2026年1月19日月曜日

「名もなきジャーナリスト」

邦題:名もなきジャーナリスト:「あの少女」を撮ったのは誰なのか        原題:The Stringer: The Man Who Took the Photo                 監督:バオ・グエン   2025年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

「戦争の恐怖」
1965年にヴェトナムで撮影された沢田教一の「安全への逃避」はピューリッツァー賞を受賞しました。UPI所属の戦場カメラマンだった沢田教一は高校の先輩です。私が高校に入学した1970年に、カンボジアで取材中に射殺されています。高校の食堂には、大きく引き延ばされた「安全への逃避」が掲げられていました。ヴェトナム戦争時には、何点かの報道写真がピューリッツァー賞を受賞しています。AP所属のヴェトナム人カメラマンであるニック・ウトが1972年に撮った「戦争の恐怖 (通称:ナパーム弾の少女)」も、ピューリッツァー賞を獲得した有名な写真です。「戦争の恐怖」は、アメリカ世論に大きな影響を与えた写真としても知られています。当時17歳だったニック・ウトは、この写真で多くの賞と名誉を獲得し、APに50年以上所属した後、引退しています。

しかし、50年後になって、当時APサイゴン支局で写真編集を行っていたカール・ロビンソンが、「戦争の恐怖」はウトの写真ではないと告発します。その日、支局には、ウト以外に、フリーのカメラマン2人が写真を持ち込みます。うち一人の写真には、全裸の少女が写っていたため、ロビンソンはボツにします。ところが、支局で絶大な力を持っていたピューリッツァー賞受賞写真家ホルスト・ファースが、その写真を本局に送信しろ、撮影者はウトにしろ、と命じます。名も無きヴェトナム人カメラマンは、20ドルだけを受け取って帰ります。ロビンソンは、50年間、撮影者を偽ったことを苦しみ続けます。老齢になったロビンソンは、真実を語り始め、それは報道写真家たちの間で徐々に知られるようになっていきます。

10年前に、この話を聞きつけた写真家ゲイリー・ナイトが興味を持ち、真実を探った記録が本作です。結果、「戦争の恐怖」を撮った写真家グエン・タン・ンゲが見つけ出されます。写真を盗まれたンゲも、50年間、悩み続けてきました。しかし、告発するにも証拠がなく、当時、現場を目撃したヴェトナム人もアメリカ軍の仕事をしていたので、アメリカそのものとも言えるAPを告発することはできませんでした。しかも、米軍の軍属だったンゲも目撃者も、戦後は軍の計らいでアメリカ市民権を得て豊かな生活を送っていました。ロビンソンも証拠がないことは同じでした。撮影者をウトにしろと命じたファースにも事情がありました。ウトの兄で写真家だったミーは、ファースの指示で赴いた戦場で死んでいます。ファースは、ミーの家族を助けるために17歳だったウトをAPに雇い入れ、写真のクレジットも彼にしたわけです。

渦中のニック・ウトはインタビューを拒否しています。しかし、ウトも自らの意志で悪意をもって写真を盗んだわけではありません。17歳のウトは、絶対的権威であったファースから押しつけられた善意を拒否出来なかったものと想像できます。恐らくウトも50年間悩んできたのでしょう。当時のサイゴンの混乱した状況もあります。また、その写真がピューリッツァー賞を受賞し、歴史を変えることになろうとは、誰もが予想していなかったと思います。つまり、悪意が存在しないままに不幸な事情が重なり、希有な盗作事案が成立したわけです。そして、それが関係者たちを半世紀に渡って苦しめてきたわけです。しかし、事は真実に関わることであり、著作権を守ることは写真家たちの生命線でもあります。真実は明らかにされ、誤りは正されるべきです。

ゲイリー・ナイトは、証言に基づくだけでなく、残された写真や映像を科学的に分析し、ウトが撮影者であり得ないことを証明しています。告発を受けてAPは、撮影者はウトではなく、ンゲである可能性が高いと結論づけます。ただ、決定的証拠に欠けることから著作権はそのままにしています。世界報道写真財団は、「戦争の恐怖」の著作権を一時停止にしました。この事件の背景に横たわっている問題の一つは、アジア人蔑視だと思います。そもそもヴェトナムの近代を巡る構図がアジア蔑視ではありますが、ファースの善意も温情主義的ですし、もし写真を持ち込んだのがヴェトナム人ではなく白人だったとすれば、この事件は起きていなかったと思います。当時、類した状況はいくらでもあったものと想像できます。本作が、名も無きヴェトナム人写真家たちに捧げられていることは意義深いと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

日本国王良懐