2024年6月27日木曜日

曽呂利新左衛門

御伽衆(おとぎしゅう)とは、大名等の側に仕え、退屈を紛らわせるために、雑談に付き合う、あるいは種々の話を聞かせる役でした。室町の頃から江戸初期まで続いたようです。戦乱が続き、権謀術数が渦巻く時代にあって、大名たちは気が休まることがなかったはずです。妻子や侍女、側近たちも多くいたわけですが、常に生死をかけた判断が求められる重責に、否が応でも孤独感は増したものと思われます。そんななか、大名個人の思いや話に付き合ってくれる人間は貴重な存在だったのでしょう。豊臣秀吉に至っては、御伽衆を800人抱えていたと言われます。隠居した大名、文化人も多く含まれていたようです。もっとも、秀吉にとって御伽衆は、出自の卑しさをカバーする箔付けの意味合いが大きかったものと思います。

秀吉の御伽衆のなかで良く知られている一人が、後に笑話集「醒睡笑」を著わし、落語の祖とも言われる茶人の安楽庵策伝です。一方、秀吉の御伽衆のなかには、落語家の祖と言われる人物もいます。とんちの利いた話で秀吉を楽しませたという曽呂利新左衛門です。本名は杉本新左衛門。もともとは堺の鞘師だったようです。腕の立つ職人であり、その鞘には刀がソロリと収まったので、曽呂利新左衛門と呼ばれるようになったといいます。とんちが利くと評判をとった新左衛門は、秀吉に召し抱えられます。新左衛門は、猿顔を嘆く秀吉に「猿の方が殿を慕って似せたのです」と言って笑わせたという話が残ります。これだけなら、落語家の祖というよりも幇間(たいこもち)の祖というべきだろうと思います。

曽呂利新左衛門の知恵者ぶりを伝える話も残っています。あるとき、褒美を賜ることになった新左衛門に、秀吉は何が欲しいか尋ねます。新左衛門は「この広間の畳に端の方から一畳目は米一粒、二畳目は二倍の二粒、三畳目はその倍の四粒、次は八粒というように二倍二倍と米を置いていき、広間の百畳分全部をいただけますか」と答えます。秀吉は、その程度のものかと快諾します。ところが、考えてみると、とてつもない米の量になることに気付いた秀吉は、新左衛門に別な褒美に変えるよう懇願します。いわゆる累乗の計算になりますが、EXELで計算すると”1.26765E+30”という答が出ます。これは、1.26765に10の30乗を掛けることを意味します。天文学的どころか、宇宙を超えるほどの数字になります。

まるで数学者を思わせる逸話です。私が好きな逸話は、やはり褒美に何がよいか問われた新左衛門が「毎日、殿の耳のにおいを嗅がせてもらいたい」と答えたというものです。これまた秀吉は快諾します。そして、実際、毎日、においを嗅ぐことになるのですが、その様子を見ていた人たちには、新左衛門が秀吉に何かささやいているようにしか見えません。悪口や告げ口をされては大変と思った大名や側近たちは、新左衛門に付け届けをするようになったというのです。虎の威を借る狐かな、といったところですが、人間の心理をついた、あるいは独裁者の宮廷のありようを冷静に観察したうえでの、実に狡猾な知恵と言えます。一流とされた御伽衆の資質の高さを伝える話だと思います。

単に主君に媚びるだけなら二流の御伽衆、時にはへつらうことなく真実を伝えてこそ一流であり、それが主君の寵愛を受けることにもつながるのでしょう。もちろん、しゃちこばって真実を伝えるのではなく、諧謔をもって伝えるからこそ御伽衆ということになります。それが落語家の本質にも受け継がれているように思えます。講談には「講釈師、見てきたような嘘をつき」という言葉があります。上から目線で、押しつけがましく語りきるのが講談師の芸です。対して、落語家は、あくまでも庶民の目線、感性から離れることはありません。人間や世間を見る冷静な目線をベースに、庶民に対しては愛情を持って、上部構造に対しては批判をこめて諧謔を繰り出します。批判的精神のない落語家など薄っぺらいものです。ところで、新左衛門の猿顔の話は、秀吉が猿顔であると言っているようなものです。これが落語の真髄につながるわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷