2024年5月28日火曜日

モアイ

日本各地には、結構な数のモアイ像が立っています。渋谷のモアイは、待合せスポットとして有名です。宮崎の日南海岸には、チリ政府公認のもとに完全復元したという7体のモアイが立っています。他にも、新島、札幌、香川、福岡等々にもあるようです。中でも特筆すべきは宮城県・南三陸町のチリ政府から寄贈されたモアイです。南三陸の旧志津川町は、同じチリ地震津波の被災地としてチリとの交流があり、1991年には、チリからモアイのレプリカが贈られていました。町のシンボルにもなっていたモアイですが、東日本大震災で津波に流されます。震災後に当地を訪れたチリ大統領は、新たにイースター島の石で作ったモアイを寄贈することを約束しました。

それにしても、なぜ日本に多くのモアイが存在するのか不思議な話です。チリ地震津波で大きな被害を受けたイースター島のモアイ修復に、日本が深く関わったことが縁となり、日本各地にモアイが作られたという説があります。モアイ修復は、TBSの「世界ふしぎ発見」における黒柳徹子の発言から始まったといいます。奈良文化財研究所、高松の建機メーカー「タダノ」等が立ち上がり、古墳修復等に実績のあった奈良県の石工が現地に赴き、修復を指導したようです。それは1992年のことでした。しかし、渋谷のモアイ等は、それ以前から存在しています。実は、渋谷のモアイは、正しくはモアイではなく「モヤイ」です。単なるカタカナ表記のブレなどではありません。

渋谷のモヤイ像は、1980年、新島の東京都移管100周年を記念し、新島から渋谷区へ寄贈されたものです。新島には、こことイタリアのリパリ島にしかないコーガ石という珍しい石があります。加工しやすく、軽量で耐火性・耐酸性にも優れると聞きます。新島は、1960年代中頃から、名産コーガ石を用いて「流人のオンジイ」と呼ばれるモアイを作り始めます。オンジイとは、流人のなかでも尊敬される人の呼び方だったようです。後に島の人々は、モアイと島の言葉で結を表す”もやい”をかけて「モヤイ」と名付けます。島には多数のモヤイがあり、かつ1970年以降、多くの市町村にモヤイを寄贈してきと言います。渋谷のモヤイも、その一つだったわけです。どうも日本各地のモアイは、新島のモヤイだったようです。

かつてモアイと言えば、何故作られ、どうやって運んだのか、ということが話題の中心でした。現在では、木製のトーテムポールを作る文化を持つポリネシア人がイースター島に渡り、先祖を祀り、村を守ってもらうために作ったという説が有力とされます。樹木の少ないイースター島では石を刻むしかなかったわけです。またモアイを石切場から移動する方法としては、立てた石像の頭部にロープをかけて、前後に揺らすことで徐々に移動させていたようです。近年、モアイを巡る謎の中心は、なぜ作るのを止めたのか、ということに移っているようです。石切場には切り出す途中のモアイがあり、移動中のモアイも数多く残っています。まさに、ある日、突然、モアイ作りは止まったということです。

その理由には、諸説あるようですが、大きくは二つの説に分かれます。一つは、人口増加とともに自然破壊が進んだイースター島では、残った耕地を巡って部族間の争いが起き、島は壊滅状態になったという説です。ジャレド・ダイアモンド等が主張する説であり、まさに地球の現状をイースター島が象徴しているとされます。しかし、争いの痕跡や武器が発掘されていないことから批判も多く、今一つの外部要因説が唱えられています。18世紀、欧州人が島に到達し、島は奴隷狩りの場となって極端な人口減少をきたしたという説です。多くの記録から奴隷狩りは実際に行われたことが確認されています。恐らく、これが、モアイ作りが突然終わった理由なのでしょう。いずれにしても、モアイは、人間の愚行を静かに語っているということなのでしょう。(写真出典:en.wikipedia,org)

マクア渓谷