2026年1月13日火曜日

郷士

郷士とは、概ね、半農半兵、つまり平生は農業に勤しみ、戦時には兵士として戦う下級武士を指します。藩によって、制度も、呼称も異なりますが、武士と農民の中間的位置づけと言っていいのでしょう。戦国時代、戦が頻発するようになると、大名たちは、防御を固め、出陣の即応性を高めるために、家臣を城下に常駐させます。江戸期になると、城下の家臣団は、官僚となって藩政を支えます。しかし、太平の世、かつ限りある藩の財政では、戦国時代のような大規模な家臣団は維持できなくなります。そこで、下級武士たちは、城下から離れた農村に送られ、半農半兵の生活を送りながら、農村の行政にも携わることになります。 

藩政を底辺で支えていたとも言える郷士たちですが、幕末になると一部が歴史の檜舞台に登場することになります。土佐藩からは坂本龍馬、武市半平太など、薩摩藩からは川路利良、寺島宗則など、水戸藩からは芹沢鴨、香川敬三など、他にも上野国新田郷の高山彦九郎、庄内藩の清川八郎などもよく知られています。郷士に限らず、下級武士たちの活躍は、幕末から明治初期の大きな特徴です。それは、黒船来航、揺らぐ幕藩体制という激動期にあって、速やかに優秀な人材を登用する必要があったからだと言われます。また、郷士たちにとって、幕末の混乱は、武勲を上げて出世できる戦場と同じ好機だったわけです。一方で、それは、260年間に渡った泰平の世が、上級武士たちの牙を抜き、保守的な官僚へと変貌させてしまったことを反映しているとも言えます。

郷士出身の著名人を多く生んだ土佐藩の身分制度は、実に興味深いものです。戦国時代までの領主は長宗我部氏でしたが、関ケ原の戦いで西軍だったことから改易され、替って山内氏が入ります。長宗我部氏の軍には、一領具足と呼ばれる半農半兵の兵士が多く含まれていました。彼らは、反乱を起こすなど山内氏に反抗的だったようです。山内氏は、新田開発に功績のあった者の階級を上げる仕組みを取り入れることで、郷士を取り込み、かつ藩の財政を改善していきます。なかには白札郷士として上士待遇を受ける者もいました。江戸中期、商品経済化が進むと、身分の売買も行われ、豪農・豪商が郷士になったり、あるいは城で勤める郷士も誕生したようです。こうした人材の流動性が、幕末、土佐藩が多くの人材を輩出した理由でもあるのでしょう。

一方、薩摩藩の場合は、多少、状況が異なります。薩摩藩は、人口の1/4が兵士という軍事大国でした。薩摩藩は、江戸幕府による一国一城令を受け、鶴丸城の他に城郭を持たない軍事拠点”外城”を設けて防御を固めます。その数は113に上りました。駐屯兵の中心となったのが半農半兵の郷士です。土佐郷士との大きな違いは、藩が新たに送り込んだ家臣団だったということなのでしょう。その組織力は桁違いだったはずです。ただ、時代とともに身分の売買も行われるようになります。結果、土佐藩と同様に人材の流動性が生まれ、幕末の志士輩出につながったわけです。西郷隆盛も下級武士出身ですが、郷士ではありません。ただ、郷士を束ねる役職を経験したことで、郷士への理解が深く、西南戦争の際にも多くの郷士が参戦したと言われています。

各地の郷士のなかでも、とりわけユニークな存在が十津川郷士だと思います。十津川は、奥吉野山中深くにあり、古代から独立性の高い山の民の集落でした。神武天皇東征の際、吉野山中を先導した 3本足の”八咫烏”が祖先とも言われます。耕作地が少ないこともあり、租税は古代から江戸期に至るまで減免されていました。その代わり、代々天皇によく仕え、古くは壬申の乱、平治の乱等にも出兵しています。幕末には宮廷警護にあたり、戊辰戦争にも参戦します。十津川郷士は、武芸と胆力に優れ、常に一目置かれる存在だったようです。そのあたりは、英軍に参加していたネパールのグルカ兵を思わせるものがあります。また、十津川村には、源義経が逃げ込み、南朝政権が拠点にしていた歴史もあります。畿内にこれほど変わった村落が存在してきたことは奇跡的だとも言えます。(写真:十津川郷士  出典:totsukawa.info)

日本国王良懐