2026年1月17日土曜日

大和心

本居宣長
本居宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という歌には、ありのままの自然に心を動かされるという日本人の感性が表されていると言われます。江戸時代後期の国学者である本居宣長は、古事記や王朝文学の研究で知られ、「もののあわれ」という日本の美意識を象徴する言葉を提唱しました。本居宣長の大和心は、もののあわれにも通じ、そこはかとなく無常観を感じさせます。四季の移ろいが明確で、天変地異の多い日本には、仏教が伝わる前から、無常観に近い意識が存在していたのだろうと思います。しかし、平安期に登場した大和魂(大和心)という言葉は、当初、もののあわれとはかなり異なる意味を持っていたようです。

大和魂の初出は「源氏物語」であり、「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」とあるようです。中国伝来の学問を基礎にしたうえで日本的な精神を活かせる人が素晴らしい、といった意味なのでしょう。ここで言う大和魂とは、社会における知恵、感性、判断などの全てを指しています。要は、実生活への応用ということなのでしょう。大和魂という言葉は、外国を意識するからこそ生まれます。才(漢才)と大和魂という二元論は、遣唐使が廃止され、日本独自の国風文化が花開いた時代の産物だと言えます。源氏物語も、まさに国風文化の粋であり、和魂漢才を地で行く作品なのでしょう。ただ、和魂漢才と言う言葉は、室町時代の偽書「菅家遺誡」が初出とされ、元寇で生まれた神国思想の影響下にあるとも言われます。

文字、文化、政治、宗教とあらゆるものを中国から学んだ日本は、自国文化と中国文化との関係をいかに捉えるかということに思い悩んできたとも言えます。平安初期までは漢才が上位で、平安中期には並立し、元寇以降は和魂がやや上に来たとも言えそうです。江戸幕府は、社会秩序維持のために、朱子学を正学とします。江戸中期には、その反動もあってか、国学が登場します。古典の研究を通じて、儒教や仏教が伝来する以前に存在した日本文化の独自性を明らかにしようとするものでした。文学の研究に関しては大きな成果があったものと思います。ただ、儒教や仏教をはじめとする”からごころ(漢心)”を否定して国体を論じようとすれば、律令国家の否定、あるいは論理的に国家を語ることが困難となり、自ずと神国論にたどりつくのだろうと思います。

その頂点とも言えるのが平田篤胤の復古神道ということになります。平田篤胤という人は、希有な天才だったのだろうと思います。秋田藩の武家に生まれながら、20歳で江戸へ出奔、様々な職業を経験し、西洋の医学・地理学・天文学をも含む様々な学問に精通したと言います。国学に出会い”宣長没後の門人”を自称した平田篤胤は、妻の死をきっかけに幽冥界研究に没頭し、復古神道を樹立するに至ります。天御中主神を創造主とし、日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるとする教義は、水戸学の尊皇思想と並んで、幕末の尊皇攘夷論を支えていくことになります。ここへ来て、大和心は本居宣長の手元を離れて、より国粋主義的な大和魂になります。吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」などは典型だと言えます。

明治以降、和魂洋才の時代を経て、軍国主義の時代を迎えると、大和魂は、国威発揚、士気高揚のために都合良く利用され、無謀な戦争を遂行するための装置の一つになっていきました。太平洋戦争中には、軍備の劣勢や物量の不足を神国日本の大和魂で補え、という精神論が幅を利かせることになります。敗戦後、大和魂は、軍国主義の象徴として否定されることになります。しかし、平安の頃から悩み続けた日本のアイデンティティという課題は、対比すべき対象が漢心から洋心に替っただけで、依然として残ったわけです。戦後も、折に触れて、日本論や日本人論が盛り上がりますが、確論や共通認識を得るに至ったものは一切ないと言えます。極論になりますが、もし論理を超えた無常観が日本人の意識の根底にあるのだとすれば、それを西洋的な論理で説明することは、土台無理な話なのだと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

日本国王良懐