦後も、折に触れて、日本論や日本人論が盛り上がりますが、確論や共通認識を得るに至ったものは一切ないと言えます。極論になりますが、もし論理を超えた無常観が日本人の意識の根底にあるのだとすれば、それを西洋的な論理で説明することは、土台無理な話なのだと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年1月15日木曜日

パン・ド・ミー

10年以上前のことですが、初めて日本を訪れたアメリカ人の友人が、コンビ二で売っている三角形のサンドイッチが美味しいと大騒ぎしていました。食パンの違いだよ、と教えてあげましたが、ピンと来ていないようでした。アメリカの食パンは、とにかく不味いので有名です。スーパー・マーケット等で売っている食パンは、とても安いのですが、すべて薄切りで、かつパサついた代物です。アメリカの食パンは、サンドイッチの具材の味を引き立たせること、長期保存できること、そして工場で大量生産しやすいを優先したレシピで焼かれます。日本の食パンとは、そもそも発想が異なります。当然のことながら、酵母や添加物もまったく違っています。 

私の朝食は、7割が和食、3割がパン食です。食べるパンは、イングリッシュ・マフィン、パン・ド・ミー、クロワッサン、夏場に限ってサルサ・ドッグ用のロール・パンといったところです。食パンは食べませんが代わりにパン・ド・ミーというわけです。日本の食パンは、ミルク、バターといった乳脂肪、あるいはショートニングなどの油脂を添加し、ふんわりと焼き上げます。また湯種製法などによって、もっちりとした食感に仕上げるものもあります。いずれにしても、日本の食パンは、パンそのものを味わえるよう工夫されています。一時期ブーム化した高級食パンは、その頂点だと言えます。銀座のセントラル・ベーカリーの食パンの美味しさには驚きましたが、その後、大阪の会社等が、マスコミを使ってブーム化させたことが仇となって下火になりました。

日本の食パンの進化の背景には、白米を主食とし、その味にこだわってきた食文化があるように思います。ただ、添加物の多さは、小麦本来の味が失われる傾向にもつながります。対して、パン・ド・ミーは、油脂や砂糖をあまり使わないために小麦の香りが引き立ち、食感はサクサクッとしています。ミーとは中身を意味します。日本人が米そのものを味わうのと同じく、フランス人もパンそのものを楽しむ人たちです。パリパリのクラスト(皮)を楽しむバゲットに対して、クラム(中身)を楽しむために考案されたのがパン・ド・ミーです。17世紀、フランスの貴族が好んだクラストの少ないパンが起源とされます。その後、19世紀初頭の英国でブリキ型に入れて焼く方式が考案され、アメリカの食パンやフランスのパン・ド・ミーにつながったようです。

しかし、フランス人が好むパンは、なんといってもバゲットです。フランス人一人当たり、一日に0.5本のバゲットを消費し、9割のフランス人が毎日バゲットを買っているのだそうです。日本人にとっての米以上の存在です。そんな国でパン・ド・ミーが焼かれるようになった理由は、第二次大戦後、進駐したアメリカ兵のニーズを満たすためだったと聞きます。ちなみに、日本における食パンの普及も進駐軍に始まっています。あの不味いアメリカの食パンを欲しがった米兵たちが、あの美味しいパン・ド・ミーを生んだという、なんとも皮肉な話です。不思議なのは、パン・ド・ミーの味を覚えたアメリカ兵が帰還しても、アメリカでパン・ド・ミーが普及しなかったことです。やはり、何でもパンに挟んで食べるアメリカの食文化にあっては、あの味気ないパサついたパンがしっくりくるということなのでしょう。

アメリカで食パンの普及に貢献したのは、1920年代後半に発明された自動スライサーとポップアップ式のトースターだったと聞きます。今でも、ポップアップ・トースターは、アメリカ文化のアイコンの一つです。自動スライサーの導入によって、食パンの厚さが規格化されたことで、ポップアップ・トースターも普及したわけです。ところで、私が最も好むパン・ド・ミーは、フォションのものです。次いでプチメックといったところです。いずれでもスライスされたものを買います。自分では、どうも上手く切れません。フォションでは4枚切り、プチメックでは6枚切りを買います。それぞれのサクサク感を楽しむのに最も適した厚さだと思っています。ちなみに、フォションのパン・ド・ミーは日本限定商品とのこと。納得できる話です。(写真出典:tabelog.com)

2026年1月13日火曜日

郷士

郷士とは、概ね、半農半兵、つまり平生は農業に勤しみ、戦時には兵士として戦う下級武士を指します。藩によって、制度も、呼称も異なりますが、武士と農民の中間的位置づけと言っていいのでしょう。戦国時代、戦が頻発するようになると、大名たちは、防御を固め、出陣の即応性を高めるために、家臣を城下に常駐させます。江戸期になると、城下の家臣団は、官僚となって藩政を支えます。しかし、太平の世、かつ限りある藩の財政では、戦国時代のような大規模な家臣団は維持できなくなります。そこで、下級武士たちは、城下から離れた農村に送られ、半農半兵の生活を送りながら、農村の行政にも携わることになります。 

藩政を底辺で支えていたとも言える郷士たちですが、幕末になると一部が歴史の檜舞台に登場することになります。土佐藩からは坂本龍馬、武市半平太など、薩摩藩からは川路利良、寺島宗則など、水戸藩からは芹沢鴨、香川敬三など、他にも上野国新田郷の高山彦九郎、庄内藩の清川八郎などもよく知られています。郷士に限らず、下級武士たちの活躍は、幕末から明治初期の大きな特徴です。それは、黒船来航、揺らぐ幕藩体制という激動期にあって、速やかに優秀な人材を登用する必要があったからだと言われます。また、郷士たちにとって、幕末の混乱は、武勲を上げて出世できる戦場と同じ好機だったわけです。一方で、それは、260年間に渡った泰平の世が、上級武士たちの牙を抜き、保守的な官僚へと変貌させてしまったことを反映しているとも言えます。

郷士出身の著名人を多く生んだ土佐藩の身分制度は、実に興味深いものです。戦国時代までの領主は長宗我部氏でしたが、関ケ原の戦いで西軍だったことから改易され、替って山内氏が入ります。長宗我部氏の軍には、一領具足と呼ばれる半農半兵の兵士が多く含まれていました。彼らは、反乱を起こすなど山内氏に反抗的だったようです。山内氏は、新田開発に功績のあった者の階級を上げる仕組みを取り入れることで、郷士を取り込み、かつ藩の財政を改善していきます。なかには白札郷士として上士待遇を受ける者もいました。江戸中期、商品経済化が進むと、身分の売買も行われ、豪農・豪商が郷士になったり、あるいは城で勤める郷士も誕生したようです。こうした人材の流動性が、幕末、土佐藩が多くの人材を輩出した理由でもあるのでしょう。

一方、薩摩藩の場合は、多少、状況が異なります。薩摩藩は、人口の1/4が兵士という軍事大国でした。薩摩藩は、江戸幕府による一国一城令を受け、鶴丸城の他に城郭を持たない軍事拠点”外城”を設けて防御を固めます。その数は113に上りました。駐屯兵の中心となったのが半農半兵の郷士です。土佐郷士との大きな違いは、藩が新たに送り込んだ家臣団だったということなのでしょう。その組織力は桁違いだったはずです。ただ、時代とともに身分の売買も行われるようになります。結果、土佐藩と同様に人材の流動性が生まれ、幕末の志士輩出につながったわけです。西郷隆盛も下級武士出身ですが、郷士ではありません。ただ、郷士を束ねる役職を経験したことで、郷士への理解が深く、西南戦争の際にも多くの郷士が参戦したと言われています。

各地の郷士のなかでも、とりわけユニークな存在が十津川郷士だと思います。十津川は、奥吉野山中深くにあり、古代から独立性の高い山の民の集落でした。神武天皇東征の際、吉野山中を先導した 3本足の”八咫烏”が祖先とも言われます。耕作地が少ないこともあり、租税は古代から江戸期に至るまで減免されていました。その代わり、代々天皇によく仕え、古くは壬申の乱、平治の乱等にも出兵しています。幕末には宮廷警護にあたり、戊辰戦争にも参戦します。十津川郷士は、武芸と胆力に優れ、常に一目置かれる存在だったようです。そのあたりは、英軍に参加していたネパールのグルカ兵を思わせるものがあります。また、十津川村には、源義経が逃げ込み、南朝政権が拠点にしていた歴史もあります。畿内にこれほど変わった村落が存在してきたことは奇跡的だとも言えます。(写真:十津川郷士  出典:totsukawa.info)

2026年1月11日日曜日

「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」

監督:ジェームス・キャメロン    2025年アメリカ

☆☆☆

本作は、アバター・シリーズの3作目となります。1作目「アバター」は2009年に公開され、世界的大ヒットを記録し、いまだに歴代興業成績の実額第1位の座を保っています。もっともインフレ調整後の歴代興業成績では「風と共に去りぬ」に次いで第2位となっています。また、2作目の「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」も実額で第3位に付けています。アバターが大成功を収めた最大の理由は、未体験の斬新な映像にあったと思います。アバターによってVFXは新次元に突入したと言えます。とりわけ、俳優の細かな表情や動作をモーション・キャプチャーでデータ化し、CGと組み合わせて作られたキャラクターは、実にリアルで活き活きとしており、造形上の違和感を超えて、あるいは、そのギャップもあってか、人々を魅了しました。

興業成績でアバターに並ぶスター・ウォーズも、当時としては斬新な映像で人々を驚かせました。とは言え、1970年代は、特殊メイクやウェザリング(汚れ加工)といった手作りのSFX(特殊効果)の時代でした。対してアバターは、コンピューター処理を前提とするVFX(視覚効果)の技術が結集されています。ただ、ジェームス・キャメロンがアバターの着想を得た1990年代には、VFXやCGの技術が十分ではなく、撮影開始まで10年以上待たされたと聞きます。1作目から2作目(本作もほぼ同時に撮影されています)までも随分と時間がかかっていますが、やはり技術的な問題をクリアする必要があったようです。特に水中でのモーション・キャプチャー撮影が課題だったようです。VFXは、莫大な製作費も大きな壁になっていたようです。

アバターの魅力は、ゲーム世代を魅了する映像技術に他ならないと言えます。ただ、別な言い方をすれば、観客はアバターの世界観や思想性に惹かれているわけではないとも言えそうです。スター・ウォーズの世界は、比較神話学に基づくサーガが基本構造となっています。アバターには、物語のテーマが持つ普遍性や深みがありません。監督としては、家族愛や今日的な環境問題をテーマとしているのでしょうが、十分に深掘りされているわけではなく、結果、映画は映像技術に依存したエンターテイメントの域に留まっています。本作の162分という長さも必要性に乏しく、正直なところ、途中で飽きてしまいました。ディテールに関する作り手の技術的な思い入れの強さが、映画の長さにつながっているように思えてなりませんでした。

本作で最も新鮮に感じたのは、マンクワン族とそのリーダーであるヴァランの登場です。マンクワン族は、同じナヴィ族ながら、生命をネットワークする女王エイワを拒絶する集団です。ヴァランは、マンクワン族を統率するツァヒク(巫女)です。同じナヴィ族ながら、善の象徴である主人公たちとメトカイナ族に対して悪の象徴であるヴァランとマンクワン族という対立構図が投入されたわけです。ここに地球人のRDAが加わり、物語は深みを増していくのかと思いました。結果的には、単純で、ひどくありきたりな勧善懲悪構図に留まっています。どうも、ジェームス・キャメロンの思惑は、アバターの世界観を掘り下げることではなく、あくまでも最新の技術力を用いた映像で人々を驚かすことにあるようです。

高度な技術で作られるアバターですが、ヴァランの登場も含めて、マーベル化が進んでいるようにも思います。また、アバター製作に関わる技術、時間、コストを、AIが易々と超えていくのは時間の問題のようにも思います。アバターは、既に4作目の製作に入っており、5作目も視野に入っているようです。続編の公開は、本作の興行成績如何であると、ジェームス・キャメロンは語っているようです。アバター・シリーズは、希代のヒット・メイカーであるジェームス・キャメロンのこだわりと情熱から生まれています。この先も、映画産業が、そのこだわりを許容するかどうかは微妙なところです。いまや、ジェームス・キャメロンの難敵は、VFX技術や出資者ではなく、AIなのではないかと思います。(写真出典:eiga.com)

2026年1月9日金曜日

雲龍

叡嶽双龍
上野の東叡山寛永寺は、2025年、創建400周年を迎えました。記念事業として、根本中堂に手塚雄二画伯による天井画「叡嶽双龍」が奉納され、一般公開されました。寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺、江戸城の鬼門封じとして、徳川家光開基、南光坊天海開山によって1625年に創建されています。東叡山とは東の比叡山を意味する天台宗関東総本山です。徳川家の元々の菩提寺は芝の増上寺でしたが、家光以降、両寺が菩提寺となりました。3代目以降の貫首は、法親王、つまり皇族出身者が務め、比叡山座主、日光山主も兼ねました。貫首は、輪王寺宮、三山管領宮とも呼ばれ、徳川御三家と並ぶ格式を持ちました。

江戸期の境内は、現在の上野公園のほぼ全てという広大なものでした。しかし、戊辰戦争で焼失し、明治政府によって廃寺に近い状態にまで縮小されています。現在の根本中堂は、1879年、かつて天海が住職を務めた川越喜多院から本地堂を移築したものです。叡嶽双龍は、築300年以上という天井板に直接描かれています。一旦、天井板を外し、アトリエで作画するという手間のかかる方法がとられたようです。双龍とは、阿龍と吽龍を指します。口を開けた阿龍の手には、ご本尊を表す梵字が、鮮やかなラピスラズリで描かれています。口を閉じた吽龍の手には衆生の願いを叶える如意宝珠が握られています。阿龍は、ご本尊に近い正面に描かれていますが、雲龍の伝統に従い、どこから見ても龍と目が合う八方にらみの技法が用いられています。

天井に雲龍図が描かれているのは、主に禅寺の法堂です。法堂は、老師が弟子たちに仏法を説く場所であり、他宗派では講堂と呼ばれます。法堂の雲龍図は、仏法を守護し、仏法の教えの雨を降らせるとともに、寺院を火災から守るという意味も込められていると聞きます。実に恐ろしげな龍の姿は、修行の厳しさを伝えるとともに、手を抜くなよと脅しているようにも思えます。仏教と雲龍の関係は古く、釈迦の誕生に際し、龍がその身に甘露の雨を降らせたという伝承が、法華経など多くの経典に記載されているようです。雲龍図そのものは、中国が発祥とされています。古来、中国では、龍は皇帝の象徴とされてきました。よって、皇帝の許可なく雲龍図が描かれることはないと思います。それが禅寺に許された経緯に関してはよく分かりません。

禅宗は、南インド出身の達磨大師を祖として、唐代中国で発展したとされます。日本には、平安中期に伝わったものの注目されず、鎌倉時代に入って、南宋へ留学した栄西、次いで道元が、それぞれ臨済宗、曹洞宗をもたらし、禅宗を広めています。恐らく、その頃に法堂の雲龍図も伝わったはずです。現存する法堂の雲龍図のなかで最も古いとされるが妙心寺のものです。南北朝時代に開山した妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山であり、雲龍図は狩野探幽の作です。雲龍の迫力は随一と思います。日本最古とされる法堂は臨済宗相国寺派の総本山である相国寺にあります。法堂の天井の蟠龍図は、江戸初期、狩野光信によって描かれています。最大の特徴は”鳴き龍”です。特定の場所で手を叩くと、独特な反響音が響くことから、鳴き龍と呼ばれます。

最も壮麗な雲龍は、加山又造による天龍寺のものではないかと思います。八方にらみが利いています。雲龍図の魅力は、天から降りてくるかのような龍の姿ですが、八方にらみも大きな要素だと思います。錯視の一種なのでしょうが、その技法は説明を受けてもピンと来ません。実に不思議なものです。我が家に五代前の先祖を描いた掛軸があり、やはり八方にらみになっています。子供のころ、お盆にはこの掛軸が床の間に掛けられていました。八方にらみが気になって、あらゆる角度から試してみたのですが、ご先祖さまの目線は常に私を追いかけてきます。するとご先祖さまの肖像が、まるで生きているかのように感じられてくるのです。八方にらみには、そうしたリアルさを増す効果もあるのではないでしょうか。(写真出典:kaneiji.jp)

2026年1月7日水曜日

「落下の王国」

監督: ターセム・シン  原題:The Fall  2008年インド・イギリス・アメリカ

☆☆☆

本作は、4Kデジタル・リマスター版ですが、劇場公開されると大ヒットとなりました。凝りに凝った映像や石岡瑛子の美しい衣装が、口コミで広がったということなのでしょう。無声映画時代に活躍したバスター・キートンやスタントマンに捧げるファンタジーといった趣きを持ちます。撮影で大けがをしたスタントマンと骨折した移民の少女の病院内での交流、そしてスタントマンが少女に語り聞かせる物語が同時進行するスタイルです。物語に登場する人物は、病院や少女の家族が働く果樹園の人々です。よく出来たプロットだと思いますが、1981年のブリガリア映画「ヨー・ホー・ホー」が原作となっています。オリジナルは、タイトルから分かるとおり、主人公の二人が物語のなかで海賊になる映画だったようです。

監督は、インドのパンジャブ州の出身ですが、カリフォルニアで学んだ後、CMやPVの製作で名を成した人です。本作の映像の凝り方やキレの良さも十分に理解できるところです。撮影は、4年をかけて24ヶ国で行われたとされます。監督は、CM制作を請け負う際、本作のロケ候補地の仕事だけを選び、現地スタッフを使って本作用の撮影を行い、場合によっては、キャストをそこに呼んでまで撮影したようです。リアリティにこだわり、CG等は一切使われておらず、少女のセリフも、ほぼ台本がなく、彼女の自然な反応に任されていたようです。そのこだわりには頭が下がりますし、映像の素晴らしさも納得できます。ただ、残念なことに、映像の美しさと演出が化学反応を起こすこともなく、ドラマとしては凡庸になってしまいました。

AIの時代だからこそ、実写にこだわった本作がヒットしたという面があるのかもしれません。ロケに使われたインドの遺跡はじめ、訪れたことのある場所も多く、懐かしく見ました。ただ、大いに違和感も感じました。いくつかの遺跡の都合の良いところ、あるいはフォトジェニックな場所を切り取って、つぎはぎしているので、遺跡を知っている者にとっては違和感を感じてしまうことになります。遺跡によっては、挿入映像だけというものもありました。また、遺跡でのドラマ撮影には制約もあったのでしょう。やや無理な演出もあります。要するに、ドラマの展開を考えれば、実写だからすべて良いとも限らないわけです。むしろ、遺跡にインスパイアされたセットやCGの方が、映画的には正解なのではないかとさえ思います。

また、本作には、蝶のアメリカン・エキゾチックをはじめとして多くのモティーフが散りばめられていますが、処理し切れていない印象も受けます。エンドロールで延々と続く無声映画のアクション・シーンもトゥー・マッチな印象を受けました。要は、監督の思いつきが多く、映画としては準備と覚悟が足りないように思います。PVやCMの製作現場は監督の思いつきで回るところもあるのでしょうが、映画はそうも行きません。CM出身の映画監督は多数おり、見事な映画も製作されています。本作に限っては、数年にわたって、CM撮影のついでに断続的な撮影を重ねたことで、ドラマとしては散漫なものになったのかも知れません。結果として、監督の好きな映像や思い入れだけが先行して、観客を置き去りにしているような印象すら受けました。

衣装の石岡瑛子は、言わずと知れた日本を代表するアート・ディレクター、デザイナーです。1970年代には、パルコのポスターなど商業デザインで一世を風靡しますが、その後、拠点をNYに移して国際的に活躍しました。1987年には、マイルス・デイビスの「TuTu」のジャケット・デザインでグラミー賞、1993年には、フランシス・フォード・コッポラの「ドラキュラ」でアカデミー衣裳デザイン賞も獲得しています。ターセム・シン監督とは、本作を含む4作品でコラボしています。監督の求める映像美との相性は良く、さすがと思わせる印象的な衣装になっています。今でも、デザインやCMに携わる人々の間では伝説の人であり、本作がヒットした大きな要因も石岡瑛子にあるのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2026年1月5日月曜日

餅と団子

我が家では、正月の餅を新潟から送ってもらっています。農家が、自家栽培したもち米で作った餅です。新潟県は、米どころだけに、日本酒、餅、団子、米菓といった米を使った食品に対するこだわりも半端ないものがあります。送ってもらっている餅も、当然ながら、市販の餅よりも相当に美味しいわけです。コシの強さも大いに違います。よく伸びる餅ですが、市販のフワフワに比べて、しっかりコシのある伸び方をします。市販の餅は、柔らかさを出すために米粉も混ぜていると聞きます。過日、そんな話を、東京の生まれ育ちの友人にしていた時、驚きの事実が判明しました。その友人は、これまで団子と餅は同じものだと思って生きてきたというのです。製造過程を見たことがなければ、そうなるのかもしれません。恐らく都会の若い人たちも同じだと思います。 

基本的には、もち米を蒸してついた(搗いた)ものが餅であり、うるち米の粉を練って作るのが団子です。うるち米を粉にしたものが上新粉であり、団子の他に草餅や柏餅、あるいはういろう(外郎)の材料にもなります。米粉には、他にも様々な種類があります。もち米を水挽きして作ったのが白玉粉であり、キメが細かく、白玉や大福の皮になります。もち米を単純に乾燥させて作るのがもち粉であり、求肥の材料になります。また、もち米とうるち米をブレンドして作るのがだんご粉です。米粉に限らず、小麦粉はじめ様々な穀物の粉を使って、あるいは混ぜて作ったものも団子と呼ばれます。近年では、丸く成形したものすべてが団子と呼ばれる傾向もありますが、新潟では、小麦を材料としたものは、厳密に”小麦団子”と呼ばれています。プライドを感じさせます。

餅の起源は、古すぎてはっきりしません。稲作が伝来して以降、様々な米の食べ方がなされてきたのでしょうが、餅の始まりに関しては、考古学上の蒸し器の発見で判断されています。蒸し器は、主に東日本で出土し、6世紀頃のものとされています。なぜ東日本なのかはよく分かっていません。また、蒸し器は、ハレの日に使われていたものと推定されています。理解できる話です。世界中のフェスティバル・フードは、おおよそ調理に手間暇のかかる代物と決まっています。正月の餅は、いまだにフェスティバル・フードの定番であり続けているわけです。正倉院に残る文献には、数多くの餅料理が記載されているようです。蒸し器の登場から200年程度で、餅の食べ方がヴァラエティ豊かになったのは、古代から餅が人気の食べ物だったことを証明しています。

一方、団子の起源は、神への供物として作られた”しとぎ(粢)”だとされています。しとぎは、穀物をしばらく水に浸し、柔らかくしてからついて作ります。蒸していないだけで、作り方は餅と同じです。熱を使っていないことが供物として重要なのかもしれません。蒸し器を使わないことから、餅よりも古くから存在していたのではないかという説もあります。青森県東部と岩手県北部にまたがる旧南部藩領一帯には、ハレの日に作られる“豆しとぎ”という伝統菓子があります。青大豆を煮てから潰し、米粉と砂糖を入れて練った生菓子です。団子の原型が、そのまま残っている例なのでしょう。文献上の団子の初出は、平安中期の”新猿楽記”だとされます。南北朝の頃までには、竹串に刺したものも含め、ほぼ現在と変わらぬ団子のラインナップが登場していたようです。

新潟は餅が自慢であり、それを焼いた米菓も名産品です。一方、新潟の団子と言えば、名物・笹団子ということになります。上新粉ともち粉をブレンドしてよもぎを練り込んだ生地で餡子を包み、笹の葉で上手に巻いてあります。笹の葉には殺菌効果もあるようですが、その爽やかな香ばしさがたまりません。冷たくなったら必ず温め直して、その香りを楽しむべきです。しかし、新潟の団子の実力を実感できるのは”きんぴら団子”だと思います。要は、餡子の代わりに金平ごぼうが入っているわけです。新潟駅からは少し離れますが、夕栄町の「さわ山」で買って、すぐに食べてもらいたいものだと思います。上新粉の生地は、感動的なほどキメが細かく、中にぎっしり詰められた金平ごぼうの甘塩っぱさとの相性は、最高としか言いようがありません。(写真出典:the-niigata.jp)

2026年1月3日土曜日

門松

正月が近づくと、門松の絵を印刷した紙が、決まって家に配られます。”門松用紙”と呼ばれ、松飾りの代わりに玄関に貼り付けるものです。松の伐採を減らし、収集ゴミを減らすことが目的とされています。毎年、市役所が作り、町内会を通じて配られています。我が家は、しめ飾りをするので貼ったことはありませんが、近所では使っている家も少なからずあります。門松用紙は、昭和27年、高知市で生まれたと聞きます。共和印刷という会社の社長が、新生活運動の一環として”紙の門松”を考案し、近所に配ったのが始まりだったようです。新生活運動とは、戦後復興期に政府主導で始まった生活の合理化を目指す運動で、冠婚葬祭の簡素化等に取り組みました。ほどなく門松用紙は高知市の事業となり、その後、各地に広まっていったようです。

しめ飾りは、注連縄(しめなわ)の一種です。注連縄は、神域と現世、あるいは神聖なものとその他を分かつ結界を意味します。しめ飾りの場合には、厄禍を祓う結界、あるいは年神様が来訪する際の依り代という意味もあります。お正月に欠かせない鏡餅、おせち料理、雑煮などは、すべて年神様への供物です。また、年末の大掃除も、年神様を迎える準備という意味があります。年神は、農作を守る田の神と家を守る先祖の霊が一つになったものとされています。古事記によれば、注連縄は、天岩戸に隠れた天照大神を引き出した際、二度と岩戸に隠れないように縄を張ったことに始まるとされているようです。注連縄には、概ね、紙垂(しで)が下げられています。やはり天岩戸伝説が起源とされる紙垂は、邪悪を払う稲妻を意味しています。

大昔、稲は雷の光にあたることで発芽すると信じられ、稲妻の語源にもなりました。科学的には、雷の放電現象で空気中の窒素と酸素が結合し、窒素酸化物が生成されます。いわば天然の窒素肥料ですが、それが雨となって降り注ぐことで稲の発育に役立つことになります。理屈は分からぬでも、稲と雷との密接な関係は当たっていたわけです。注連縄の稲わら、紙垂の稲妻と、いずれも稲作文化を象徴しています。注連縄という漢字は中国の風習から借用しているようですが、注連縄と紙垂自体は純粋に日本で生まれた独自の文化です。日本の文化は、稲作、文字、宗教、政治体制等々、その多くが中国の影響下に形成されてきたわけですが、注連縄と紙垂は、いわゆる”からごころ(漢意)”以前の日本、つまり日本本来の姿を示す手がかりとも言えそうです。

一方、門松などの松飾りの起源は、平安時代の宮中行事「小松引き」だとされます。小松引きは、新春初めての子(ね)の日に、野山で根の長い小松を引き抜き、根の長さや太さでその年の吉凶を占い、長寿や無病息災を願うという行事です。もともと常緑の松は生命力の象徴とされていたことから、小松引きで引いた松を飾る風習が生まれ、後の松飾りにつながったとされます。門松に竹が加わったのは鎌倉期とされますが、経緯ははっきりしません。もちろん、竹も、生命力や成長力を象徴してめでたいのですが、平安期ではなく鎌倉期になってから加えられたところが面白いと思います。当時、宋から禅とともに伝わった文人画によく描かれる「歳寒三友(冬に耐える3つの友)」、つまり松竹梅に影響されたものと考えます。ただ、梅の花には少し早かったわけです。

門松の松と竹という組合せを見ると、「松無古今色 竹有上下節(松に古今の色無く、竹に上下の節あり)」という禅語を思い出します。松に関しては、時に左右されることなく常に緑であることから真実や平等がイメージされます。竹は、節があることで、強く、まっすぐ、高く伸びます。竹の節は仏法の例えであり、仏の教えに従うことで得られる心の強さと平穏を象徴しているように思います。一般的には、社会の調和を保つために礼儀や節度をわきまえることを表しているとされます。この「竹有上下節」という言葉は、茶室の掛け物にもよく使われるようです。作法の実践を通じて「和敬清寂」を目指すとされる茶道には、最も適した言葉のように思えます。そう考えると、門松も、なかなかに趣深いものがあります。(写真出典:rakuten.co.jp)

2026年1月1日木曜日

丙午

 2026年の干支は、「丙午(ひのえうま)」です。十干の3番目にあたる「丙」は、大地から芽が出て葉が広がった状態を指します。陰陽五行では火性の陽にあたるため、明るく活発、生命力あふれる年と言えるのでしょう。十二支の「午」は、草木の成長が極まって衰えの兆しも見え始める状態を指します。また、「午」は正午という言葉があるとおり、太陽が最も高いところにあることをも表します。陰陽五行では、やはり火性の陽となります。従って「丙午」は、大いに勢いのある年ということになります。大変に結構なことではありますが、一方で、有り余るほどのエネルギーが禍する面もあります。

古来、中国では、丙午は火災の多い年とされていたようです。日本では、丙午生まれの男は妻を食い殺し、女は夫を食い殺すという俗説がありました。その俗説が広まり、迷信にまでなったのは、八百屋お七の事件が原因とされています。お七は、本郷の八百屋の娘でした。1683年に起きた天和の大火で焼け出されたお七の家族は、本郷森川町の正仙院(別説あり)に身を寄せます。お七は、そこで寺の小姓と恋仲になります。しばらくして、お七の家が再建されると、お七と家族は寺を出ることになります。しかし、お七の恋心は募るばかり。もう一度家が燃えれば寺に戻れると思い詰めたお七は、ついに家に火を付けてしまいます。結果的にはボヤ程度だったものの、火付けの罪に問われたお七は、鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑に処されています。

お七は、井原西鶴が「好色五人女」の題材としたことで有名になり、読本、浮世絵、浄瑠璃、歌舞伎のテーマとして広く扱われていきます。その際、事実か否かは別として、お七は丙午の生まれとされます。以降、丙午の生まれは禍のもという迷信が広まっていきます。統計が残る明治以降では、1906年の丙午に出生率は4%減少し、その年に生まれた女性が適齢期を迎えると、なかなか結婚できず、自殺者も相次いだようです。1966年の丙午には、出生率は24%も減少しています。明治期の丙午に関する騒ぎを記憶している家族が多く存命していたこともあるでしょうが、マスコミが騒ぎ立てたことも大きく影響していたものと思われます。さすがに迷信に左右される時代ではありませんが、丙午生まれは気が強いという迷信を気にする人はいるのかもしれません。

過去の丙午の年を振り返ると、それぞれが歴史の転換点だったということができそうです。1846年は、アヘン戦争が終結した年です。アジアの大国である清が西洋に敗れたことは、アジア各国に大きなショックを与えました。西洋によるアジア支配が形を成した年であり、、かつアジアも西洋の先進的な科学技術に注目し始めた年だったとも言えます。日本にも外国船の来港が増え、幕末の混乱が始まった年でもあります。また、1906年は、日露戦争終結の翌年でした。日本は満州における権益を得ます。軍部が勢いを増す一方で、国力をすり減らしたうえでの辛勝であったことは伏せられ、マスコミに煽られた国民は賠償金を獲得できなかった政府を弱腰と批判することになります。無謀な日中戦争、太平洋戦争へと向かう構図が形成された年だったと言えます。

1966年は、前年に起きた証券不況を受けて金融緩和、財政出動が行われ、いわゆる”いさなぎ景気”が始まった年です。いさなぎ景気は1970年まで続き、日本のGDPは世界第二位にまで登り詰めます。経済が活況を呈するだけでなく、国民生活も文化も高度成長の恩恵を実感できるようになります。一方では、高度成長のひずみも顕在化してきました。また、中国では、この年、文化大革命が発動されています。確かに、丙午は、成長が極まると同時に衰退が始まる年のようでもあります。ただし、衰退の始まりは、大きな看板を掲げてやってくるのではなく、路地裏から、秘やかに、かつ確実に起こってくるように思います。恐らく、2026年は躍動感あふれる年になるのでしょう。しかし、我々は、その影にうごめくものにも留意すべきだと言えそうです。

日本国王良懐