2024年5月30日木曜日

「関心領域」

監督:ジョナサン・グレイザー 原題:The Zone of Interest 2023年米・英・ポーランド

☆☆☆+

カンヌでグランプリ、アカデミー賞では国際長編映画賞を獲得するなど、すこぶる評価の高い映画です。マーティン・エイミスの2014年の小説の翻案です。アウシュヴィッツ強制収容所に隣接する官舎に住む収容所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスとその家族の日々が描かれています。官舎は、邸宅レベルの大きさで、プール付の広い庭も備えています。複数の使用人を使う贅沢な生活が送られています。しかし、塀の向こうでは、日々、数千人のユダヤ人がガス室へ送られていたわけです。ちなみに、ヘスは、ナチス副総統のルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは別人です。ナチス親衛隊将校として、当初から収容所運営に関わった実務家であり、戦後、絞首刑に処されています。

この映画の最も大きな特徴は、塀の向こう側、つまりアウシュビッツ強制収容所内で行われていたことが、一切、描写されていないことです。ただ、塀のなかからは、遠く叫び声や銃声がひっきりなしに聞こえてきます。極めて斬新なアプローチであり、ホロコーストの恐ろしさが、ヘス家の日常との対比において、一層、際立つ表現になっています。そのような表現上、音響はとても大切な要素となるわけですが、主役級と言っていいほど見事な仕事をしています。不気味さを醸し出す音楽も印象に残りました。しかし、その音楽と幾度か挿入されるモノトーンの画面に、本作の弱さもある、と思いました。淡々と映し出されるヘス家の日常だけで押し通すというアプローチに、監督は、多少の不安も持っていたということなのでしょう。

ありふれた日常、ありふれた役所仕事、その描写にホロコーストの狂気を織り込んでいくという展開を徹底すべきだったように思います。もし、それが出来ていれば、映画史に残る大傑作になっていたのではないかとも思います。日常のスケッチが見事な出来だけに残念です。つまり、本作のウィーク・ポイントは脚本にあるということになります。脚本も監督自身が手がけていますが、多少、力不足だったように思います。いずれにしても、日常の描写を通じて狂気を描くという大胆なアプローチは称賛に値します。それを可能にした背景の一つは、配給会社がA24だったことだと思います。ある意味、A24らしい映画だとも言えます。キャストでは、サンドラ・ヒュラーが、”落下の解剖学”同様、存在感を示しています。    

映画を見て、思い出されるのは、1961年のアドルフ・アイヒマン裁判です。アドルフ・アイヒマンは、輸送部門においてホロコーストに深く関わり、戦後は南米で逃亡生活を送った親衛隊将校です。モサドに捕まったアイヒマンは、極悪非道な人物には見えず、小役人といった風情でした。裁判において、アイヒマンは、自分は命令に従っただけである、と官僚言葉を巧みに駆使して無罪を主張します。ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」という言葉でアイヒマンを評します。それは、アイヒマンが小役人であると言っているのではなく、判断停止の状態こそが悪を助長するのだという主張でした。アイヒマンとまったく同様に、能吏ヘスとその妻も、まさに判断停止の状態を示しています。

ホロコーストの現場の隣で、草花を育て、贅沢に暮らすヘスの妻は、”快適”な生活を棄てきれず、夫の転勤への同道を拒否します。戦争が終わったら農業をしようと提案する妻の言葉が印象に残りました。全体主義の恐ろしさは、人々に味方か敵かという選択肢しか与えないことです。多くの人々は、生きるために体制の味方であることを選択します。ナチス親衛隊はエリート集団です。エリートの意味するところは、組織に盲目的に従うことに他なりません。彼らは、ホロコーストに慣れていったのではなく、善悪の判断を自ら停止していたわけです。ユダヤ人虐殺が始まった頃、その実行を命じられた非エリートの突撃隊兵士たちは病んでいったと聞きます。それが人間としての当たり前の感性です。(写真出典:a24films.com)

2024年5月28日火曜日

モアイ

日本各地には、結構な数のモアイ像が立っています。渋谷のモアイは、待合せスポットとして有名です。宮崎の日南海岸には、チリ政府公認のもとに完全復元したという7体のモアイが立っています。他にも、新島、札幌、香川、福岡等々にもあるようです。中でも特筆すべきは宮城県・南三陸町のチリ政府から寄贈されたモアイです。南三陸の旧志津川町は、同じチリ地震津波の被災地としてチリとの交流があり、1991年には、チリからモアイのレプリカが贈られていました。町のシンボルにもなっていたモアイですが、東日本大震災で津波に流されます。震災後に当地を訪れたチリ大統領は、新たにイースター島の石で作ったモアイを寄贈することを約束しました。

それにしても、なぜ日本に多くのモアイが存在するのか不思議な話です。チリ地震津波で大きな被害を受けたイースター島のモアイ修復に、日本が深く関わったことが縁となり、日本各地にモアイが作られたという説があります。モアイ修復は、TBSの「世界ふしぎ発見」における黒柳徹子の発言から始まったといいます。奈良文化財研究所、高松の建機メーカー「タダノ」等が立ち上がり、古墳修復等に実績のあった奈良県の石工が現地に赴き、修復を指導したようです。それは1992年のことでした。しかし、渋谷のモアイ等は、それ以前から存在しています。実は、渋谷のモアイは、正しくはモアイではなく「モヤイ」です。単なるカタカナ表記のブレなどではありません。

渋谷のモヤイ像は、1980年、新島の東京都移管100周年を記念し、新島から渋谷区へ寄贈されたものです。新島には、こことイタリアのリパリ島にしかないコーガ石という珍しい石があります。加工しやすく、軽量で耐火性・耐酸性にも優れると聞きます。新島は、1960年代中頃から、名産コーガ石を用いて「流人のオンジイ」と呼ばれるモアイを作り始めます。オンジイとは、流人のなかでも尊敬される人の呼び方だったようです。後に島の人々は、モアイと島の言葉で結を表す”もやい”をかけて「モヤイ」と名付けます。島には多数のモヤイがあり、かつ1970年以降、多くの市町村にモヤイを寄贈してきと言います。渋谷のモヤイも、その一つだったわけです。どうも日本各地のモアイは、新島のモヤイだったようです。

かつてモアイと言えば、何故作られ、どうやって運んだのか、ということが話題の中心でした。現在では、木製のトーテムポールを作る文化を持つポリネシア人がイースター島に渡り、先祖を祀り、村を守ってもらうために作ったという説が有力とされます。樹木の少ないイースター島では石を刻むしかなかったわけです。またモアイを石切場から移動する方法としては、立てた石像の頭部にロープをかけて、前後に揺らすことで徐々に移動させていたようです。近年、モアイを巡る謎の中心は、なぜ作るのを止めたのか、ということに移っているようです。石切場には切り出す途中のモアイがあり、移動中のモアイも数多く残っています。まさに、ある日、突然、モアイ作りは止まったということです。

その理由には、諸説あるようですが、大きくは二つの説に分かれます。一つは、人口増加とともに自然破壊が進んだイースター島では、残った耕地を巡って部族間の争いが起き、島は壊滅状態になったという説です。ジャレド・ダイアモンド等が主張する説であり、まさに地球の現状をイースター島が象徴しているとされます。しかし、争いの痕跡や武器が発掘されていないことから批判も多く、今一つの外部要因説が唱えられています。18世紀、欧州人が島に到達し、島は奴隷狩りの場となって極端な人口減少をきたしたという説です。多くの記録から奴隷狩りは実際に行われたことが確認されています。恐らく、これが、モアイ作りが突然終わった理由なのでしょう。いずれにしても、モアイは、人間の愚行を静かに語っているということなのでしょう。(写真出典:en.wikipedia,org)

2024年5月26日日曜日

カルボナーラ

ここ数十年、パスタを作るならアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノのただ一択、外で食べるならカルボナーラ・オンリーでした。オリーブ・オイル、にんにく、唐辛子、塩、胡椒だけで作るアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノは、シンプルなだけに奥が深く、毎回、微妙に味わいが変わるところが面白いと思っています。日本のカルボナーラは、ベーコン、卵、粉チーズ、生クリーム等で作ります。ベーコンの香ばしさを際立たせたタイプのものが好みですが、滅多にお目にかかれません。ベーコンをしっかり炭化させるから、カルボナーラ(炭焼き)なのだと、勝手に思い込んでいました。そういう説もあるようですが、黒胡椒が炭のように見えることから名付けられたという説が有力なようです。

ローマのカルボナーラ発祥の店で食べたことがあります。本場ではベーコンではなく、グアンチャーレやパンチェッタを使うもののようです。グアンチャーレは豚の頬肉を2~3週間塩漬けにしたものであり、パンチェッタは豚のバラ肉を1ヶ月以上塩漬けにしたものです。貯蔵肉の類いは大好物ですが、豚の塩漬けは獣臭さを感じて得意ではありません。沖縄のスーチカーも苦手です。ローマのカルボナーラは、生クリームなど使わずにパンチェッタ・チーズ・卵・黒コショウだけで作ります。シンプルなだけに獣臭さと塩味が際立ち苦手でした。またローマでは、スパゲッティではなく、マカロニ系のリガトーニを使います。また、チーズは、塩味の強い羊のチーズであるペコリーノ・ロマーノが使われています。

日本のカルボナーラは偽物だと言うこともできるのでしょうが、本場物より、ずっと美味しいと思います。というか、別物なのでしょう。ローマのカルボナーラにインスパイアされた新たなメニューと理解すべきなのでしょう。ローマでカルボナーラを食べながら、日本人の創意工夫の力にあらためて感心してしまいました。では日本式カルボナーラは、どこでどのように生まれたのかというと、これが判然としないようです。戦後、ローマを解放した米兵のために考案された料理であり、それが進駐軍によって日本にも持ち込まれたという説が有力とされます。生クリームは、卵が固まらないように加えられたのだそうですが、恐らくアメリカで始ったことなのでしょう。

だとすれば、日本式カルボナーラはアメリカ料理ということになります。ただ、アメリカで食べるカルボナーラの味は、日本式とも異なります。恐らくベーコンとチーズの違いなのだと思います。いずれにしても、本場物は美味しく、まがい物は不味いということはありません。日本のカルボナーラは、その一つの証明です。それでよく思い出すのが、カバー曲です。原作を超えるカバー曲は数々あります。例えば、ボブ・デュランの「All Along the Watchtower」は、ジミヘンのカバーで有名ですが、ボブ・デュラン自身もジミヘン風に演奏するようになりました。いつかローマでも日本式カルボナーラが人気になるかもしれません。ところで、日本式スパゲティで忘れてはならないのがナポリタンだと思います。

タマネギ、ピーマン、ベーコン等を炒め、トマト・ケチャップで味付けしたナポリタンは、イタリアにはない純国産パスタ料理です。もちろん、イタリアには、トマト・ソースのパスタはあります。ケチャップを使い始めたのは、第二次大戦前、アメリカ軍の戦闘糧食Cレーションのパスタだったようです。日本のナポリタンを開発したのは、横浜ニューグランド・ホテルの総料理長だったとされています。日本へ進駐した米兵がパスタにケチャップをかけて食べる姿を見て、米兵向けに考案したようです。また、日本でナポリタンが普及した背景には、戦後、米国から無償提供された小麦があったようです。デュラム小麦ではなかったので、コシのないスパゲッティが一般化したわけです。それにしても、カルボナーラも、ナポリタンも米兵のために開発されたメニューという点が面白いと思います。米兵が世界に広めた食品も多くあります。文化の伝播は、戦争の一つの側面でもあります。(写真出典:kurashiru.com)

2024年5月24日金曜日

低地休暇

La Paz
数年前、チームに参加して富士山登山を目指しました。ただ、台風が来襲して延期となりました。いつまで延期なのか、と聞くと1年後だと言われました。混雑しているので、今シーズン中に山小屋を再予約できないというのです。富士山登山の標準的なプランは、午後に5合目から登リ始め、7~8合目の山小屋で仮眠をとり、夜中から登頂を再開し、ご来光を拝むというものです。山小屋で仮眠をとるのは、低酸素環境に体を慣らし、高山病を防ぐ意味合いが大きいようです。高山病は、概ね2,500mを超えると発症する可能性が高くなるとされます。富士山へ一気に登る弾丸登山で高山病を発症する人は後を絶たないようです。

NY時代に聞いた話ですが、さる駐在員の奥さんがマチュ・ピチュで高山病を発症し、ふらついて谷底へ転落、亡くなったというのです。マチュ・ピチュの標高は2,430mとされますから、個人差はあるにしても高山病を発症してもおかしくない高さです。登山などで発症するのは急性高山病であり、低地へ移動するのが最善の治療と言われます。症状が重い場合には、酸素吸入、水分補給、加圧、そして非オピオイド系鎮痛剤などの薬物が用いられるようです。予防薬もありますが、その効用は個人差があるようです。登山なら下山すれば良いわけですが、高地へ赴任した駐在員ともなれば、状況は大きく異なります。ボリビアのラパスへ赴任した人の話を聞いたことがあります。

ラパスは、世界の首都のなかで最も標高が高いと言われます。3,600mの高地にあるラパスには75万人が暮らしています。すり鉢状の地形ゆえ、市内でも標高差は数百メーターになると言います。赴任した当初は、急性高山病を発症するのだそうですが、低地へ移動するわけにはいかないので、酸素吸入等でしのぐしかないようです。自宅やオフィスには酸素ボンベが常備されているようです。しばらくすると多少体も慣れてくるようですが、風邪の初期症状のような体況が続き、運動やアルコールは避けなければならないと聞きました。一番、厳しいのは睡眠不足に陥ることだと話していました。いつも一呼吸足りない感じなので、熟睡できないらしいのです。

そこで各社は、高度に応じて年数回の低地休暇を設け、高度の低いところへ移動し、ゆっくり眠って体力を回復させるという方策をとっているようです。政情不安定、治安劣悪といった任地に関しては、しばしば危険地手当が支給されます。同様に、生活環境が厳しい任地については、家族全員を定期的に一時避難させる休暇制度もあります。戒律の厳しいイスラム国家、あるいは治安が悪く物価が高騰していたブラジルなどでは、欧州や米国への休暇旅行が制度化されていました。同じ会社のサンパウロ駐在員のNYへの一時避難休暇を受け入れたことがあります。空の大きなスーツケースをいくつか持ってきて、日本食を買い込んで帰っていきました。NY駐在など海外駐在員のうちにも入らないな、と思ったものです。

中国政府が、青海省とチベットのラサを結ぶ青蔵鉄道を全線開通させたのは2006年のことでした。全長2,000km弱、最高地点の海抜は5,071m、平均海抜も4,500mという信じがたい鉄路です。一度乗ってみたいものだと思いましたが、NHKのドキュメンタリーを見て、すぐにあきらめました。世界一の高地を走る鉄道の動力は、高地仕様に改良されたディーゼル・エンジンです。客車は気密性と断熱性を強化したうえで加圧されたボンバルディア社特性の車両が使われています。もはや列車ではなくレールの上を走る飛行機なわけです。客車のいたる所に酸素吸入器が備付けられています。万が一、事故や故障で停まることがあれば、ことは命に関わるわけです。実に恐ろしい鉄道です。その素晴らしい景色は魅力的ですが、命を懸けてまで見に行こうとは思いません。(写真出典:gravitybolivia.com)

2024年5月22日水曜日

「フィツカラルド」

ヴェルナー・ヘルツォーク・シリーズ第3弾は「フィツカラルド」です。1982年に公開された壮大なファンタジー映画であり、希代の奇作とも言えます。アマゾン奥地にオペラ・ハウスを作ることを夢見た男の話であり、船が密林の丘を越えるシーンは映画史に残る映像です。その年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞しています。ちなみに、パルム・ドールは、コスタ・ガヴラスの「ミッシング」、ユルマズ・ギュネイの「路」に奪われています。ここがこの映画の興味深い点でもあります。ヘルツォークが発想した映像は、とてつもない労力で実現されているのですが、ファンタジー映画としてのスタンスがブレ気味で、かつ文明論的深さにも欠けます。この点が、評価を分かれさせているのでしょう。

ヘルツォークは、本作の着想を、19世紀に実在したゴム成金カルロス・フィツカラルドから得たようです。カルロス・フィツカラルドは、ペルー奥地から天然ゴムを搬出するために、今もフィツカラルド地峡として知られるルートを開発し成功を収めます。ルートを開発する際、蒸気船を解体して、別な川まで丘を越して運びます。数百人のインディオを酷使し、2ヶ月かけて丘を越したと言います。その蒸気船は、映画で使われた船に比べ、1/10程度の大きさだったようです。船が丘を越える、なんとも想像力をかき立てられるイメージです。思い起こされるのは、オスマン帝国のメフメト2世が、コンスタンティノープル攻略に際し、入口を鎖で封鎖された金角湾に、丘を越えて大艦隊を運び入れたことです。いわゆる「オスマン艦隊の山越え」です。

間違いなく、ヘルツォークは、このイメージに取り憑かれたのだと思います。文明論といった小賢しい話も、この強烈なイメージの前では吹っ飛んでしまいます。ヘルツォークは、このイメージを映像化するにあたり、何がなんでも実際に人力で船を丘に登らせるという強い覚悟があったのでしょう。宗教がかった執念とも言えます。撮影は過酷を極めたようです。多くの負傷者をだし、病に倒れた俳優たちの交替も相次ぎます。船が丘を登るシーンは、ドキュメンタリーに近い印象すら受けます。まるでナショナル・ジオグラフィックが、古代の建築を古代の工法で再現しているフィルムのようです。とてつもない映画作りを行ったわけですが、ある意味、映画を越えてしまったところが、この映画の弱点なのかもしれません。

ヘルツォークは、壮大なシーンを中心に重厚な作品に仕立てることもできたはずですが、そうしていません。フェリーニ的なノスタルジックで多少コミカルなファンタジーに仕立てようとしたのではないでしょうか。クラウディア・カルディナーレの起用がそれを物語っています。ただ、残念ながら、それは二つの理由で失敗しています。一つは、主演に予定していたジャック・ニコルソンが降板、その後を受けたジェイソン・ロバーズも撮影開始後に病に倒れ、急遽、クラウス・キンスキーが起用されたことです。ロバーズとキンスキーでは、まったく異なるテイストの映画になってしまいます。今一つは、ヘルツォークのシリアスな作風がイタリア的な明るさとは相容れないことです。

とは言え、さすがにヘルツォークです。レベルの高い映画であることは間違いありません。いつもどおり、映像の力を存分に感じさせる映画になっています。船が丘を登るシーンに限らず、素晴らしい映像を展開しています。ことに緑濃いアマゾン支流を進む蒸気船の姿には、惚れ惚れとさせられます。そこに流れるエンリコ・カルーソーの歌声が見事なコントラストを描いています。蒸気船は、あたかも大自然に無謀な戦いを挑む文明の姿のようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年5月20日月曜日

文明の進化

Henry Miller
束縛されたくないと、携帯電話も、スマホも、一切持っていない先輩がいます。先輩は、不便を感じていないようですが、周囲の人間にとっては、連絡が取りにくく、まったく迷惑な話です。こっちが不便だからスマホを持ってください、とお願いすると、みんな30年前まで携帯・スマホ無しで生きていたじゃないか、と反論されます。確かにそのとおりです。逆に言えば、昔はスマホ無しで、よく待ち合わせできたものだと、よく営業なんかやれてたものだと思ってしまいます。過日、その先輩が、ついにスマホを持たざるを得ないか、と思った瞬間があったようです。メニューも会計もQRコードで対応する飲食店に入ったからでした。

確かに、人手不足の昨今、そういう店が増えています。先輩は、憤りよりも、疎外感を強く感じてしまったようです。今や、スマホを持っていない人は、ネイティブ・アメリカンと同じ境遇に置かれているわけです。ま、喫煙者も同じですが・・・。「文明とは、なければならないものが増えることだ」という言葉を思い出します。確か、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」の一文だと記憶します。文明とは、社会制度や技術が発展し、経済的、物質的に豊かになることを意味するのでしょう。だとすれば、ヘンリー・ミラーの言葉は、文明の本質を捉えていると言えます。とは言うものの、冷静に考えれば、古代ローマと現代の社会を比べて大きく変わったのは電気や他の動力で動く機械くらいじゃないかとも思ってしまいます。

人類の三大革命と呼ばれる農業革命、産業革命、IT革命は、すべて技術的革新です。確かに便利にはなり、豊かになったものの、社会や生活の本質は、なんら変わっていないように思えます。相も変わらず、戦争があり、政治は混乱し、パンデミックが起こり、同じような犯罪が後を絶ちません。つまり、文明なるものは進化したのかも知れませんが、人類そのものは太古の昔から、ほとんど進化していないということなのでしょう。人間の最大の進化は、直立二足歩行だと思います。自由に使えるようになった両手は道具を生み、まっすぐになった喉は自在に声を操り言語を生みます。それが、組織力、生産の効率化、そして知恵の蓄積につながり、人間は、瞬く間に地上界を制圧するに至ります。

文明の進化は、個人と組織という難問を生み、自然破壊を深刻化させてきたように思います。例えば、政治の混乱は農業の開始とともに生まれた個人と組織の相克の現れであり、技術革新とは自然界に存在しないものを作ることで自然を破壊するという性格を持っています。とは言え、なにも原始時代に戻ろうと言っているのではありません。大事なことは、文明の進化の本質を理解し、可能な限り、自然の多様性を保持できる技術革新を目指し、人間が進化していないこと、個人と組織は相容れないものだという認識を持って、個人を尊重する社会を作ることだと思います。そうした観点からすれば、最悪の社会システムは武力で成り立つ全体主義だと言えます。さらに言えば、文明の進化は、どうも全体主義に陥りやすい傾向を持っているように思えます。

SFに描かれる未来社会は、実に全体主義的です。画一性が社会的効率を高めるからなのでしょう。20世紀は、人間の強欲が解放され、技術革新が飛躍的に進んだ時代でした。同時に、20世紀は全体主義の時代でもありました。故なきことではありません。我々は、文明の進化が持つダークサイドにも注意を怠るべきではありません。ところで、人間は、自ら進化を止めた生物とも言われます。生物の進化が形状や機能の変化を伴うものだとすれば、人間の進化は直立二足歩行で終わっています。道具と組織を手に入れたことで進化する必要がなくなったわけです。つまり、人間が進化しない限り、文明の進化はさらに進んでいき、全体主義化の懸念も高まることになります。(写真出典:themarginalian.org)

2024年5月18日土曜日

サウダーヂ・モデルナ

とりわけ人生に思い残すことなどないのですが、あるとすれば、リオデジャネイロに行けなかったことくらいでしょうか。しばらくリオに滞在し、毎晩、サンバのライブを聴き、サンバ漬けの日々を送ってみたいと思っていました。ただ、リオは、あまりにも遠く、かつ治安も恐ろしく悪く、二の足を踏んでしまいました。ところが、私がリオが行かなくても、過日、リオの方からやってきてくれました。ブラジルを代表するMPBの歌姫マリーザ・モンチのブルーノートでのライブです。私は、ここ20年弱、サンバにハマっていますが、そのきっかけとなったのがマリーザ・モンチの唄うサンバでした。生きている間に彼女のライブが聴けるなど、まさに夢のような話だと思いました。

実に完成度の高いライブは、私の生涯ベストの一つだと思いました。ブラジルのミュージシャンの演奏レベルは、とても高いものがあります。2億人を超える音楽好きの国民がひしめくブラジルでは、音楽業界の競争も激しく、まずは相当なテクニックを持っていないと場末のステージにも上がれないと言われます。マリーザ・モンチのステージは、テクニカルに完璧なだけでなく、彼女の抜群の表現力が遺憾なく発揮されていました。スタジオ録音とほぼ変わらないレベルの高さに感服しました。そう言えば、1989年にリリースされたマリーザ・モンチのデビュー・アルバムはライブ録音でした。にもかかわらずブラジル中を熱狂させ、いきなりトップ・シンガーに躍り出ています。

マリーザ・モンチは、ややかすれたユニークな声で、独特な世界観を展開します。イタリアで声楽も学んでいますが、そのベースとなっているのはサンバです。父の影響で、幼少の頃からリオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”に出入りし、体中にサンバのリズムとサウダーヂを染みこませているわけです。ステージでは、彼女のよく知られたオリジナル曲を中心に歌っていましたが、古いサンバも数曲歌ってくれました。とりわけ大好きな”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”を歌い始めた時には鳥肌が立ちました。これは、ラストかアンコールで”Esta Melodia”を歌う前ぶりではないかと期待しましたが、歌いませんでした。一緒に歌う気満々だったのですが、残念です。

約90分のワン・ステージのみというセッティングに彼女の気合いを感じました。圧巻のステージのラストでは、満員の客席の拍手が鳴り止むことはありませんでした。彼女が、ブラジルで圧倒的な人気を誇るのは、サンバをベースとしながらも、現代的にサウダーヂを表現しているからだと思います。サウダーヂ・モデルナとでも言えばいいのでしょうか。ブラジルの音楽は、その背景にすべてサウダーヂを持っていると言われます。7thコードの使い方など聞くと、それが良く分かります。サウダーヂは、ポルトガル語独特の表現であり、日本語への翻訳は難しいと言われます。郷愁、憧憬、思慕、切なさ等が入り交じっているとされます。言葉の由来に関しても諸説あるようです。

ポルトガル人には、ケルト人の血が入っているようです。司馬遼太郎は、ケルト人を百敗の民と言っています。もともと中欧にいたケルト人は、ゲルマン人等に追われて、ついに欧州の西の外れの海辺にたどり着いたわけですが、その敗走の歴史や終着点の厳しい風土もサウダーヂという言葉の誕生に関係しているのでしょう。ポルトガルのファド、ブラジルのサンバ、アイルランド音楽は似ても似つかぬ代物ですが、実は、すべてサウダーヂと呼んでいいような同じ根っこを共有しているように思えます。(写真出典:cantodampb.com)

2024年5月16日木曜日

夜行バス

ポート・オーソリティ・バス・ターミナルは、マンハッタンの8番街40~42丁目にあります。NYシティ最大のバス・ターミナルであり、全米各地やカナダへの長距離バス、あるいはNJ方面からの通勤バスの発着場です。私がNYにいた1990年前後は、治安の悪さで知られ、駐在員は近づくな、と言われていました。一度だけ、台湾からの来客を出迎えるために行ったことがあります。その方の娘さnがNJに住んでおり、そこからマンハッタンに出てきたわけです。昼前のことでしたが、麻薬の売人とホームレスだらけのターミナルは、実に薄気味悪いところでした。おおよそバス・ターミナルは、どこでも治安が悪く、場末のイメージがつきまとっていたものです。恐らく長距離バスの低迷期であったことが関係しているのでしょう。

アメリカを代表する長距離バスと言えば、グレイハウンド・バスです。20世紀初頭、ミネソタ州で設立された同社は、今でも全米最大の長距離バス会社です。数々の映画や小説に登場し、アメリカの象徴の一つにもなっています。アメリカにいる間に、鉄道やバスにも乗ってみたいと思っていました。鉄道のアムトラックは仕事で使うこともありましたが、さすがにグレイハウンドに乗るチャンスはありませんでした。1950年代、高速道路網が整備されたアメリカでは、自家用車での移動が主となります。同じ頃、空路も拡大されたため、長距離バスも鉄道も利用者が減っていきました。比較的料金が安いバスは、田舎者と貧乏人の乗り物となり、バス・ターミナルの荒廃につながるわけです。

日本では、多少、事情が違います。戦前にも長距離バスはあったようですが、1950年代、鉄道網を補完する形で長距離バスが拡大し、1960年代には隆盛期を迎えたようです。この時期、高速道路も生まれ、一般道路の改善もあって、長距離バス路線は全国に広がりました。また、盆暮れ限定の帰省バスが大人気になったとも聞きます。しかし、70年代になると、新幹線はじめ、鉄道網が整備され、長距離バスは冬の時代へと突入します。多くの路線が廃止となり、運営会社の倒産も多く発生します。一方、長距離バスを苦境に追いやった鉄路も、60年代後半から、トラック、飛行機に押されて厳しい時代を迎えつつありました。非効率な経営形態、労使問題、多数の赤字路線等の問題を抱え、国鉄は解体へと向かっていきます。

今度は、その国鉄の苦境が長距離バスにプラスの効果をもたらします。80年代後半には路線も拡大され、90年代に入ると、座席やトイレ等が改善され、高速バスや夜行バスは人気を取り戻します。特に夜行バスでは、シートの快適さ、プライバシー確保が追求され、4列シートは3列型へ、さらには2列で完全個室を提供するものまであるようです。ただ、完全個室型は、料金も高くなることから、限定的な運行に留まるようです。眠っている間に到着するといった利便性もさることながら、やはり夜行バスは割安感こそが魅力なのでしょう。また、早朝に着くことの多い停留所の近くには、シャワー・ブースなどを提供する施設も増えているようです。ここまで進化すると、一度乗ってみたいと思っていました。

しかし、割安とは言え、間違いなく疲れるはずです。やはり、夜行バスは若い人向けと言えます。JRは、新幹線に代表されるとおり、早さを追求してきた面があります。また、豪華さをアピールした列車もあります。早さと豪華さは、利用者の支持も得ているわけですが、一方で夜行バスを利用する人たちのニーズを切り捨ててきた面もあります。例えば、東京・大阪間だけでも、深夜出発の格安寝台車を復活させてはどうかと思います。民営化され、利益を追求するJRが、儲けの少ない格安寝台車など運行するとは思えませんが、公共性の高い鉄道網は、赤字にならない範囲であれば、社会のニーズに応える必要もあるように思います。また、エントリー・モデルで新規顧客を取り込むことは、マーケティングの常道でもあります。(写真出典:travel.willer.co.jp)

2024年5月14日火曜日

「エドガルド・モルターラ・・・」

監督:マルコ・ベロッキオ 原題:Rapito(誘拐) 2023年イタリア・フランス・ドイツ   

☆☆☆

6歳の少年エドガルド・モルターラの誘拐は、1858年、ボローニャで実際に起きた事件です。原題も「誘拐」となっていますが、立場によって解釈が異なります。モルターラ家からすれば誘拐そのものですが、少年を連れ去ったローマ教皇庁としては、カノン法に基づく正統な処置ということになります。カノン法によれば、非キリスト教徒にキリスト教徒を育てる権限は無い、ということになります。エドガルド・モルターラは、ユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ教徒として育てられました。ただ、エドガルドが重い病気にかかった時、カソリックの下女が、両親に内緒で簡易洗礼を施します。洗礼を受けずに死ねば、この子は地獄に落ちる、という素朴な信仰に基づく親切心から行ったことでした。

しかし、簡易と言えども洗礼は洗礼であり、この瞬間からエドガルドはキリスト教徒になったわけです。この理不尽な状況に、エドガルドの両親は世界に広がるユダヤ人ネットワークに助けを求めます。エドガルド・モルターラの誘拐は、新聞や書籍の大衆化という世情と相まって、世界の注目を集める事件になります。ユダヤ人の反撥だけでなく、アメリカのプロテスタント、そして欧州各国からも教皇に対する非難が巻き起こります。さらにその背景には、イタリア統一運動もありました。教皇国家は、統一に向けた大きな障害でした。フランス国王は、この事件を機に、統一運動支持に変わったとされます。非難の渦のなか、教皇ピウス9世は、強硬な態度をさらに硬化させ、エドガルドを身近に置きます。

この事件が、教皇国家の消滅、教皇の権威失墜につながったとも言われます。事件の性格としては、キリスト教とユダヤ教、ユダヤ人ネットワークの広がりといった面に留まらず、教皇国家やカノン法に象徴される中世的な世界と近代のせめぎ合いでもあります。いずれしても、近代イタリア史を語るうえでは、欠くべからざる事件なのでしょう。ところが、マルコ・ベロッキオは、事件の一面である宗教に引き裂かれた家族の悲劇というミクロ面にのみフォーカスして本作を撮っています。歴史のダイナミックな動きを描くとすれば、恐ろしく複雑で長大な映画になってしまうのでしょう。とは言え、事件を取り巻く世情についても触れざるを得ないわけですが、そこは薄っぺらな演出となっており、映画全体の質を下げています。

マルコ・ベロッキオは、おおむね社会派の監督として知られます。前作の「シチリアーノ 裏切りの美学」(2019)は、司法の協力者になった元マフィア幹部トンマーゾ・ブシェッタの半生を描いています。ブシェッタがマフィアについて告白した相手は、生涯をマフィア撲滅に捧げ、マフィアに暗殺されジョヴァンニ・ファルコーネ判事でした。ブシェッタの告白によって、初めてマフィアの全貌が明らかになったとされています。ブシェッタの半生は実に興味深いものでしたが、ブシェッタ個人を深く掘り下げる、あるいはマフィアの本質をえぐるといった映画的深さには欠けていました。本作も、実に深いテーマですが、あまりにも要素が多すぎて、焦点を絞り切れず、表面的な叙述に終始したという印象です。それでも飽きずに観られたのは、監督の手腕かも知れません。

ちなみに、バチカンで育てられたエドガルド・モルターラは、ユダヤ教に戻ることなく、神父としてイタリア国外で活動し、1940年、88歳の生涯を終えています。親切心から行われた下女による簡易洗礼が、宗教対立、ユダヤ人問題、そして当時の世界情勢に煽られるかたちで、誰もが望まなかった家族の分断を生んだわけです。何とも痛ましい事件です。家族が、再び一緒に暮らすためには、いずれかが改宗する必要がありました。双方とも、それに応じることはありませんでした。人にとって家族は大事ですが、人が生きるうえで社会や背負った歴史、そして宗教も欠かせない存在です。映画には描かれていませんが、高齢となった母親は、エドガルドとの再会を果たしています。その際、エドガルドは母親にキリスト教への改宗を強く勧めますが、断られています。(写真出典:mortara-movie.com)

2024年5月12日日曜日

焼鳥丼

おが和焼鳥重
丸の内の人たちは、「焼鳥丼」と言えば「伊勢廣」の”やきとり重”、通称”焼鳥お重”を思い浮かべるものと思います。帝劇地下の伊勢廣の定番”やきとり重”は、丸の内を代表するランチだと思います。しかし、串焼にした”焼鳥”をご飯の上に乗せるスタイルは、焼鳥丼としては希だと思います。一般的な焼鳥丼は、甘辛いタレで焼いた鶏肉をご飯に乗せたものだと思います。焼鳥丼の名店とされる人形町の「おが和」や築地の「とゝや」は、このスタイルです。香ばしさがクセになる伊勢廣スタイル、タレと食べごたえが後を引くおが和スタイル、いずれも絶品です。ちなみに、おが和も伊勢廣と同じく丼ではなくお重です。伊勢廣が丼ではなくお重を選択したのは、食べやすさに加え、帝劇に集う上品な女性客を意識してのことなのだろうと思います。

鳥類を焼くという料理は、人間にとって、ほぼ初めての料理だったのではないかと思っています。それだけに我々の古い記憶をくすぐる独特な魅力があるのでしょう。肉を串に刺して焼く料理は世界中にあるようですが、こと焼鳥というスタイルに関しては、東南アジアが中心のようです。日本の焼鳥が形を成したは江戸期だと聞きます。まずは雀焼の屋台から広がっていったようです。お祭りの露店では定番の一つにまでなっていたようです。江戸初期に醤油の大量生産が始まると、焼鳥の味付けも醤油と酒が一般化していったようです。現在の焼鳥は、シンプルな塩、あるいは店独自の継ぎ足しのタレを選べます。私は、焼鳥に独特な香ばしい味わいを楽しめる塩の方が好みです。

伊勢廣で、おたくの焼鳥は何故うまいのか、と聞いたことがあります。「新鮮な鶏を使っているから」との答でした。それだけなら、世の中はうまい焼鳥屋であふれているはずです。”串打ち三年、焼き一生”という言葉があるとおり、焼鳥は焼き方が命だと思います。外は水分を飛ばしてパリッと仕上げ、中は旨味と水分を閉じ込めジューシーに、そして炭火に落ちた鶏の油が絶妙なスモーク効果をもたらします。ミシュランで星をとる焼鳥屋には、丁寧な焼き方で焦げ目をつけない傾向があるように思います。これは如何なものかと思います。焼鳥は焦げ目も味のうちだと思います。店内がもくもくと煙で充満しているということは、脂のスモーク効果が十分に効いているという証拠です。

焼鳥丼の店でも同じことが言えます。ただ、焼鳥丼の塩味は聞いたことがありません。ご飯との相性もあって、継ぎ足しで旨味を増した甘辛い醤油ダレになります。タレも、豚丼のように濃ければ良いというものではありません。そこは、やはり鶏を焼いた際の旨味や香ばしさを邪魔しないタレである必要があります。例えば、人形町おが和のタレは、見た目よりもあっさりしており、焼いた鶏肉の旨味を活かしています。伝統の深川の味が生きているように思います。とゝやは、鶏の部位を選ぶことができ、追加もできます。私は、いつも、もも、ぼんじり、つくねを乗せます。人気のぼんじりは、鶏の尻尾の付け根の肉です。プリッとした脂が美味しい部位です。

国技館での大相撲は、年3回開催されます。私は、毎場所、前半・後半1回づつ観戦しています。国技館の相撲観戦には名物の焼き鳥が欠かせません。国技館の地下で作られる焼き鳥は、街の焼鳥屋の焼鳥とは大違いです。”冷めても美味しい”をコンセプトに独自の製法で作られます。タレをつけては焼き、焼いてはタレにつけるという工程を数回繰り返すと聞きます。焼鳥というよりも、焼鳥の蒸し焼きのようなものです。見た目も含めて焼鳥とは異なる代物だとは思いますが、これはこれで美味しいわけです。私は、お土産にした国技館の焼鳥を、翌朝、親子丼に仕立て食べます。個人的には、焼鳥丼の玉子とじってところだな、と思いながら楽しんでいます。(写真出典:tabelog.com)

2024年5月10日金曜日

廓(くるわ)

東京芸大美術館の「大吉原展」を見てきました。二つ、失敗してしまいました。一つは、いつもなら空いている休日の閉館前をねらって行ったのですが、大混雑だったこと。そして、小ぶりな美術館ゆえ1時間もあればお釣りがくるだろうと思っていたのですが、時間が足りなくなったことです。かなり気合いの入った展覧会でした。まずは、国内外からいい作品を集めていました。そして、それ以上に、単なる絵画展を超えて、吉原の全貌を伝えようとする企画になっていました。吉原をテーマとする展覧会は多くあっても、ここまで徹底した企画はなかったと思います。ただ、それだけに、展示の窮屈さと混雑の両面から、芸大美術館という箱の小ぶりさが仇になった印象は拭えません。

展示は、浮世絵が中心ですが、書籍、図版、道具類、再現人形、街のミニチュア、絵画を拡大した映像、CGと、実に立体的に吉原を浮かび上がらせようとしていました。第三会場は、キュレーターの仕事というよりも東京江戸博物館の展示のように見えました。吉原という浮世離れした街、独特な文化的成熟を遂げた街ならではの展示です。売春は最も古い商売の一つと言われます。売春婦には、公的な営業認可を受けた公娼とそれ以外の私娼があります。吉原は、江戸幕府公認のもとに商売を行う公娼街です。公娼の歴史も古く、古代ギリシャには既に存在していたようです。日本における公娼は、文献上、鎌倉時代が初出とされます。秀吉が公娼制度を広めたとも言われます。当時、全国に300以上の公娼街があったようです。

吉原遊廓は、江戸初期、日本橋葺屋町、現在の人形町あたりに幕府公認の遊廓として誕生します。そもそもは駿府城下にあった公娼街を移転したものでした。江戸の街の拡大とともに、浅草寺の北、日本堤に移転させられ、塀や濠と門で囲われます。東京ドームの1.5倍の敷地に大小の店が並び、数千人の遊女がいたとされます。江戸最大の歓楽街であり、中央にある仲の町では、様々な催しも開かれ、春には期間限定で桜の木を移植したといいます。まさにテーマ・パークです。当初の客は武士層でしたが、台頭してきた商人層にとって替わられたようです。ちなみに、最上級の遊女ともなれば、一晩遊ぶ費用の総額は数百万円を超えたと言われます。

高級遊女たちは映画スター並みに扱われます。その衣装や教養は、江戸の文化や流行の発信源でもあったようです。浮世絵に描かれたのは、まさに彼女たちでした。歌麿、写楽などの浮世絵で知られる蔦屋重三郎はじめ、版元たちが吉原のマーケティングを担っていたとも言えます。名を残すほどの遊女たちもいました。なかでも、高尾太夫という名跡は吉原の最高峰とされ、落籍されて大名の側室になったものや、物語や落語の題材になったものもいます。吉原の遊女たちは、江戸の庶民文化のミューズであり続けたわけです。西欧から見れば、日本の性に対するおおらかさは、不可思議に見えたようです。不平等条約解消に向けて西欧化を急いだ明治政府によって、その特色はキリスト教的道徳観にとって替わられることになりました。

廓という漢字は土塁を表すようです。吉原は、道徳的観点から隔離されたのではありません。遊女たちの逃亡を妨げることが目的でした。人身売買の犠牲となり、奴隷的な性労働を強要された遊女たちは、逃亡を図るために、しばしば放火まで行っています。現代の世界においては売春の合法化が進んでおり、明確な禁止法を持っているのは日本とアメリカくらいだと言われます。その両国にあっても、積極的な取締は行われていません。しかし、人身売買、奴隷労働は、まったく別な話であり、世界中のどこであっても重大な犯罪です。明治5年、不平等条約撤廃を目指す明治政府は、西欧的価値観に沿って人身売買を禁じました。ただ、吉原の実体は、昭和33年の売春禁止法まで大きく変わることはなかったようです。(写真:高橋由一「花魁」出典:bunka.nii.ac.jp)

2024年5月9日木曜日

リキュール

学生時代、水道工事のアルバイトをしたことがあります。ハードな肉体労働ゆえ、日給は高く、 しかも酒付きというバイトでした。しかし、あまりにも過酷な労働に体が痛くなり、1回で辞めました。酒付きというのは、仕事が終わると、事務所で焼酎が振る舞われるのです。出された一升瓶を見て驚きました。ラベルには大きく”25”、”35”とだけ書かれていました。要はアルコール度数が25度と35度という意味です。工業用アルコールの類いにしか見えませんでした。もはや味等どうでもよくて、ひたすら酔うためだけに飲む代物だと思いました。社員が、飲み過ぎると、あんな風に歯がボロボロになるぞ、気を付けろ、と高齢労働者を指さしました。確かに、ベテランのじいさまにはほとんど歯がありませんでした。

酸性である酒類は、歯のエナメル質を溶かす性質があります。ただ、さほどの酸性でもなく、毎日、長時間飲み続けなければ、問題ありません。焼酎は戦後の混乱のなかで普及した安酒というイメージが強かった時代とも言えます。ところがTVCMをきっかけに、1970年代にはお湯割り、80年代にはチューハイのブームが起き、焼酎はメジャーな存在になります。さらに2000年代に入ると本格焼酎ブームが起き、ついには出荷量において日本酒を凌駕するに至ります。人気を博したのが芋焼酎でした。昔の芋焼酎は翌日まで口に臭みが残ったものです。ところが製法が進化して臭みは無くなり、良い風味だけが残るようになりました。また、糖質やプリン体を含まない焼酎は、健康指向に合致した面もあるのでしょう。

実は、焼酎が清酒を抜いた頃から、酒税法で言うところのリキュール類が課税数量を伸ばし、焼酎と清酒の合計を超えていくことになります。リキュールの定義は、アルコール以外のエキス分が2%以上含まれるものとされます。要はチューハイやサワーです。エキス分2%未満のチューハイ類は、ジンやウォッカと併せスピリッツと分類されます。リキュールとスピリッツを合算した課税数量は、清酒と焼酎の合計の3倍以上となります。おじさんたちが清酒派だ、焼酎派だと言っている間に、若者たちはチューハイやサワーに流れていたわけです。チューハイやサワーは多様化が進み、飲み口の良い商品が多く出回っています。どうも酒類は大きな変革の時にあるように思えます。

酒類多様化の背景には、脱アルコール、あるいは低アルコール化という流れも関係しているのでしょう。その一つの象徴がノンアルコール・ビールだと思います。既にビールの代用品という位置づけを超えています。2017年に発売された「キリン零ICHI」の美味しさには驚きました。ビールにアルコール分など必要ないのではないか、とさえ思ったものです。アルコール分0%のビールは清涼飲料水扱いなので、コンビニによっては中学生も買えます。さらに言えば、中学校の校舎内の自販機に置くことも可能なはずです。ただ、革新的に聞こえる”ノンアルコールのアルコール飲料”ですが、実は単なるキャッチ・コピーに過ぎません。実体は、あくまでも清涼飲料水なわけですから、酒の革新でもなんでもないわけです。

血行促進、食欲増進、ストレス解消、高揚感といった酒の効用が、人類にとって必要であることに変わりはないと思います。多様化が進むのは結構なことですが、それによって伝統的な酒のマーケットが縮小、消滅することがあってはならないと思います。ところで、伝統的なリキュールには、とても魅力的なものが多く、コアントロー、アマレット、カンパリ、アペロール、カルーア、アイリッシュ・クリーム、ディタ等々、あげればキリがありません。私もチューハイやサワーを飲むことがありますが、画一的で薄っぺらい味が多いように思います。若い人たちには、是非とも、世界中に存在する伝統的な本物のリキュールの味も知っていただきたいものだと思います。(写真出典:kakakumag.com)

2024年5月6日月曜日

土蜘蛛

能楽の演目は、約250曲あると聞きます。ここ十年ほど、能楽堂に通っていますが、恐らく半分も観ていないと思います。有名な演目は、ほぼカバーしたと思うのですが、タイミングが合わず、観ていない人気演目もあります。その一つが「土蜘蛛」でした。今般、国立能楽堂でようやく観ることができました。土蜘蛛は、室町時代末期の作とされますが、作者は不明です。源頼光と土蜘蛛に関わる五番目物です。頼光に取り憑いた土蜘蛛を、頼光四天王が倒すという内容ですが、土蜘蛛が蜘蛛の糸を放つという派手な演出で人気の演目です。小道具として使われる蜘蛛の糸は、千筋の糸、蜘蛛の巣、なまり玉とも呼ばれ、明治時代に、金剛流のシテ方・金剛唯一が考案したとされます。

シテ方が、蜘蛛の糸を投げると、多くの細い和紙が、放物線を描いて拡散します。蜘蛛の糸は、細く長く切った和紙を、小さな鉛の針金を芯にして巻き込んであります。それを複数束にまとめて紙の封をしておきます。シテ方は、これを左右の袂に数個づつ入れておきます。演じている最中に、袂から取り出し、封を切って投げるわけです。目で確認しながら準備するわけにはいきませんので、見当をつけて、親指で封を切り、根本をしっかり親指で押さえながら、放ることになります。和紙の長さは、5間(約9m)、3間(約5.5m)があり、ちょうど舞台に収まる3間が多く使われるようです。5間になると、派手に舞台を越えて広がるようですが、投げるのには技術を要するとのことです。

深夜、病に伏せっている頼光の寝屋に僧形の者が現れます。お前の病気は私のせいだと言うなり、蜘蛛の糸を投げつけます。頼光は、枕元に置いた名刀膝丸を抜き、土蜘蛛に切りつけます。名刀膝丸は、源満仲が、筑前国から呼び寄せた刀鍛冶に鍛えさせたという刀です。満仲以降、清和源氏が代々継承したとされる名刀です。奇妙な名ですが、罪人相手に試し切りをしたところ、一気に膝まで切り下げたことから付けられたという物騒な名です。頼光は膝丸を蜘蛛切と改名しますが、その後も持主と名前を変えながら継承されていくことになります。源義経の薄緑としても知られ、また曾我兄弟の仇討ちにも使われたとされます。ちなみに、大覚寺、箱根神社等には、薄緑として所蔵されている刀が存在するようです。

そもそも古代において、土蜘蛛とは、ヤマト王権にまつろわぬ地方豪族を指したとされます。時代が下ると、土蜘蛛は、各地で妖怪として知られるようになっていきます。そのきっかけとなったのが平家物語における源頼光の逸話だとされます。能楽「土蜘蛛」も平家物語をもとに作られています。源頼光が土蜘蛛に取り憑かれた理由についても伝承があります。969年に起きた安和の変において、左大臣源高明は謀反を密告され、太宰府へ流されています。密告したのは、頼光の父・源満仲でした。もともと満仲は、土蜘蛛と結託して藤原氏を倒そうとしていましたが、一転、保身のために同族の源高明を密告するという裏切行為に及びます。怒った土蜘蛛は、子の頼光とその四天王に祟るようになったというわけです。

源頼光の最も有名な逸話と言えば、大江山の酒呑童子退治です。酒呑童子を切った刀は「童子切」という名で、現在は国宝として国立博物館に所蔵されます。酒呑童子退治の際、四天王も同行していますが、その筆頭は渡辺綱であり、後に一条戻橋で酒呑童子の家来・茨木童子を退治しています。その際に使った刀は髭切とされ、膝切と対を成す名刀です。四天王の末席に控えるのは坂田金時です。幼名は金太郎、足柄山で育ったとされています。それにしても、なぜ頼光の化物話がこれほど人気なのか、不思議です。紙や印刷が進化し、御伽草子のブームが起きたという背景があったと言えますが、頼光でなくても良かったわけです。ひょっとすると、頼光と名刀との関わりが人々の注目を集めていたからかも知れません。(写真出典:.nohgaku.or.jp)

2024年5月4日土曜日

孟宗竹

30年ほど前のことですが、アメリカ企業と多少ややこしい交渉をしていた際、先方が決着をつけるべく役員を送り込んできたことがありました。当方の上司が、そのアメリカ人を京都旅行で接待し、交渉を有利に運ぼうと考えつきます。今思えば、実に牧歌的で、かつ姑息な策です。そして、その接待役を私が務めることになりました。車を雇って名所を巡り、食事もそれなりのところへ案内しました。ちょうど春先だったこともあり、竹の子料理の名店である長岡京の「錦水亭」にも行きました。長岡天満宮の八条ヶ池にせり出した個室で、朝掘りの竹の子づくしの会席料理をいただきました。長岡京は、古くから竹の子の名産地として知られ、柔らかく、えぐみのない竹の子はとても美味しいものです。

竹の子の刺身など、朝堀りならではの絶品でした。私は大喜びでしたが、気がつくと、アメリカ人たちは困惑の表情を浮かべていました。アメリカ人が竹の子を食べないことは承知のうえでした。ただ、アメリカでもパーム類の芽であるパルミットをサラダに入れて食べることがあるので、竹の子の美味しさも理解できるだろうと思っていました。ところが、生の竹の子には面食らったようです。そもそも竹の子を食べる習慣があるのは、中国、韓国、日本くらいだそうです。竹は、世界中の温帯・熱帯、かつ湿潤な地域に分布しますが、東アジア、南アジアで最も多く見られます。雨の多い日本は竹の北限にあたるようです。竹は、各地にあるにも関わらず、なぜ中国、韓国、日本だけで食べられるか、不思議だと思っていました。

竹の種類は、1,200種以上とも言われるようですが、食用にする竹の子は、モウソウチク、マダケ、ハチク等、ごく数種類に限られるようです。えぐみや堅さの関係なのだと思われます。竹の子を食べる習慣が、中国、韓国、日本に限定される理由は、竹の種類によるものなのでしょう。日本で食べられる竹の子のほとんどは、モウソウチクとされます。モウソウチク(孟宗竹)は、中国原産であり、日本へ伝わった時期と経緯については諸説あるようです。9世紀初頭に長岡京の海印寺に道雄上人が唐から持ち帰った、13世紀に曹洞宗開祖の道元が宋から持ち帰った等の説があります。ただ、孟宗竹が全国に広まったのは18世紀、薩摩藩が藩主の命により琉球経由で持ち込んだからだとされています。孟宗竹という名前は、中国三国時代の呉の官僚・孟宗に由来します。

孟宗は、孝行に優れた人をあげた中国の「二十四孝」の一人としても知られます。賢い母に育てられた孟宗は、出世を果たしていきます。寒中のある日、竹の子が食べたいという母のために、竹林に入り願ったところ、竹の子が地中から現れたと言います。孝行の徳の成せるわざと称賛され、以降、孟宗竹と呼ばれるようになったと伝わります。孟宗竹は、幹も太く、高さも20mを超すこともある大型の竹です。伸ばした地下茎によって繁殖する力が強いことでも知られます。食用だけでなく、竹材としても活用されてきましたが、プラスティック等に押された結果、放置された竹林が増えました。その繁殖力の強さから他の樹木の林を浸食して広がることが問題視されています。

市川市役所の前にある「八幡の藪知らず」は古くから禁足地とされ、人の手が入ることのない森でした。鬱蒼と茂る雑木林のなかには、孟宗竹もあるにはあったのですが、さほど多くはありませんでした。ところが、この20年くらいで、藪知らずは、すっかり孟宗竹の竹林に変わってしまいました。これと同じことが全国の里山で起こっているわけです。孟宗竹の繁殖力には驚かされます。対策を採らないと、広葉樹を中心とした生態系が破壊されていきます。地中に板を埋めることで地下茎の拡大を防ぐことができるようですが、もっと竹の子を食べることも対策になるのではないでしょうか。とは言え、藪知らずの竹の子を収穫して食べるとバチが当たることになるのでしょうが。(写真出典:veltra.com)

2024年5月2日木曜日

「シュトロツェクの不思議な旅」

ヴェルナー・ヘルツォーク・シリーズの第2弾として「シュトロツェク」を観ました。印象やイメージが、意識のなかに静かに染みこみ、しかもなかなか消えない、という奇妙な魅力を持ったロード・ムービーでした。自然主義的な演出や美しい映像がゆえでもあるのでしょうが、なんといっても主演するブルーノ・S(Bruno Schleinstein )のピュアな存在感によるところが大きいと思います。ブルーノ・Sは、彼を取材したドキュメンタリーを見たヘルツォークによって見いだされた素人です。ヘルツォークは、彼を「カスパー・ハウザーの謎」の主演として起用し、彼のためにわずか4日で脚本を書きあげ、本作を撮影しました。

ブルーノ・Sは、売春婦の子としてベルリンに生まれます。父親は不明でした。彼は、学習障害児として、3歳から施設に送られ、以降、教育を受けることもなく、施設や刑務所で23年間を過ごします。統合失調症という診断も受けていたようです。独学でピアノ、アコーディオン、鉄琴などの演奏を習得していきます。刑務所を出たブルーノ・Sは、フォークリフトの運転手をしながら生活し、週末には団地の中庭で自作の曲を演奏していました。本作の主人公シュトロツェクのキャラクターはブルーノ・S自身であり、作中に登場するアパートも、彼が実際に暮らす部屋だったようです。映画後半のアメリカでのパートは創作ですが、限りなくドキュメンタリーに近い作品であり、自然主義の究極の映画とも言えそうです。

ヘルツォークは、生けるカスパー・ハウザーに出会ったわけです。ヘルツォークは、自然児が文明社会に適応できない姿を端的に表現するために、アメリカへの移住という設定を考えたのでしょう。人間の本質と文明社会との不調和は、ヘルツォーク映画の変わらぬテーマです。ベルリンにおけるシュトロツェクの生活は、周囲の人々の支えもあり、奇妙ながらも成立していました。それが、強欲をベースに構成された文明社会の典型アメリカに移住することで崩壊していくわけです。シュトロツェクは、アメリカは夢の国だ、アメリカに行けば、皆、金持ちになる、と信じています。確かに、自由の国アメリカには成功に恵まれ易い構造があります。ただ、それ以上に、多くの破産者を生み出す社会でもあります。

ヘルツォークは、それを分かりやすく表現するためにローンをモティーフに使っています。物質文明の塊であるアメリカでは、いとも簡単にローンが組まれて多くの物を手にすることができます。同時に、支払いが滞れば、いとも簡単に全てが失われていきます。私も、NYに赴任した時、実に恐ろしい国だと思ったものです。船板一枚下は地獄、とは危険と隣り合わせの漁師という仕事の特性を表わす言葉ですが、アメリカ社会を表わすのにも適した言葉だと思いました。アメリカに渡ったシュトロツェクは、社会に取り残された人々を見ることになります。時代からも社会からも棄てられたインディアン居留地がラスト・シーンに選択されたことは、実に意味深いものがあります。

シュトロツェク、エヴァ、そしてベルリンの隣人である変わった老人という3人組は、中古車で目的地ウィスコンシンを目指します。ドライブ・シーンは、実に美しく、センチメンタルで、心に残る映像でした。そこで流れる音楽は、チェット・アトキンスが演奏する「The Last Thing On My Mind」です。1960年代の初めに、フォーク・シンガーのトム・パクストンが、”The Leaving of Liverpool"という船員たちに伝わる古い唄に基づき作曲しています。もとは甘くセンチメンタルな別れの唄ですが、実にカントリーらしい名曲になっています。チェット・アトキンスのインストゥルメンタルも、そこはかとなく郷愁を誘う名演です。見事な選曲です。たまらなくアメリカに行きたくなりました。(写真出典:imdb.com)

マクア渓谷