2026年1月23日金曜日

百人町

鉄砲百人隊行列
芸術家が集まり、作品を制作し、生活するアート・コロニーは、世界中に多く見られます。例を挙げればキリがないほどです。日本では、池袋モンパルナス、那覇のニシムイ美術村等が有名です。アート・コロニーは、19世紀のフランスで始まったようです。パリのモンパルナスやモンマルトルが有名ですが、恐らくパリ近郊のバルビゾンあたりがその嚆矢なのではないかと思います。 フォンテヌブローの森に隣接し、生活費も安いことから、ミレーはじめ風景画家たちが多く集まり、いわゆるバルビゾン派が形成されました。アート・コロニーのメリットは、互いに刺激を受ける、生活面も含めて助け合う、といったこともあるのでしょうが、何よりも世間の目を気にせず制作に没頭できる環境が魅力だったのだろうと想像します。

アート・コロニーと言えば、画家や彫刻家が集まっているイメージです。音楽家が集まるLAのローレル・キャニオンなどは希な存在だと思います。同様に、小説家や詩人のコロニーは聞いたことがありません。恐らく、唯一の例外は、戦前の百人町だったのではないかと思います。岡本綺堂、国木田独歩、林芙美子、西條八十等々、また北一輝や大内兵衛なども住んでいたようです。ただ、コロニーが形成されていたのではなく、単に文筆家が多かったというだけのことかもしれません。それでも、かなり希有な存在だったのだろうと思います。百人町は、新宿の北にあり、山手線の新大久保駅、中央線の大久保駅にはさまれた一帯です。昭和初期あたりまでは、武蔵野の入り口としてのどかな田園風景が広がっており、まさに郊外だったようです。

文人の集まる町だったことが影響したのでしょうが、戦前、百人町には、日本人やドイツ人の音楽家も集まり始めます。すると、楽器店や楽器の製造・修理の工房も増えて、百人町は音楽の町、楽器の町としての顔も持つことになります。戦後になると、復員してきた楽器職人たちが集って修理工房が再開され、楽器の町も復興したようです。1950年代半ばになると、歌声喫茶やジャズ喫茶が多く集る町にもなっていたようです。音楽の町という背景に加え、新宿と高田馬場の中間という立地も良かったのでしょう。歌声喫茶は新宿が発祥とされます。ピアノやアコーディオンの伴奏で皆が合唱するという店です。カラオケの前身のようにも言われますが、60年安保闘争や高度成長のひずみを背景に左翼が仕掛けたプロパガンダだったと理解します。

百人町の町名は、百人組の組屋敷があったことに由来します。百人組は、家康が、江戸城の西を守り、あるいは落城の際、将軍が甲州へ落ちるルートを確保するために置きました。伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4隊、各100名で構成される鉄砲隊でした。今も、皇居の大手門を入ると、中之門前に百人番所が当時のまま残っています。百人組各隊が交替で詰めて、将軍警護に当たった番所です。百人隊の組屋敷は、甲賀組が青山、根来組は市ヶ谷、二十五騎組が内藤新宿、そして伊賀組は大久保に置かれました。太平の世になると、百人組は内職としてツツジを育て始め、江戸で人気を博します。明治維新ととも百人組は解散となり、名物だったツツジも日比谷公園に移されます。その後、百人町は宅地化されていきます。なお、今も新宿区の花はツツジです。

百人町ほど激しい変遷をたどってきた町もないのではないかと思います。鉄砲隊の町、ツツジの町、文人の町、音楽の町、浮浪者と労働者の町、そして現在のコリアン・タウン、オール・エイジアン・タウンと目まぐるしく顔を変えてきました。いずれの顔にも、新宿に隣接しているという立地が影響しているように思えます。いわば奥新宿といったところです。ただ、新宿の単なる延長・拡大ヴァージョンではなく、独自の文化や風情を育んできたところが面白いと思います。新宿は欲望の町とも言えますが、実は経済合理性に貫かれた町でもあります。その周縁部として、新宿が失った自由と多様性を持ち得た町なのかもしれません。百人町は、これからも顔を変え続けていくように思います。(写真出典:cleanup.jp)

日本国王良懐