2024年6月1日土曜日

風林火山

NYでよく一緒に仕事をしたアメリカ人が、30年ほど前、初めて来日しました。サムライに興味があるというので、泉岳寺に連れて行くと、”47 Ronin”の話は聞いた記憶があるが、事実だったとは知らなかった、と興奮していました。また、ちょうど春先のことだったので、甲府の信玄公祭りへ案内しました。信玄公祭りは、武田二十四将の出陣を再現した武者行列であり、出陣する武者の数は1,600人を超え、世界最大級とされています。そのアメリカ人は、出陣を命じる信玄公の掛け声を真似するなど大興奮でした。戦国の世にあって、最強の呼び声が高かった武田信玄の軍勢は、今も高い人気を誇っています。

武田信玄の代名詞とも言える”風林火山”は、旗指物に書かれていたという「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」を略したものです。孫子の兵法の一節であり、疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、と戦場における軍団の臨機応変な動きを表わすとされます。最強軍団に相応しい旗印のように思えます。しかし、その戦国最強軍団を率いる信玄が、なぜ天下をとれなかったのか、という話は人気があります。物理的には、天下をとる前に死んだ、ということになります。1572年、信玄は兵を西に向けます。いわゆる西上作戦です。まずは、甲斐の南に位置する三河の徳川を攻略し、勢力を急拡大する風雲児織田信長との戦いへと駒を進めます。

恵那の岩村城まで進出しますが、信玄の体況が悪化し、一旦、兵を甲斐へ戻します。しかし、信玄は、その途上で53歳の生涯を閉じています。信玄は、4次に渡る上杉謙信との川中島の戦いも含め、生涯の多くを信濃攻略に費やしています。西上作戦の目的に関しては諸説あるものの、上洛を目指していたとすれば、信濃にこだわり過ぎて、タイミングを失した感があります。武田家は、甲斐源氏の宗家として古い歴史を持ちます。源頼朝の御家人、室町幕府の守護大名として甲斐国を治めてきました。甲斐の守護という家職が、信玄を天下取りという発想から遠ざけていた面があるのでしょう。武田軍の強さは、信濃攻略という悲願や謙信という強力なライバルの存在によるところが大きいと思いますが、それはあくまでも戦術レベルに留まる話です。

一方、信長は、斉藤氏から稲葉山城(後の岐阜城)を攻め取る前年の1566年には「天下布武」を掲げています。天下布武とは、全国制覇ではなく室町幕府再興だったとも、武力ではなく為政者の徳をもって天下を治めるという意味だったも言われます。いずれにしても信長の目線は天下にあったわけです。信長の強さは、天下布武に向けた合目的な判断や人材登用にあります。信玄と信長の違いは、その目標感にあったと言ってもいいのでしょう。高い目標には、組織を強化し、勢いをつけるという傾向があります。逆も真なりです。信玄の後を継いだ勝頼は長篠の戦いで信長に敗れ、その後を継いだ信勝は天目山の戦いで信長に滅ぼされ、9カ国を支配した武田家は滅亡します。組織が共有すべき目標の重要性を物語る歴史のように思えます。

「風林火山」は類い希なる軍人としての信玄をよく表し、「天下布武」は希代の政治家としての信長を象徴しています。戦術家と戦略家の違いとも言えます。実は、孫子の原典における風林火山には「難知如陰 動如雷霆 掠郷分衆 廓地分利 懸權而動」という言葉が続きます。要するに、戦略論ではなく、あくまでも戦術的な用兵論だと言えます。余談になりますが、甲州には、信玄にちなむ名産品や名所が数多く残ります。信玄が戦傷を癒やしたという温泉、信玄が糧食としたというほうとう、凍み豆腐、信玄餅、他には信玄袋という巾着の進化版もよく知られています。一方の信長に関しては、ゆかりの名産品等あまり知られていません。甲州に根を張っていた信玄と、領土を広げて京へ上った信長の違いと言えば、それまでですが、なかなか面白い現象だと思います。(写真出典:clubt.com)

マクア渓谷