2024年5月14日火曜日

「エドガルド・モルターラ・・・」

監督:マルコ・ベロッキオ 原題:Rapito(誘拐) 2023年イタリア・フランス・ドイツ   

☆☆☆

6歳の少年エドガルド・モルターラの誘拐は、1858年、ボローニャで実際に起きた事件です。原題も「誘拐」となっていますが、立場によって解釈が異なります。モルターラ家からすれば誘拐そのものですが、少年を連れ去ったローマ教皇庁としては、カノン法に基づく正統な処置ということになります。カノン法によれば、非キリスト教徒にキリスト教徒を育てる権限は無い、ということになります。エドガルド・モルターラは、ユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ教徒として育てられました。ただ、エドガルドが重い病気にかかった時、カソリックの下女が、両親に内緒で簡易洗礼を施します。洗礼を受けずに死ねば、この子は地獄に落ちる、という素朴な信仰に基づく親切心から行ったことでした。

しかし、簡易と言えども洗礼は洗礼であり、この瞬間からエドガルドはキリスト教徒になったわけです。この理不尽な状況に、エドガルドの両親は世界に広がるユダヤ人ネットワークに助けを求めます。エドガルド・モルターラの誘拐は、新聞や書籍の大衆化という世情と相まって、世界の注目を集める事件になります。ユダヤ人の反撥だけでなく、アメリカのプロテスタント、そして欧州各国からも教皇に対する非難が巻き起こります。さらにその背景には、イタリア統一運動もありました。教皇国家は、統一に向けた大きな障害でした。フランス国王は、この事件を機に、統一運動支持に変わったとされます。非難の渦のなか、教皇ピウス9世は、強硬な態度をさらに硬化させ、エドガルドを身近に置きます。

この事件が、教皇国家の消滅、教皇の権威失墜につながったとも言われます。事件の性格としては、キリスト教とユダヤ教、ユダヤ人ネットワークの広がりといった面に留まらず、教皇国家やカノン法に象徴される中世的な世界と近代のせめぎ合いでもあります。いずれしても、近代イタリア史を語るうえでは、欠くべからざる事件なのでしょう。ところが、マルコ・ベロッキオは、事件の一面である宗教に引き裂かれた家族の悲劇というミクロ面にのみフォーカスして本作を撮っています。歴史のダイナミックな動きを描くとすれば、恐ろしく複雑で長大な映画になってしまうのでしょう。とは言え、事件を取り巻く世情についても触れざるを得ないわけですが、そこは薄っぺらな演出となっており、映画全体の質を下げています。

マルコ・ベロッキオは、おおむね社会派の監督として知られます。前作の「シチリアーノ 裏切りの美学」(2019)は、司法の協力者になった元マフィア幹部トンマーゾ・ブシェッタの半生を描いています。ブシェッタがマフィアについて告白した相手は、生涯をマフィア撲滅に捧げ、マフィアに暗殺されジョヴァンニ・ファルコーネ判事でした。ブシェッタの告白によって、初めてマフィアの全貌が明らかになったとされています。ブシェッタの半生は実に興味深いものでしたが、ブシェッタ個人を深く掘り下げる、あるいはマフィアの本質をえぐるといった映画的深さには欠けていました。本作も、実に深いテーマですが、あまりにも要素が多すぎて、焦点を絞り切れず、表面的な叙述に終始したという印象です。それでも飽きずに観られたのは、監督の手腕かも知れません。

ちなみに、バチカンで育てられたエドガルド・モルターラは、ユダヤ教に戻ることなく、神父としてイタリア国外で活動し、1940年、88歳の生涯を終えています。親切心から行われた下女による簡易洗礼が、宗教対立、ユダヤ人問題、そして当時の世界情勢に煽られるかたちで、誰もが望まなかった家族の分断を生んだわけです。何とも痛ましい事件です。家族が、再び一緒に暮らすためには、いずれかが改宗する必要がありました。双方とも、それに応じることはありませんでした。人にとって家族は大事ですが、人が生きるうえで社会や背負った歴史、そして宗教も欠かせない存在です。映画には描かれていませんが、高齢となった母親は、エドガルドとの再会を果たしています。その際、エドガルドは母親にキリスト教への改宗を強く勧めますが、断られています。(写真出典:mortara-movie.com)

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