2024年6月29日土曜日

黄金の午後

「黄金の午後、私たちはのんびりと船を進めます」とは、ルイス・キャロルが「不思議の国のアリス」の序文に掲げた詩の書き出しです。1862年7月4日、その”黄金の午後”、ルイス・キャロルと同僚の牧師は、キャロルの友人ヘンリー・リデルの3人の娘、ロリーナ・シャーロット(13歳)、アリス・プレザンス(10歳)、エディス・メアリー(8歳)を連れて、オックスフォードのアイシス川(テムズ川)を8kmばかりさかのぼります。キャロルは、船中で子供たちに物語を語ります。子供たちにせがまれたキャロルは、物語を「アリスの地下の冒険」と題して手書きし、アリスにプレゼントします。1865年、友人達の勧めもあって、これを「不思議の国のアリス」として出版することになります。

「不思議の国のアリス」は一度たりとも絶版になったことがなく、現在174カ国語に翻訳されているという児童文学の傑作の一つです。児童文学の宝庫とも言えるイギリスですが、そのなかでもアリスは、かなり独特な位置づけを持っています。子供向けであることは間違いないのですが、一方で、イギリス伝統のナンセンス文学の一つの頂点とも考えられています。それこそ、アリスが、いまだに多くの人を魅了し、学術的な研究もされ、多くの芸術・芸能に影響を与え続けている理由です。ヴィクトリア朝の英国文学を代表する作品とまで言われます。それほどまでの傑作が、キャロルのまったくの思いつきで即興的に語られたものなのか、あるいは事前にある程度構想されたものだったのか、という議論があるようです。

本人は、明確に答えていませんが、恐らく、即興的とも、そうではないとも言えるのでしょう。とても気分の良い”黄金の午後”だからこそ、流れるように生まれ出た物語という面を持ちながらも、ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン本人の性向や思想、日ごろの生活の中で浮かんだ考えなどが、直接反映されているのだろうとも思います。ドジソンは、代々英国国教会の牧師という家に生まれます。父は、オックスフォード大で数学の学位を取りながら牧師になっています。名門ラグビー校に進んだドジソンは、学校に馴染めなかったものの、成績は極めて優秀でオックスフォード大に入学します。文学の学位をとって卒業しますが、数学の才能が認められ、オックスフォード大で数学を教えることになります。

ドジソンは、人生の大半を、オックスフォード大最大のカレッジであるクライスト・チャーチに住んで教鞭を執っています。聖職者の資格を持ち、独身であることが居住条件だったようです。多才なドジソンは数学者の他に。作家、詩人、画家、写真家、論理学者、発明家でもありました。彼は、幼少期から吃音症だったようです。また、自閉症気味だったのではないかという説もあります。その人となりに関しては、今でも多くの議論があるようです。最もよく話題にされるのは、少女のヌード写真が多く残されていることから、小児性愛者だったのではないかという疑義です。ただ、当時は、少女の裸身を神に通じる無邪気さの象徴とする風潮も存在したようです。いずれにしても、具体的証跡はなく、また反証も多く存在します。

恐らく、ドジソンは、数学者にありがちなアスペルガー症候群だったのでしょう。社会性の乏しさが、彼の性分を分かりにくくし、誤解を生みやすくしているのだと思います。ただ、同時に、そのことが、社会を見る冷静な目につながり、ナンセンス文学を生み出したのでしょう。ナンセンスとは、意味のないこと、ばかげたことと訳されますが、ナンセンス文学は、意味のないことを巧みに用いて、既存体制や常識をユーモラスに批判するものです。その点においては、後のシュールリアリズムやポップ・アートの構造に通じるものもあります。才能あふれるドジソンに、もう少し社会的な野心があれば、歴史に残る改革者になっていたかもしれません。ただ、実際のドジソンは、半ば世間に背を向け、少女たちとの”黄金の午後”に安らぎを得ていたのでしょう。(写真:ルイス・キャロルが撮影したアリス・リデル 出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月27日木曜日

曽呂利新左衛門

御伽衆(おとぎしゅう)とは、大名等の側に仕え、退屈を紛らわせるために、雑談に付き合う、あるいは種々の話を聞かせる役でした。室町の頃から江戸初期まで続いたようです。戦乱が続き、権謀術数が渦巻く時代にあって、大名たちは気が休まることがなかったはずです。妻子や侍女、側近たちも多くいたわけですが、常に生死をかけた判断が求められる重責に、否が応でも孤独感は増したものと思われます。そんななか、大名個人の思いや話に付き合ってくれる人間は貴重な存在だったのでしょう。豊臣秀吉に至っては、御伽衆を800人抱えていたと言われます。隠居した大名、文化人も多く含まれていたようです。もっとも、秀吉にとって御伽衆は、出自の卑しさをカバーする箔付けの意味合いが大きかったものと思います。

秀吉の御伽衆のなかで良く知られている一人が、後に笑話集「醒睡笑」を著わし、落語の祖とも言われる茶人の安楽庵策伝です。一方、秀吉の御伽衆のなかには、落語家の祖と言われる人物もいます。とんちの利いた話で秀吉を楽しませたという曽呂利新左衛門です。本名は杉本新左衛門。もともとは堺の鞘師だったようです。腕の立つ職人であり、その鞘には刀がソロリと収まったので、曽呂利新左衛門と呼ばれるようになったといいます。とんちが利くと評判をとった新左衛門は、秀吉に召し抱えられます。新左衛門は、猿顔を嘆く秀吉に「猿の方が殿を慕って似せたのです」と言って笑わせたという話が残ります。これだけなら、落語家の祖というよりも幇間(たいこもち)の祖というべきだろうと思います。

曽呂利新左衛門の知恵者ぶりを伝える話も残っています。あるとき、褒美を賜ることになった新左衛門に、秀吉は何が欲しいか尋ねます。新左衛門は「この広間の畳に端の方から一畳目は米一粒、二畳目は二倍の二粒、三畳目はその倍の四粒、次は八粒というように二倍二倍と米を置いていき、広間の百畳分全部をいただけますか」と答えます。秀吉は、その程度のものかと快諾します。ところが、考えてみると、とてつもない米の量になることに気付いた秀吉は、新左衛門に別な褒美に変えるよう懇願します。いわゆる累乗の計算になりますが、EXELで計算すると”1.26765E+30”という答が出ます。これは、1.26765に10の30乗を掛けることを意味します。天文学的どころか、宇宙を超えるほどの数字になります。

まるで数学者を思わせる逸話です。私が好きな逸話は、やはり褒美に何がよいか問われた新左衛門が「毎日、殿の耳のにおいを嗅がせてもらいたい」と答えたというものです。これまた秀吉は快諾します。そして、実際、毎日、においを嗅ぐことになるのですが、その様子を見ていた人たちには、新左衛門が秀吉に何かささやいているようにしか見えません。悪口や告げ口をされては大変と思った大名や側近たちは、新左衛門に付け届けをするようになったというのです。虎の威を借る狐かな、といったところですが、人間の心理をついた、あるいは独裁者の宮廷のありようを冷静に観察したうえでの、実に狡猾な知恵と言えます。一流とされた御伽衆の資質の高さを伝える話だと思います。

単に主君に媚びるだけなら二流の御伽衆、時にはへつらうことなく真実を伝えてこそ一流であり、それが主君の寵愛を受けることにもつながるのでしょう。もちろん、しゃちこばって真実を伝えるのではなく、諧謔をもって伝えるからこそ御伽衆ということになります。それが落語家の本質にも受け継がれているように思えます。講談には「講釈師、見てきたような嘘をつき」という言葉があります。上から目線で、押しつけがましく語りきるのが講談師の芸です。対して、落語家は、あくまでも庶民の目線、感性から離れることはありません。人間や世間を見る冷静な目線をベースに、庶民に対しては愛情を持って、上部構造に対しては批判をこめて諧謔を繰り出します。批判的精神のない落語家など薄っぺらいものです。ところで、新左衛門の猿顔の話は、秀吉が猿顔であると言っているようなものです。これが落語の真髄につながるわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月25日火曜日

月面着陸

中学の頃、剣道部に所属していました。当時、剣道部は、日曜、夏休み、冬休みには朝稽古をしていたものです。中学3年生の夏休み、よく晴れた暑い日だったと記憶しますが、稽古の後、皆で宿直室に集まりました。他の運動部も加わり、広くもない部屋は満杯になります。学校にある唯一のTVが目当てでした。その日早朝、アポロ11号が人類初の月面着陸を成し遂げ、世界中が歓喜に沸いていました。NHKは、早朝から延々と中継映像を流し続けていました。そして、1969年7月21日午前11時56分(米国時間同日午前2時56分)、いよいよその時が来ました。人類が初めて月面に降り立つ瞬間です。ニール・アームストロング船長が月面に降り立つと、信じがたい程の大歓声があがりました。感動のあまり鳥肌が立ったことを覚えています。

アームストロング船長は冷静な声で「これは人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」と語ります。生涯忘れ得ぬ言葉の一つです。正に人類の進歩そのものでした。月面着陸もさることながら、その瞬間が世界に同時中継されたことも歴史的快挙だったと思います。その瞬間のNHKの視聴率は68%を記録しています。その後、しばらくの間、熱狂がさめることはありませんでした。私も、アポロ11号とNASA管制センターとの交信を収めたレコードを持っていました。月面着陸のブームは、1970年、大阪万博で展示された月の石でピークに達したように思います。半年に渡る会期中に6,422万人が来場した大阪万博は大成功でしたが、「人類の進歩と調和」というテーマに相応しい月の石の効果は大きかったと考えます。

しかし、アポロ11号の大騒ぎを思い起こすと不思議なことがあります。何故月に行くのか、という説明を聞いた記憶がありません。誰も話していなかったように思いますし、誰も疑問に思わなかったのではないかと思います。アポロ計画は、1961年、ジョン・F・ケネディ大統領が両院合同議会で打ち出しています。その際の演説では、月面着陸は宇宙探査史上で最も重要なプロジェクトになる、米国の持つ行動力や技術力のレベルを知ることになる、といったその意義や重要性が説かれていますが、直接的にその目的は語られていません。アポロ計画の背景には、冷戦があり、核兵器開発競争がありました。宇宙開発分野における米ソの競争は、核ミサイル技術の開発競争そのものだったことは衆知の事実でした。

核戦争が現実味を帯びるなか、人工衛星や有人宇宙飛行でソヴィエトに遅れを取ったアメリカが焦る気持ちはよく分かります。月面着陸を目指すことで、様々な技術を一気に向上させ、ソヴィエトを抜き去るという意図も理解できます。また、結果的に、コンピューターはじめ、アポロ計画が民間にもたらした技術革新が数多くあることも承知しています。しかし、ミサイル技術、あるいは宇宙防衛技術を向上させるためだけなら、膨大な予算、要員を投入してまで人を月に送る必要はないように思います。人類の夢の実現、あるいは地球や人類誕生の謎に迫るという科学的探究心も分かります。ただ、天文学的な規模の国家予算を投入することは理解を超えています。よく議会が承認したものだと思います。

予算が議会を通った背景には、核戦争の脅威だけでなく、1950年代アメリカ経済の躍進もあったのでしょう。自信、自惚れと言うことも出来そうです。ただ、アポロ計画を議会が承認し、国民が大歓迎した最大の理由は、フロンティア精神にあったのではないかと思っています。アメリカにおける国家と国民の繁栄は、ひたすら西へ西へと向かっていったことに依ります。いわゆるフロンティアであり、ある意味、アメリカという国の精神そのものだと言えます。しかし、それも太平洋に到達することで一段落し、太平洋、アジアへ向かったものの決して簡単ではありませんでした。とすれば、残るは空ということになります。好景気に沸くアメリカにとって、より大きな旗印が社会的に必要だったのでしょう。ケネディ大統領ではなく、アメリカ国民が月面着陸というフロンティアを選択したのかもしれません。(写真出典:afpbb.com)

2024年6月23日日曜日

ZAPPA

1970年代、フランク・ザッパは、すでに伝説的存在でした。ただ、名前は知っていても、音楽はほとんど聞いたことがありませんでした。ヒット・チャートを賑わせるような音楽ではなかったからです。 それでも、たまに聞く機会はあったのですが、面白いとは思っても、自分の好きなタイプではないのでレコードを買うこともありませんでした。先日、2020年に制作されたアレックス・ウィンター監督のドキュメンタリー「ZAPPA」を見ました。よくあるミュージシャンのドキュメンタリーとは大いに異なりました。単なるロック・ミュージシャンとしてのザッパではなく、その希有な存在の全てを描こうとしていたからこそ興味深い映画になったのだと思います。

天才フランク・ザッパは、ジャンルを超越した作曲家にして前衛芸術家でした。自分の音楽を形にするために、身近にあったギターを手に取り、組成しやすかったロック・バンドという形を選んだだけなのでしょう。ザッパは「自分で書いた曲を演奏し、録音し、聞きたいだけだ。それを他人が聞きたいというのであればうれしい」と語っています。自身のバンドであるマザーズ・オブ・インベンションやマザーズのライブでは、常に新曲や新たに編曲された曲が演奏されていたようです。完璧を期すために、メンバーには高い演奏水準が求められ、長時間のリハーサルが行われていたようです。あたかもオーケストラの公演のようです。現に、ザッパは、ギターをタクトに持ち替えて、自作をロンドン・フィルやドイツのアンサンブル・モデルン等と演奏しています。

ザッパにとっては、オーケストラの指揮もバンドのライブとなんら変わらぬ音楽活動だったのでしょう。彼の曲は、今でもオーケストラで演奏されています。ザッパは現代音楽の作曲家として認知されているわけです。ザッパのジャンルを超えた音楽は、レーベルの営利主義と対立し、ロック・ミュージシャンとしては初となる自身のレーベルも設立しています。また、議会が、CDのレーティング導入に動いた際には、検閲であるとして反対の声をあげ、参考人として議会で証言もしています。議会に敵対し仕事を失うことを恐れたミュージシャンたちが口をつぐむなか、ザッパは身を挺して表現の自由を守ったわけです。自らのレーベルを持っていることも強みでした。ザッパは大統領選出馬に意欲を見せたことがありますが、この問題が契機となったものと思われます。

ザッパは、正式な音楽教育を受けていません。音楽活動は、高校時代のR&Bバンドのギター担当に始まっています。ただ、興味深いことに、その頃からエドガー・ヴァレーズやアントン・ヴェーベルンの現代音楽もよく聴いていたようです。また、許可を得て大学で和声の講義を受けたこともあるといいます。高校を卒業すると、大学には席をおいただけで、バンド活動、録音スタジオ経営、作曲等に勤しみ、19歳でオペラの作曲も行っています。1965年、25歳のおり、ヴァーヴ・レコードと契約し、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションとしての活動を開始します。翌年にはデビュー・アルバム「フリーク・アウト」が2枚組でリリースされます。ロックにおける最初のコンセプト・アルバムとして知られます。

映画は、1991年、チェコでのソ連軍撤退を祝うライブの模様から始まります。ザッパは、熱狂的な歓迎を受け、異様な盛り上がりのなかでギター・ソロを披露します。ビロード革命で民主化を成し遂げる以前のチェコでは、ザッパの音楽は禁止されており、反体制の象徴として地下で広がっていました。チェコの人々にとって、ザッパは自由の象徴だったわけです。ある意味、チェコの人々は、ザッパの本質をよく理解していたとも言えます。カウンター・カルチャーというマントを翻しながら荒野を一人歩んできたというイメージがザッパを伝説的存在にしているのでしょう。しかし、マントの下の生身のザッパは、スタートから終始一貫、誰に媚びることもなく、ひたすら頭の中で鳴り響く音楽を形にすることだけに執着し続けた生粋の作曲家だったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年6月21日金曜日

クマリ

クマリは、ネパールの生きた女神です。密教の女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーの化身であり、ネパール王国の守護神である女神タレージュ、アルナプルナの生まれ変わりとされます。クマリとは、少女、処女を表すサンスクリット語が語源になっているようです。幼女のうちに選ばれ、初潮を迎えるまでクマリとしての役割を果たします。クマリは、ネパール各地に存在します。ロイヤル・クマリと呼ばれる首都カトマンズのクマリは、実家を離れてクマリ・チョークという専用の館に住みます。クマリは、インドラ・ジャートラーの大祭で主役を務め、国王ですらひざまずくとされますが、日常的には、多くの参拝客に、ティカと呼ばれる額に赤い粉をつける祝福を与えています。

クマリは、仏教、ヒンドゥー教、地元信仰が一体となった不思議な生き神です。日本の神仏習合を思わせますが、ネパールでは仏教とヒンドゥー教の共存の象徴としても機能しているようです。その起源は諸説あるものの、マッラ朝(12~17世紀)時代に始まったようです。ある説では、女神タレージュが、毎夜、人間の姿でトライトキヤ・マッラ王を訪れ、国の繁栄について相談に乗っていました。ところが、ある夜、王が女神に性的な誘いをかけると、女神は激怒し、二度と現れなくなります。後悔した王が彼女の帰還を懇願したところ、女神はシャーキャ族の処女の少女の姿で現れることを約束します。シャーキャ族は、ゴータマ・シッダールダ、つまりお釈迦さまの出身一族として知られます。釈迦とはシャーキャのことです。

クマリが選ばれる基準は、32項目にも及ぶようです。健康状態が良く、血を流したことがなく、病気になったこともなく、傷がなく、歯をまだ失っていない等に加え、子牛のような睫毛、獅子のような胸、鹿のような脚といった外観、穏やかで恐れを知らない性格などが続きます。候補者は、さらにいくつかのテストを受けて、クマリに選定されます。クマリは、世話人たち、選ばれた遊び相手に囲まれて暮らします。クマリは女神ゆえ、誰からも命令や指示を受けることはありません。また、全知全能ゆえ教育を受けることもありません。地面に足をつけてはならないともされます。クマリとしての役割を終えると、生涯年金が支給されるようですが、一切の教育を受けていないことから、社会復帰は難しいとも言われます。

近年、ある意味の近代化がなされ、クマリは家庭教師を付けたり、公立学校へ通うことも認められるようになっているようです。とは言え、人権という観点からクマリは問題視もされているようです。同じことが、チベットのダライ・ラマやカルマパにも言えるのでしょう。人ではなく神だ、と言えばそれまでですが、悩ましいところです。日本の天皇にも同様の問題があります。天皇家は神の子孫とされますが、天皇が明確に現人神とされたのは明治以降のことです。敗戦後、人間宣言をした日本の天皇ですが、基本的人権を有しないという問題があります。法的矛盾だとする意見もあります。慣習法であるという考え方もあるのでしょう。慣習法と成文法の関係は難しい問題ですが、通常、公序良俗に反しない慣習法は、成文法と同じ効力を持つとされます。

天皇制と人権について矛盾を感じないのが日本人の特徴だという意見もあります。つまり、日本は革命によって国体が変わった経験がなく、真の意味で近代的な法治国家になりきれていないというわけです。かつて、家の近所に「クマリ」という名の美味しいインド料理屋がありました。特にナンは絶品でした。店名からしてネパール系の経営者なのだろうと思います。いつも気になっていたのは、クマリという店名です。日本にテンノウやアマテラスという名の飲食店があるとは思えません。ネパールの人々は、総じて信仰心が厚いものと思われますが、店名に生き神の名前をつけるあたりの感覚はよく分かりません。しばしば聖と俗が渾然一体となっている印象を受けるインド・ネパールならではの感覚なのかも知れません。(写真出典:en.wikipedia.org)

2024年6月19日水曜日

Shōgun

今年、アメリカで公開され大ヒットしたTVシリーズ「Shōgun」を見ました。ディズニーの子会社が制作し、アメリカではHulu、日本ではディズニー+で配信されました。世界的にヒットし、高い評価も得ました。原作は、ジェームズ・クラヴェルであり、戦国末期の史実をもとに、徳川家康と石田三成、カソリックとプロテスタントという対立構図を描くフィクションです。映像化されるのは、これが二度目となります。1980年に、NBCがTVシリーズとして制作し、日本では映画化されたものが公開されました。リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子らが出演し、ある程度ヒットし、評価も上々でした。しかし、今回の映像化は、前作をはるかにしのぐ大ヒットとなり、一層高い評価を得ています。

映像、演出、演技もさることながら、前作と比べ、より原作や史実に忠実であること、西洋寄りにならない中立性を保っていること等も評価されているようです。原作者の娘が製作総指揮陣に入り、主演の真田広之もプロデューサーを兼ねていることが良い効果を生んでいるのでしょう。とは言え、日本人にとってみれば、史実をつまみ食いしたフィクションは、やはり気にはなります。細部に関して言えば、よくあるエキゾチシズムだけを狙った日本の描写はかなり改善されていますが、やはり違和感を覚える箇所も多々あります。もちろん、世界中の視聴者を考えれば、ごく正確に当時の日本を再現することが良いとも限りません。少なくとも、やたら説明しなければならないシーンが増えることでしょうから。

撮影は、日本で行う予定だったようですが、システム・ネットワークの脆弱さゆえ、カナダに変更されたとのことです。日本にとっては、やや悲しい理由です。ま、CGやAIの時代ですから、どこで撮影しても問題ないのでしょう。撮影場所が日本ではなかったため、今回は著名な日本人俳優の出演は限られています。主演の一人である鞠子役には、ニュージーランド生まれの日本人アンナ・サワイが起用されています。日本での芸能活動を経て、ハリウッドで活躍中の女優とのことです。真田広之、浅野忠信、コスモ・ジャービス、そしてアンナ・サワイの演技が、キャラクター設定を見事に際立たせ、物語を分かりやすく、没入しやすいものにしています。二階堂ふみも、淀君と思しき複雑な役で、さすがの演技を見せています。

世界中には、私も含めて「ゲーム・オブ・スローンズ(GOT)」ロスの人が山ほどいるはずです。柳の下をねらったファンタジーが多く作られましたが、壮大さにおいてGOTを超えるものはありませんでした。本作は、全く異なる切り口からアプローチしたことで、GOTに迫る仕上がりになっていると思います。例えば、欧米人には理解しにくい日本のストイックな組織主義をあえて基調に据えることで、対立と裏切りの構図をより深みのあるものにしています。それが実現できたのは、抑制の効いた全体のトーンと主演陣の演技によるところが大きいと思います。同様に、ほぼ全編を日本語で通すという思い切った判断も、リアリズムを高める効果があったと思います。GOTのために創作された高地ヴァリリア語とドスラク語を思い起こさせます。

大ヒットを受けて、既にシーズン2、3の制作が決定しているとのことです。GOTは、1年に1シーズンというサイクルでした。私は一気見が好きなので、2~3日のために1年待つというしんどい数年間を過ごしました。同じことが起こりそうです。今回想定された時代設定からすれば、シーズン2は関ヶ原の戦い前後、シーズン3は大坂の陣ということになるのでしょう。今回の比ではなく戦いのシーンが増えます。予算も膨大なものになるのでしょう。余談ながら、昨今の円安もあり、インバウンド客の増加は著しいものがあります。想像するに、本作の世界的ヒットを機に、日本の歴史に興味を持つ人が増え、日本の歴史を探訪したいというインバウンド客が増加するのではないかと想像できます。家康、あるいは戦国末期ゆかりの地では、今から受け入れ準備をした方がいいと思います。(写真出典:disneyplus.disney.co.jp/)

2024年6月17日月曜日

エレクトリック・ギター

最初に買ったジャズのアルバムは、マイルス・デイビスの「フォア&モア」でした。しかし、最初に手に入れたのはタル・ファーロウの「ザ・スウィンギング・ギター」でした。ラジオ番組で音楽にちなんだダジャレの募集があり、一等賞になるとレコード・プレゼントという企画でもらったものです。とりわけタル・ファーロウ・ファンというわけでもなく、初めて買ったスウィング・ジャーナル誌の今月のお薦め盤だっただけのことです。1950年代に活躍した白人ギタリスト・タル・ファーロウは、抜群のテクニックで一世を風靡した人です。オクトパスとあだ名される大きな手から繰り出される単音の早くて音域の広いパッセージが特徴です。

ギター、ピアノ、ベースというトリオ編成もいい味を出しています。ジャズのエッセンスとも言える演奏ですが、やはり白人っぽい淡泊さを感じさせます。スウィングのギターなら、なんと言ってもチャーリー・クリスチャンがベストだと思います。 チャーリー・クリスチャンは、ジャズにエレクトリック・ギターを持ち込んだ最初のギタリストであり、ギターを単なるリズム楽器からソロ楽器に変えた人とされています。スウィンギーなだけでなく、音に豊かな表情とブルーズを感じさせます。登場間もないエレクトリック・ギターだったわけですが、既にその特性をよく心得ていたように思います。1939年、23歳でスウィングの王様ベニー・グッドマンのバンドに参加し、当時としては目新しかった楽器とともにその名を轟かせました。残念なことに、25歳のおり、結核で亡くなっています。

エレクトリック・ギターの試作は、1910年代には始まっていたようです。ビッグ・バンドの流行とともに、ギタリストは大きな音が必要になり、奏者たちが自ら試行錯誤しました。当初は、単純にアコースティック・ギターにマイクを付けて音を拾う方式を試していたようです。今につながる電磁式のピックアップが登場したのは、1931年です。アドルフ・リッケンバッカーとジョージ・ボーチャムが発明しています。商品化された最初のエレクトリック・ギターは、リッケンバッカー・エレクトロA-22、通称「フライパン」であり、当時のハワイアン・ブームを背景に開発されたラップ・スティール・ギター、いわゆる横置きのハワイアン・ギターでした。エレクトリック・ギターは瞬く間に人気となり、ギブソンはじめ多くの製造業者が誕生します。

その後、エレクトリック・ギターは、楽器としても、奏法としても進化していくことになりますが、機器としての最も大きな変化はエフェクターの登場だったと思われます。エフェクターは、1940年代後半には試作されていたようですが、一般化する契機となったのはボー・ディドリーのデビュー曲「ボー・ディドリー」だったとされます。ボー・ディドリーが使ったのはトレモロ効果をかけるフロア・タイプのエフェクターでした。60年代に入るとトランジスタを使ったエフェクターが登場し、なかでも倍音を強調するファズは、ローリング・ストーンズのキース・リチャードが「サティスファクション」で使ったことから大ブームとなります。時は、まさにギター・ブルースの時代を迎えており、各種エフェクターが大流行していきます。

ジミヘン、エリック・クラプトンといったギター・ブルース時代のギタリスト達の源流は、ハウリン・ウルフ・バンドのヒューバート・サムリンだと言われます。南部の黒人に言わせれば、ジミヘンなどサムリンのギターの音量を上げただけということになります。ヒューバート・サムリンは、ロバート・ジョンソン以降続いたブルース・ギターの伝統を、より自由なものへと変化させ、主役の座に据えていきました。ブルースだけでなく、ロック・ギターの源流でもあります。ジャズの世界では、多くの名手が生まれていますが、奏法に大きな変革をもたらしたのはウェス・モンゴメリーだと思います。オクターブ奏法やコード演奏を用いることで、単音・早引きのスタイルをよりモダンで深みのある世界へと変えました。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月15日土曜日

会して議せず

NYに赴任した当初、アメリカの企業に組織図(オーガニゼーション・チャート)を見せてくれと言うと、皆、結構、戸惑っていました。レポーティング・ライン(指揮命令系統)でいいか、とよく言われたものです。職務権限が明確で、かつ厳密に運営される米系企業の経営判断は、おおむね個人単位で行われます。日本企業にも職務権限はあるものの、組織主義的な運営が中心であり、経営判断の多くは会議で成されていました。デジタル化が進んだ昨今、企業内の会議もかなり変わったのだろうと思いますが、かつての日本企業の会議は「会して議せず、議して決せず、決して行わず」と揶揄されたものです。結果的に、やたら会議が多くなってしまうことも問題視されていました。

アメリカ企業からは、日本企業の判断の遅さがよく指摘されたものです。特に、海外の出先にいると、最終決定は本社というパターンが多く、本社では長々と「会して議せず」が行われるものですから、判断はやたら遅くなります。対して、アメリカ人とのミーティングでは、職務権限に基づいて、その場で判断が成されていきますから、仕事が早いわけです。アメリカ人には判断の遅さを批判されましたが、日本企業は判断後の徹底力に優れる、などと強がりを言っていたものです。とは言え、さすがに耐えきれず、私も途中からは独断専行スタイルが多くなりました。郷に入っては郷に従え、というわけです。事後的であっても、現地の状況を十分に理解していない本社を丸め込む自信もあったからです。

企業も、会議の効率化を図るために、様々な手立てを打ちました。会議時間の制限、運営の定型化、資料の簡素化、ペーパーレス化、事前配布などが代表的な手法です。それなりの効果もあったように思いますが、伝統的な組織主義が存在する以上、抜本的な変化は期待薄でした。そんな状況のなか、「会して議せず」という風習は、なぜ生まれたのか、ということが気になりました。一言で言うなら組織主義ということなのでしょうが、その源は聖徳太子の十七条憲法の第一条「和を以て貴しと為す」だと言われています。原典は紀元前5世紀に成立した儒教の基本経典の一つ「礼記」とされます。十七条憲法は、宮中の官吏向け道徳則であり、上下関係にとらわれず話し合えという意味も込められていたようです。

儒教の影響も否定できないとは言え、官吏を対象とした十七条憲法が、国民に浸透していったとは考えにくい面があります。実は、日本の組織主義の原点は、鎌倉後期に登場した惣村にあるのではないかと思います。荘園制が崩れ、鎌倉幕府の地頭支配が進むと、農民たちは耕作地のなかに住むのではなく、集合して村を形成していきます。惣村は、水利、道路、田畑の境界線、戦乱・盗賊対策などに関して共働することで、結果、一定の自治を確保していきます。その後、農村を取り巻く環境は変わっていきますが、村は存続し、自治の伝統は一定程度引き継がれていったようです。その象徴の一つが寄合です。種々の身分制度はあったものの、住民の合議制を基本とする寄合の伝統は、農村で、そしてその影響を受けた町民の間でも昭和前期まで継続さたようです。

寄合は、随分と時間のかかる代物だったようです。というのも、議長がいて、提案があり、理詰めの議論を行い、決するといったものではなく、まずは車座がいくつか出来て、テーマに関する故事や各自の記憶や思いがダラダラと語られ、然る後に全体で同じことが繰り返され、自然とやってくる潮時までそれが続いたものだそうです。数日かかることもザラにあったようです。何やら、日本企業の会議と同じ匂いがします。ちなみに、欧州では領主制に基づく農奴制が近代に至るまで続き、農民の自治は生まれていません。もちろん、ギルドや都市には自治の歴史もあるわけですが、限定的だったと言えます。日米のビジネスの進め方の違いは、中世の農村における自治のあり方に根ざしていると言えるのではないでしょうか。(写真出典:harashobo.com)

2024年6月13日木曜日

ミニマル・ミュージック

テリー・ライリーのライブを聴いてきました。ミニマル・ミュージックの先駆者も御年88歳になります。ステージは、息子でギタリストのギャンとのデュオでした。テリー・ライリーは、2020年、佐渡島のイベント準備のために来日しますが、コロナのパンデミックが発生したため、日本に滞在することを選択します。以降、山梨県に移住し、日本での音楽活動を展開しています。私がテリー・ライリーを知ったのは50年以上前のことです。実験映画の上映会で「corridor」というタイトルの映画を見ました。カメラが様々な廊下を進むだけの映像がコマ送りで延々と映し出されます。その音楽をテリー・ライリーが担当していました。映像と音楽が完全に一体となり、印象に残る実に不思議な体験をしました。

ミニマル・ミュージックは、1960年代のアメリカで生まれています。テリー・ライリーはじめ、ラ=モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスら、現代音楽の作曲家たちが始めた音楽です。最低限の音で構成する音楽ゆえ、ミニマルと呼ばれます。単音を長く伸ばす、あるいは短いフレーズを反復することが特徴と言えます。それが、バッハ的な音楽とは全く異なる不思議な音楽体験を生み出していきます。ミニマル・ミュージックの代表作とされるテリー・ライリーの「In C」では、35人以上が望ましいとされる演奏者によって、53の短いフレーズが、各々の任意によって繰り返されます。バックでは、ピアノなどによりCの音が8分音符で繰り返され、パルスと呼ばれる基調を形作ります。

一定のフレーズとリズムがベースにありますが、即興音楽そのものと言えます。例えば、西アフリカ音楽の特徴の一つは延々と続くリフであり、その伝統はアメリカ、カリブ海、ブラジルの音楽に引き継がれています。西アフリカ系のリフには、明らかに麻薬的効果があり、ダンスと組み合わせることで、人々を恍惚状態へと導きます。その絶大な効果は、しばしば原始宗教でも活用されています。テリー・ライリーの音楽にも同じことが言えるように思います。インド音楽のマスターでもあるテリー・ライリーの音楽にはエスニックな要素も入ってきます。1960年代、カウンター・カルチャーの時代を迎え、マリファナが広まり、サイケリック・ブームが起きるなか、ミニマル・ミュージックは勢いを増していったと言えるのでしょう。

現代におけるミニマル・ミュージックの代表といえば、映画音楽の世界で大活躍するマイケル・ナイマンなのでしょう。映画音楽の世界では、ピーター・グリーナウェイやパトリス・ルコントの映画で名を成しますが、最もよく知られるのはジェーン・カンピオンの「ピアノ・レッスン」です。ミニマル・ミュージックという言葉を生んだのはナイマンだとされますが、ミニマリズムに共感しアンビエント・ミュージックという言葉を生んだのがロキシー・ミュージックで知られるブライアン・イーノです。ちなみに、ロキシーは好きなバンドの一つでした。ブライアン・フェリーの独特な歌い方がクセになります。なお、日本のミニマル・ミュージックの作曲家としては、アニメ音楽で成功した久石譲がいます。

マイケル・ナイマンは、オール・ナイト・コンサートを開きますが、その生みの親もテリー・ライリーです。アンビエント・ミュージックという言葉も示唆的ですが、ミニマル・ミュージックはリラックスした状態で楽しむ音楽だと思います。今回のライブ会場では150人くらいが丸椅子に座らされぎゅうぎゅう詰めになっていました。商売上やむを得ないのでしょうが、ミニマル・ミュージックの本質とかけ離れた会場の環境はやや残念でした。テリー・ライリーはシンセサイザーを使い、約60分間、ノンストップで演奏していました。アンコールでは、ピアニカにループなどのエフェクトをかけて演奏していました。面白い使い方です。理想的には富士山麓あたりで、オールナイト・コンサートをやってもらいたいところですが、ご年齢からすれば、まあ難しいでしょうね。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月11日火曜日

「美しき仕事」

監督:クレール・ドゥニ  原題:Beau Travail  1999年フランス

☆☆☆☆+

高く評価された映画のようですが、日本初公開とのこと。今流行りの4Kレストア版での上映です。聞きしに勝る傑作だと思いました。タイトルは、P.C.レンの「ボー・ジェスト」を踏まえて名付けられたものと考えます。ちなみに、ボー・ジェストとは、優雅だけど無意味な仕草・振舞という意味だそうです。フランス外人部隊を舞台にした「ボー・ジェスト」は何度か映画化されています。ただ、本作は、白鯨で知られるハーマン・メルヴィルの「ビリー・バッド」が原作とされています。船員ビリー・バッドは、英国軍船の水兵として強制徴用されます。若くて人気者のビリーは頭角を現わしていきますが、それを妬んだ先任衛生長によってトラブルに巻き込まれていきます。

本作では、ジブチに駐留するフランス外人部隊を舞台に、若くて人望もある新兵と彼を妬む先任曹長という構図に翻案されています。実に古典的なドラマ向きのプロットといえますが、本作に、通常の映画のような説明的展開を期待してはいけません。まるで映像による散文詩のようでもあり、あるいはミニマル映画とでも呼びたくなるような抑えた表現になっています。ところが、曹長のモノローグ中心のごく少ない台詞と自然主義的な演出、独特な画角で構成される美しい映像、映像とリンクした効果的な音楽、それらが通常のドラマ以上にドラマを生み出しています。映画はいかなる表現を可能にするか、という問いがあるとすれば、本作はその見事な回答の一つと言えます。

そのミニマリズム的な演出が、監督の仕掛けの一部であることが明らかになっていきます。ジブチの青い空や海と乾いた空気感、そして兵士たちの鍛えられた若い肉体、これらが観客に強い印象を与えます。そこにジブチの人々の生活描写が頻繁に挿入されます。実は、それこそが監督が巧妙に仕掛けたテーマへのアプローチになっています。この映画の底流として静かに流れる主題とは、搾取と差別の構図である植民地主義への批判であり、暴力装置としての軍隊への批判なのだと考えます。それが一気に爆発するのがラスト・シーンです。「美しき仕事」から除隊させられたにも関わらず、先任曹長は歓喜に満ちたダンスを踊ります。これが、すべての解題となっています。このラストこそ、最も重要なシーンだと考えます。実に独創的な仕掛けだと思います。

そういう意味で、本作は、見事な文明批判の映画だと言えると思います。邦題は「美しき仕事」となっていますが、映画のテーマを考えれば、”Beau Travail”は”良い仕事”と訳されるべきではないかと思います。もちろん、”良い仕事”とは皮肉を込めた言い方であり、ボー・ジェストの意味する無益さも下敷きにされているのだろうと思います。しかし、マーケティング上、”良い仕事”ではアピールに欠ける面があり、この邦題になっているのでしょう。それにしても、このような傑作映画が日本未公開だったことは驚きです。配給ルート上の問題があったものと想定されますが、他にもそういう名作が日本未公開となっているかと思うと、誠に残念な話です。ちなみに、本作は、”Sight & Sound”誌の評論家による”史上最高の映画”ランキングで7位に選ばれているそうです。

フランス外人部隊は、フランス人将校と外国籍の兵士で構成される正規軍です。国際法で禁止される傭兵にはあたりません。ナポレオン戦争の犠牲等によって国民兵の確保が難しくなったフランスが、1831年、アルジェリア征服戦争に際して創設しました。かつてはアルジェリアに、現在はコルシカに本拠地を置き、主に海外の戦場で戦ってきました。まさにフランスの植民地政策の先兵だったわけです。ボー・ジェストや「モロッコ」(1930)といった映画に描かれたことで有名になりました。ジャン・ジュネ、コール・ポーター、モイズ・キスリング、エルンスト・ユンガー等々、多数の著名人が在籍したことでも知られています。デラシネたちのラスト・リゾート的なところが、人々の興味をかき立ててきた存在でもありす。(写真出典:eiga.com)

2024年6月9日日曜日

人間という言葉

鳩摩羅什
「間」という漢字は、なかなか奥深いものがあると思います。なかでも、空間や時間といった時空の広がりを示す使い方と人間という言葉の関係については、昔から気になっていました。人間(じんかん)と読めば、分かる面もありますが、人そのものを指す人間(にんげん)という言葉には、広がりというニュアンスは見い出しにくく、不思議な言葉だと思っていました。人間の持つ精神面の深さを表現しているのか、とも考えましたが、どうもしっくり来ません。そもそも「間」という漢字は門に月と書かれており、門を閉めても、差し込む月の光から、隙間、ひいては間(あいだ)を意味するようになったと聞きます。なんとも風流な話です。時代が進むにつれ、月が日に省略されていったのだそうです。

ただ、語源に関しては異説もあるようです。廟門、つまり墓の門に肉を捧げる儀式から生まれ、隔たりを表したという説です。あの世とこの世を隔てる、ということなのでしょうか。隔たりとは、二つのものが異なること、あるいは異なる度合としての距離、時間、差異の程度等を表します。異なる二つの点やものがあるから、間が生まれると言えます。人間の場合も、厳密に言えば、異なる個体が複数存在すれば人間であり、一つの個体だけならば人なのだろうとも思います。とすれば、人間は、種の総称としての人類と同意と考えられます。ただ、人という言葉も、人類全体を指す場合もあります。そもそも象形文字の人は、形状的には個体で表されますが、当初から種の総体をも指していたのでしょう。

後に、個体と種の総称を区分する必要が生まれ、人間という言葉が誕生したのかも知れないと考えましたが、そうでもないようです。古代中国で人間という言葉が初めて登場するのは、鳩摩羅什が中国語に翻訳した仏典だったようです。鳩摩羅什は、4世紀、亀茲国、現在の新疆ウイグル自治区に生まれた西域僧であり、初めて仏典を中国語に翻訳した人とされます。翻訳された仏典のなかで、鳩摩羅什は、天上界との対比において人の世や世間、あるいは現世を表すサンスクリット語を、人間と翻訳します。6世紀、日本に仏教が伝来した際、人間という言葉も、そのままの意味で入ってきたようです。平安時代の文学においても、同じ意味での使い方がされているようです。

織田信長が愛したという幸若舞「敦盛」では、人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり、と歌われます。下天は、仏教上、天上界の最下位に位置します。ただ、最下位であっても一昼夜が人の世の五十年に相当するとされます。幸若舞で言う人間五十年とは、人の寿命ではなく、人の世の五十年と下天の一昼夜を比較しているわけです。戦国時代までは、本来的な意味で人間という言葉が使われていたことになります。それが変質したのは、江戸期以降ということになります。どこでその変質が起こったのか、調べてみましたが、よく分かりませんでした。想像するに、江戸期、大衆向けの文学や芝居が隆盛していくなかで、人間という言葉の厳密さも失われていったということなのでしょう。

ちなみに、中国では、現在も、人間という言葉は、鳩摩羅什以来の意味を保っているようです。種の総称には人類が使われ、人という言葉はかなり幅広く多様に使われているようです。話をはじめに戻すと、人間を人の世と考えれば、空間・時間と同様、広がりを示す言葉として納得できます。ただ、別な疑問も沸いてきます。鳩摩羅什が仏典を中国語に訳す以前、中国には人の世や現世に相当する言葉は無かったのでしょうか。中国で甲骨文字が登場するのは、鳩摩羅什からさかのぼること約1,600年前のことです。人の世に相当する言葉も存在していたとしか思えません。似たような言葉があったとしても、サンスクリット語のニュアンス、あるいは仏典の理論上、ピッタリではなかったということなのでしょうか。どうも、人間という言葉はいろいろ気になる存在です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月7日金曜日

「マッドマックス:フュリオサ」

監督:ジョージ・ミラー    2024年オーストラリア・アメリカ 

☆☆☆

本作は、大ヒットした前作「マッドマックス怒りのデス・ロード」(2015)に登場したフュリオサ大隊長の前日譚となっています。誘拐された少女が大隊長になるまでの経緯が描かれたスピン・オフであり、原題も「Furiosa: A Mad Max Saga」となっています。監督は、マッドマックスの生みの親でもあるジョージ・ミラーです。マッドマックスが登場したのは1979年、ジョージ・ミラー34歳の長編デビュー作です。ディストピア、スティーム・パンク、モンスター・カー、砂漠といった世界観もさることながら、強烈なカー・アクションと疾走感が、低予算のB級映画ながら世界中を熱狂させました。当時、オーストラリア映画はまだ珍しく、ハリウッドとは異なるテイストもウケたのでしょう。メル・ギブソンの出世作でもあります。

オーストラリアの映画界は、永らく輸入されたアメリカ映画だけで成り立っていたようです。1970年代、オーストラリア政府は、自国映画を増やす政策を取り始めます。政府の後押しもあって、マッドマックスやクロコダイル・ダンディーといった世界的ヒット作が生まれ、多くの監督や俳優が国際的活躍をしていくことになりました。俳優では、メル・ギブソンはじめ、ラッセル・クロウ、ニコール・キッドマン、ケイト・ブランシェット等アカデミー俳優が名を連ねています。しかし、オーストラリアの映画人は、ハリウッドで活躍することが多く、彼らの国際的名声の高まりと反比例して、オーストラリア映画は少なくなったように思います。今やマッドマックスは、貴重なオーストラリア映画かも知れません。

さて、フュリオサですが、残念ながら、イマイチな映画になりました。オーストラリア映画史上最高額となる予算を投入したという映像は見事な出来だと思います。従来のひたすら走って戦う映画からドラマ性を高めた脚本も意欲的だと思います。フュリオサと悪役ディメンタスという対立構図の置き方もうまいと思います。本作で最も印象的なのは、ディメンタス役のクリス・ヘムズワースの演技だと思います。マーベルのマイティ・ソー役で大人気のクリス・ヘムズワースですが、見事な存在感を示し、映画の背骨を形作っています。しかし、全体的に言えば、ジョーゼフ・キャンベルの比較神話論的な世界観を、今さらシリーズに追加するという試みには無理があったように思います。

マッドマックスの直線的で暴力的な世界と神話性が相容れないということではありません。第一作からそういう作り方をしていたとすれば、成立したのかも知れません。ただ、キッチリ出来上がっているマッドマックスの枠組みを活用しながら、新たな世界を接ぎ木し、変質させていくことには無理があるということです。もちろん、ジョージ・ミラーは、その点も十分に心得て、制作してると思われます。マッドマックスらしさが全編に散りばめられ、スムーズな変質が行われているあたりは監督の腕の良さを感じさせます。ただ、結果としては、マッドマックスと別の映画を同時に見せられているような印象を受けました。マッドマックスのイメージが強いからこそスピン・オフが作られ、同時に、それが仇にもなっているわけです。それほど、マッドマックスは20世紀の大発明だったとも言えます。

本作の総製作費は、日本円で350億近いと聞きます。ニューサウスウェールズ州政府からの補助が相当額含まれているようです。一方、現状での興業収入は、半分にも満たない、いわゆる大コケ状態のようです。その理由としては、観客が男性や固定的なファンに限定されているためとされているようです。それも妙な話だと思います。前作「マッドマックス怒りのデス・ロード」は500億近い収入をあげていますが、観客がファミリー層中心だったとは思えないからです。いずれにしても、しばらくシリーズの新作を観ることはできないかもしれません。(写真出典:warnerbros.co.jp)

2024年6月5日水曜日

女真

ヌルハチ
平安時代後期の1019年、中国東北部の女真族3千人が、朝鮮半島沿いに来航し、九州北部を襲います。刀伊(とい)の入寇です。女真は武士たちに撃退されますが、365名が殺害され、1,289名が拉致されます。拉致された人々のうち数百名は、高麗が解放し、日本へ送り届けています。摂関政治期の平安京にとって、刀伊の入寇は一大国際事案だったようですが、それによって歴史が大きく動いたわけでもなく、教科書等で取り上げられることもありません。ただ、当時の東アジア情勢と日本との関係、あるいは環日本海経済圏の状況がうかがえる事件だと思います。なお、刀伊とは、高麗の言葉で東の蛮族を表す”東夷(トイ)”に日本の漢字を当てた言葉のようです。

女真族は、中国東北部に興ったツングース系民族です。ツングース系は、狩猟生活を送りながら、早くから農耕・牧畜も取り入れていました。3世紀に貊族は高句麗を建てます。7世紀末には靺鞨族が興した渤海が唐の冊封も受けて「海東の盛国」と呼ばれるほど繁栄します。航海術に優れた渤海は、日本とも緊密な外交・交易を行っていました。しかし、10世紀になると、モンゴル系の契丹に滅ぼされます。渤海に服属しながらも独立性の高かった黒水靺鞨族は、モンゴル系から女真と呼ばれるようになります。12世紀、契丹が建てた遼の東部における支配が緩むと、松花江中流域の女真族は金を建国します。刀伊の入寇は、その百年ほど前のことですが、渤海が日本と頻繁に行き来していたことから、手慣れた航海だったのでしょう。

女真族の金は、宋と協力してモンゴル系の遼を駆逐していきます。しかし、宋が幾度も協定違反を犯したため、北宋に攻め込みます。北宋を破った金は、その支配を華北まで広げ、中国の半分を支配する大国になります。しかし、建国からわずか120年で、金はチンギス・ハンが興したモンゴル帝国に打ち負かされます。その原因の一つとされるのが、漢民族の文化に染まった女真族の弱体化だとされます。興味深い話です。元朝を興したモンゴル帝国も、後に同じ理由で明朝に滅ぼされています。いずれにしても、女真族は、その後永らく、モンゴル系の元朝、および漢民族の明朝に隷属することになります。明朝の巧みな操作で内紛を続けていた女真は、17世紀初頭、愛新覚羅氏のヌルハチによって統一され、後金が建国されます。

ヌルハチは、自らの民族を満州族、その支配地を満州国と呼びます。17世紀中期になると、明朝は、李自成の乱によって滅び、南下した満州族が中国全土を制圧し、清朝を建国します。19世紀、列強の侵食をゆるした清朝は、アヘン戦争や日清戦争等で領土を失い、あるいは半植民地化されていきます。1911年、清朝は孫文率いる辛亥革命によって滅びています。考えてみると、大陸から日本本土を直接攻撃してきたのは、刀伊の入寇のツングース、元寇のモンゴルと、アルタイ語族系だけです。漢民族とは、白村江の戦いから日中戦争まで、幾度か戦っていますが、本土を攻められたことはありません。中華思想を持つ漢民族からすれば東の島など取るに足らない存在であり、ツングースやモンゴルにとってみれば日本海は内海だったということなのでしょう。

ちなみに、渤海が平城京へ使節を送ってきたのは、727年のことです。以降、渤海使、遣渤海使が交わされています。今一つピンとこないのは、なぜ渤海が日本との交流を求めたのか、ということです。渤海は、唐や新羅との関係を考慮し、抑止力としての日本を重視したと言われます。白村江で唐・新羅連合軍に大敗した日本は、国防強化に取り組みつつも、遣唐使を送り、微妙な関係とは言え新羅との交流も行っています。どうも抑止力としての実効性は薄いようにしか思えません。ただ、交易は順調に行われていたようです。航海ルートは、大雑把に言えば、朝鮮半島東岸を南下し九州に至るルート、日本海を渡り日本海側の各地へ来航するルートがあったようです。733年に設置された秋田城址にも渤海人が来航していたことが、考古学的に証明されています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月3日月曜日

カレーうどん

世の中には、主役にはならないものの、欠くべからざる名脇役といった風情の食べ物が多くあります。カレーうどんも、その一つかも知れません。蕎麦屋の種物メニューの一つですが、天ぷらのはるか後方に控えます。カレーうどんがメインのメニューになっているとすれば、巣鴨の古奈屋か一部の専門店くらいのものでしょう。頻繁に食べるわけではないのですが、メニューになければ、とても寂しいと思います。脇役と言いながら、天ぷらなど種を乗せただけの単純な代物ではありません。まずは出汁に合うカレーを作らなければなりません。そして、それがめんつゆとうどんと三位一体を成してハーモニーを醸し出すようでなければ、うまいカレーうどんにはなりません。 

カレーうどん発祥の店としては、早稲田の三朝庵、中目黒の朝松庵が知られています。明治末期のことですが、その開発経緯が興味深いと思います。カレーは、明治維新とともに、英国から伝えられた料理です。ご飯との相性が良かったこと、軍隊がメニューとして採用したことから急速に一般化したようです。退役した軍人たちが全国に広め、コロッケ、カツレツとともに、三大洋食と言われるまでになります。舶来レシピを日本風にアレンジして普及した料理は多く、カレーもその一つですが、カレーうどんは多少異なる経緯を持ちます。カレー人気に押されて、客足が減った蕎麦屋が、起死回生をかけて考案したのがカレー南蛮でした。ある意味、プライドを棄て、カレー・ブームに乗っかることにしたわけです。

当初、業界ではゲテモノ扱いされ、なかなか普及しなかったようです。江戸期から外食産業の頂点に立っていた蕎麦屋としては、プライドもあり、舶来物のカレーは仇そのものだったのでしょう。ところが、両店が評判を取ったことから大正期には一般化していきます。カレーのアレンジ料理は数多くありますが、カレー南蛮がその始まりとされています。カレー南蛮が成功した大きな要因は、めんつゆをベースに和風のカレー種を作ったことにあるのでしょう。カレー南蛮という品名も良かったと思います。鴨南蛮で馴染みがあったからです。南蛮とは長ネギのことです。中国から伝わった長ネギは、大阪の難波一帯で栽培され、後に全国に広がったようです。長ネギ発祥の地で名産地の難波が南蛮に変じたとされています。

明治末期、カレーうどんが生まれた頃、めんつゆベースのカレーにあうカレー粉の開発も始まっています。四谷の田中屋は、三朝庵と協力して「地球印軽便カレー粉」を開発します。田中屋のカレー粉は、現在も杉本商店が受け継ぎ、業務用として販売されています。伝統的なカレーうどんの世界に新風を吹き込んだのが、巣鴨の古奈屋だと思います。1980年代のことです。ミルクをたっぷり入れたクリーミーなカレーうどんは衝撃的でした。以降、進化系やご当地系のカレーうどんが、続々と名乗りを挙げていくことになります。2000年代に入り讃岐うどんが大ブームになると、刺激を受けたカレーうどんも一段と活気づき、専門店も登場します。ライバルのカレーを取り込んで成立したカレーうどんは、今やライバル同様立派な日本の味になっています。

いわゆる名古屋メシの一つに名古屋カレーうどんがあります。若鯱家発祥のカレーうどんは、ドロッとしたカレーそのものをうどんにかけたような風情です。チキン・スープで作ったカレーに鰹出汁を加えた、いわばダブル・スープであり、よりカレーに近いと言えます。コシの強い太麺がよく合います。尾張のカレーうどんに対抗するように登場したのが三河の豊橋カレーうどんです。丼の底にご飯を入れ、それを覆うようにととろがかけられています。食べ終わったカレーうどんにご飯を入れる人がたまにいます。豊橋カレーうどんは、デフォルトでそれを提供しているわけです。とろろは、ご飯が浮かないように使っているようです。いずれにしても、味にはほとんど影響がない新作と言えます。(写真出典:housefoods.jp)

2024年6月1日土曜日

風林火山

NYでよく一緒に仕事をしたアメリカ人が、30年ほど前、初めて来日しました。サムライに興味があるというので、泉岳寺に連れて行くと、”47 Ronin”の話は聞いた記憶があるが、事実だったとは知らなかった、と興奮していました。また、ちょうど春先のことだったので、甲府の信玄公祭りへ案内しました。信玄公祭りは、武田二十四将の出陣を再現した武者行列であり、出陣する武者の数は1,600人を超え、世界最大級とされています。そのアメリカ人は、出陣を命じる信玄公の掛け声を真似するなど大興奮でした。戦国の世にあって、最強の呼び声が高かった武田信玄の軍勢は、今も高い人気を誇っています。

武田信玄の代名詞とも言える”風林火山”は、旗指物に書かれていたという「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」を略したものです。孫子の兵法の一節であり、疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、と戦場における軍団の臨機応変な動きを表わすとされます。最強軍団に相応しい旗印のように思えます。しかし、その戦国最強軍団を率いる信玄が、なぜ天下をとれなかったのか、という話は人気があります。物理的には、天下をとる前に死んだ、ということになります。1572年、信玄は兵を西に向けます。いわゆる西上作戦です。まずは、甲斐の南に位置する三河の徳川を攻略し、勢力を急拡大する風雲児織田信長との戦いへと駒を進めます。

恵那の岩村城まで進出しますが、信玄の体況が悪化し、一旦、兵を甲斐へ戻します。しかし、信玄は、その途上で53歳の生涯を閉じています。信玄は、4次に渡る上杉謙信との川中島の戦いも含め、生涯の多くを信濃攻略に費やしています。西上作戦の目的に関しては諸説あるものの、上洛を目指していたとすれば、信濃にこだわり過ぎて、タイミングを失した感があります。武田家は、甲斐源氏の宗家として古い歴史を持ちます。源頼朝の御家人、室町幕府の守護大名として甲斐国を治めてきました。甲斐の守護という家職が、信玄を天下取りという発想から遠ざけていた面があるのでしょう。武田軍の強さは、信濃攻略という悲願や謙信という強力なライバルの存在によるところが大きいと思いますが、それはあくまでも戦術レベルに留まる話です。

一方、信長は、斉藤氏から稲葉山城(後の岐阜城)を攻め取る前年の1566年には「天下布武」を掲げています。天下布武とは、全国制覇ではなく室町幕府再興だったとも、武力ではなく為政者の徳をもって天下を治めるという意味だったも言われます。いずれにしても信長の目線は天下にあったわけです。信長の強さは、天下布武に向けた合目的な判断や人材登用にあります。信玄と信長の違いは、その目標感にあったと言ってもいいのでしょう。高い目標には、組織を強化し、勢いをつけるという傾向があります。逆も真なりです。信玄の後を継いだ勝頼は長篠の戦いで信長に敗れ、その後を継いだ信勝は天目山の戦いで信長に滅ぼされ、9カ国を支配した武田家は滅亡します。組織が共有すべき目標の重要性を物語る歴史のように思えます。

「風林火山」は類い希なる軍人としての信玄をよく表し、「天下布武」は希代の政治家としての信長を象徴しています。戦術家と戦略家の違いとも言えます。実は、孫子の原典における風林火山には「難知如陰 動如雷霆 掠郷分衆 廓地分利 懸權而動」という言葉が続きます。要するに、戦略論ではなく、あくまでも戦術的な用兵論だと言えます。余談になりますが、甲州には、信玄にちなむ名産品や名所が数多く残ります。信玄が戦傷を癒やしたという温泉、信玄が糧食としたというほうとう、凍み豆腐、信玄餅、他には信玄袋という巾着の進化版もよく知られています。一方の信長に関しては、ゆかりの名産品等あまり知られていません。甲州に根を張っていた信玄と、領土を広げて京へ上った信長の違いと言えば、それまでですが、なかなか面白い現象だと思います。(写真出典:clubt.com)

マクア渓谷