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| 高麗神社 |
高麗郡は、716年、関東一円に居住する高句麗からの移民1,799人を集めて設置されました。郡司には、高句麗最後の王となった宝蔵王の子である高麗若光が就いています。高句麗は、紀元前1世紀、弱体化した漢の玄菟郡に、ツングース系の扶余の王族・朱蒙が興したとされます。建国はもっと古いという説もあります。新羅・百済との三国時代には、満州南部から朝鮮半島の大半を領土としています。東アジア激動の時代、隋・唐の圧迫をしのぎ、700年間、大国を維持した高句麗は、まさに強国でした。ただ、強大化した唐は、新羅と連携し、688年、ついに高句麗を滅ぼします。高句麗は、半島に攻め込んだ倭国とも何度か戦い退けていますが、新羅攻略に関しては連携も模索しています。高麗若光の日本渡来は、亡命とも、支援要請ともいわれています。
日本書紀には、666年、高句麗から使節団が来訪したという記述があり、そのなかに玄武若光の名があります。続日本書紀には、703年、従五位下高麗若光に王(こにきし、またはこきし)のカバネを与えたという記録があります。そして、716年の高麗郡の設置となるわけです。飯能の北隣の日高市には高麗神社があり、高麗若光が祀られています。また、神奈川県大磯にある高来神社は、明治中期に改称されるまでは高麗神社であり、高麗若光に由来するとされます。大磯には高麗山があり、近郊の高座郡の旧名・高倉郡も高句麗が由来と聞きます。いずれにしても、高麗若光がこの地にいたということなのでしょう。中国系帰化人の秦氏が開いた秦野市などは別として、高麗若光はじめ、関東には、半島からの渡来人の足跡が多く残っているわけです。
稲作はじめ、渡来人が日本の文明化に果たした役割はとてつもなく大きいと言えます。ヤマト王権時代になると、文化、技術、宗教等の伝道師として敬意をもって迎えられ、多くは官職を得て、氏姓を賜り、畿内に居住します。ただ、663年、倭国が、白村江で唐・新羅に大敗を喫すると状況は大きく変わります。東アジアの混乱を受けて亡命者が急増するわけです。百済、高句麗、新羅の人々は関東へと送られます。畿内に渡来人が増えすぎたとも、武蔵野開拓のためだったとも言われます。ただ、恐らくはより政治的な理由だったのではないかと思います。つまり、唐から半島の亡命者の扱いを問いただされた際、辺境の地に追いやったと説明するためだったのではないでしょうか。確かに当時の武蔵野は辺境だったわけですが、亡命者たちはそれなりに保護もされています。
758年には、新羅からの亡命者を集めて新羅郡が置かれます。その後、改称され、新座(にいくら)郡となり、現在の新座市や志木市につながります。余談ですが、、大泉学園にある「和菓子 大吾」の「爾比久良(にいくら)」は、昭和天皇が訪米した際、手土産として持参した逸品として知られます。卵黄と白餡で作る黄味羽二重時雨餡はホロホロとした食感であり、中には餡子と栗が一個丸々入っています。爾比久良という名称は「当地の古の呼称にちなむ」と店は説明しています。確かに、爾比久良は新倉郡の雅称ですが、それが平安時代に新羅郡が改称されたものだとは、誰もが知らないのではないかと思います。いずれにしても、武蔵野は、朝鮮半島と縁深い土地だということです。(写真出典:komajinja.or.jp)
