2024年5月30日木曜日

「関心領域」

監督:ジョナサン・グレイザー 原題:The Zone of Interest 2023年米・英・ポーランド

☆☆☆+

カンヌでグランプリ、アカデミー賞では国際長編映画賞を獲得するなど、すこぶる評価の高い映画です。マーティン・エイミスの2014年の小説の翻案です。アウシュヴィッツ強制収容所に隣接する官舎に住む収容所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスとその家族の日々が描かれています。官舎は、邸宅レベルの大きさで、プール付の広い庭も備えています。複数の使用人を使う贅沢な生活が送られています。しかし、塀の向こうでは、日々、数千人のユダヤ人がガス室へ送られていたわけです。ちなみに、ヘスは、ナチス副総統のルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは別人です。ナチス親衛隊将校として、当初から収容所運営に関わった実務家であり、戦後、絞首刑に処されています。

この映画の最も大きな特徴は、塀の向こう側、つまりアウシュビッツ強制収容所内で行われていたことが、一切、描写されていないことです。ただ、塀のなかからは、遠く叫び声や銃声がひっきりなしに聞こえてきます。極めて斬新なアプローチであり、ホロコーストの恐ろしさが、ヘス家の日常との対比において、一層、際立つ表現になっています。そのような表現上、音響はとても大切な要素となるわけですが、主役級と言っていいほど見事な仕事をしています。不気味さを醸し出す音楽も印象に残りました。しかし、その音楽と幾度か挿入されるモノトーンの画面に、本作の弱さもある、と思いました。淡々と映し出されるヘス家の日常だけで押し通すというアプローチに、監督は、多少の不安も持っていたということなのでしょう。

ありふれた日常、ありふれた役所仕事、その描写にホロコーストの狂気を織り込んでいくという展開を徹底すべきだったように思います。もし、それが出来ていれば、映画史に残る大傑作になっていたのではないかとも思います。日常のスケッチが見事な出来だけに残念です。つまり、本作のウィーク・ポイントは脚本にあるということになります。脚本も監督自身が手がけていますが、多少、力不足だったように思います。いずれにしても、日常の描写を通じて狂気を描くという大胆なアプローチは称賛に値します。それを可能にした背景の一つは、配給会社がA24だったことだと思います。ある意味、A24らしい映画だとも言えます。キャストでは、サンドラ・ヒュラーが、”落下の解剖学”同様、存在感を示しています。    

映画を見て、思い出されるのは、1961年のアドルフ・アイヒマン裁判です。アドルフ・アイヒマンは、輸送部門においてホロコーストに深く関わり、戦後は南米で逃亡生活を送った親衛隊将校です。モサドに捕まったアイヒマンは、極悪非道な人物には見えず、小役人といった風情でした。裁判において、アイヒマンは、自分は命令に従っただけである、と官僚言葉を巧みに駆使して無罪を主張します。ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」という言葉でアイヒマンを評します。それは、アイヒマンが小役人であると言っているのではなく、判断停止の状態こそが悪を助長するのだという主張でした。アイヒマンとまったく同様に、能吏ヘスとその妻も、まさに判断停止の状態を示しています。

ホロコーストの現場の隣で、草花を育て、贅沢に暮らすヘスの妻は、”快適”な生活を棄てきれず、夫の転勤への同道を拒否します。戦争が終わったら農業をしようと提案する妻の言葉が印象に残りました。全体主義の恐ろしさは、人々に味方か敵かという選択肢しか与えないことです。多くの人々は、生きるために体制の味方であることを選択します。ナチス親衛隊はエリート集団です。エリートの意味するところは、組織に盲目的に従うことに他なりません。彼らは、ホロコーストに慣れていったのではなく、善悪の判断を自ら停止していたわけです。ユダヤ人虐殺が始まった頃、その実行を命じられた非エリートの突撃隊兵士たちは病んでいったと聞きます。それが人間としての当たり前の感性です。(写真出典:a24films.com)

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