2024年6月5日水曜日

女真

ヌルハチ
平安時代後期の1019年、中国東北部の女真族3千人が、朝鮮半島沿いに来航し、九州北部を襲います。刀伊(とい)の入寇です。女真は武士たちに撃退されますが、365名が殺害され、1,289名が拉致されます。拉致された人々のうち数百名は、高麗が解放し、日本へ送り届けています。摂関政治期の平安京にとって、刀伊の入寇は一大国際事案だったようですが、それによって歴史が大きく動いたわけでもなく、教科書等で取り上げられることもありません。ただ、当時の東アジア情勢と日本との関係、あるいは環日本海経済圏の状況がうかがえる事件だと思います。なお、刀伊とは、高麗の言葉で東の蛮族を表す”東夷(トイ)”に日本の漢字を当てた言葉のようです。

女真族は、中国東北部に興ったツングース系民族です。ツングース系は、狩猟生活を送りながら、早くから農耕・牧畜も取り入れていました。3世紀に貊族は高句麗を建てます。7世紀末には靺鞨族が興した渤海が唐の冊封も受けて「海東の盛国」と呼ばれるほど繁栄します。航海術に優れた渤海は、日本とも緊密な外交・交易を行っていました。しかし、10世紀になると、モンゴル系の契丹に滅ぼされます。渤海に服属しながらも独立性の高かった黒水靺鞨族は、モンゴル系から女真と呼ばれるようになります。12世紀、契丹が建てた遼の東部における支配が緩むと、松花江中流域の女真族は金を建国します。刀伊の入寇は、その百年ほど前のことですが、渤海が日本と頻繁に行き来していたことから、手慣れた航海だったのでしょう。

女真族の金は、宋と協力してモンゴル系の遼を駆逐していきます。しかし、宋が幾度も協定違反を犯したため、北宋に攻め込みます。北宋を破った金は、その支配を華北まで広げ、中国の半分を支配する大国になります。しかし、建国からわずか120年で、金はチンギス・ハンが興したモンゴル帝国に打ち負かされます。その原因の一つとされるのが、漢民族の文化に染まった女真族の弱体化だとされます。興味深い話です。元朝を興したモンゴル帝国も、後に同じ理由で明朝に滅ぼされています。いずれにしても、女真族は、その後永らく、モンゴル系の元朝、および漢民族の明朝に隷属することになります。明朝の巧みな操作で内紛を続けていた女真は、17世紀初頭、愛新覚羅氏のヌルハチによって統一され、後金が建国されます。

ヌルハチは、自らの民族を満州族、その支配地を満州国と呼びます。17世紀中期になると、明朝は、李自成の乱によって滅び、南下した満州族が中国全土を制圧し、清朝を建国します。19世紀、列強の侵食をゆるした清朝は、アヘン戦争や日清戦争等で領土を失い、あるいは半植民地化されていきます。1911年、清朝は孫文率いる辛亥革命によって滅びています。考えてみると、大陸から日本本土を直接攻撃してきたのは、刀伊の入寇のツングース、元寇のモンゴルと、アルタイ語族系だけです。漢民族とは、白村江の戦いから日中戦争まで、幾度か戦っていますが、本土を攻められたことはありません。中華思想を持つ漢民族からすれば東の島など取るに足らない存在であり、ツングースやモンゴルにとってみれば日本海は内海だったということなのでしょう。

ちなみに、渤海が平城京へ使節を送ってきたのは、727年のことです。以降、渤海使、遣渤海使が交わされています。今一つピンとこないのは、なぜ渤海が日本との交流を求めたのか、ということです。渤海は、唐や新羅との関係を考慮し、抑止力としての日本を重視したと言われます。白村江で唐・新羅連合軍に大敗した日本は、国防強化に取り組みつつも、遣唐使を送り、微妙な関係とは言え新羅との交流も行っています。どうも抑止力としての実効性は薄いようにしか思えません。ただ、交易は順調に行われていたようです。航海ルートは、大雑把に言えば、朝鮮半島東岸を南下し九州に至るルート、日本海を渡り日本海側の各地へ来航するルートがあったようです。733年に設置された秋田城址にも渤海人が来航していたことが、考古学的に証明されています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷