アメリカ企業からは、日本企業の判断の遅さがよく指摘されたものです。特に、海外の出先にいると、最終決定は本社というパターンが多く、本社では長々と「会して議せず」が行われるものですから、判断はやたら遅くなります。対して、アメリカ人とのミーティングでは、職務権限に基づいて、その場で判断が成されていきますから、仕事が早いわけです。アメリカ人には判断の遅さを批判されましたが、日本企業は判断後の徹底力に優れる、などと強がりを言っていたものです。とは言え、さすがに耐えきれず、私も途中からは独断専行スタイルが多くなりました。郷に入っては郷に従え、というわけです。事後的であっても、現地の状況を十分に理解していない本社を丸め込む自信もあったからです。
企業も、会議の効率化を図るために、様々な手立てを打ちました。会議時間の制限、運営の定型化、資料の簡素化、ペーパーレス化、事前配布などが代表的な手法です。それなりの効果もあったように思いますが、伝統的な組織主義が存在する以上、抜本的な変化は期待薄でした。そんな状況のなか、「会して議せず」という風習は、なぜ生まれたのか、ということが気になりました。一言で言うなら組織主義ということなのでしょうが、その源は聖徳太子の十七条憲法の第一条「和を以て貴しと為す」だと言われています。原典は紀元前5世紀に成立した儒教の基本経典の一つ「礼記」とされます。十七条憲法は、宮中の官吏向け道徳則であり、上下関係にとらわれず話し合えという意味も込められていたようです。
儒教の影響も否定できないとは言え、官吏を対象とした十七条憲法が、国民に浸透していったとは考えにくい面があります。実は、日本の組織主義の原点は、鎌倉後期に登場した惣村にあるのではないかと思います。荘園制が崩れ、鎌倉幕府の地頭支配が進むと、農民たちは耕作地のなかに住むのではなく、集合して村を形成していきます。惣村は、水利、道路、田畑の境界線、戦乱・盗賊対策などに関して共働することで、結果、一定の自治を確保していきます。その後、農村を取り巻く環境は変わっていきますが、村は存続し、自治の伝統は一定程度引き継がれていったようです。その象徴の一つが寄合です。種々の身分制度はあったものの、住民の合議制を基本とする寄合の伝統は、農村で、そしてその影響を受けた町民の間でも昭和前期まで継続さたようです。
寄合は、随分と時間のかかる代物だったようです。というのも、議長がいて、提案があり、理詰めの議論を行い、決するといったものではなく、まずは車座がいくつか出来て、テーマに関する故事や各自の記憶や思いがダラダラと語られ、然る後に全体で同じことが繰り返され、自然とやってくる潮時までそれが続いたものだそうです。数日かかることもザラにあったようです。何やら、日本企業の会議と同じ匂いがします。ちなみに、欧州では領主制に基づく農奴制が近代に至るまで続き、農民の自治は生まれていません。もちろん、ギルドや都市には自治の歴史もあるわけですが、限定的だったと言えます。日米のビジネスの進め方の違いは、中世の農村における自治のあり方に根ざしていると言えるのではないでしょうか。(写真出典:harashobo.com)